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■旧出雲街道
旧出雲街道は播磨の国・姫路を始点に、出雲の国・松江に至る街道である。 出雲往来ともよばれ、古代には京の都から山陽道を通り、姫路や上月、津山を抜けて出雲に向かう官道であり、出雲大社への参詣の道であり、また山陰地方からは主要な上洛の道でもあった。
江戸時代になると山陰からは岩見・伯耆・出雲などが、山陽側では勝山や津山などの諸大名が江戸への参勤交代に向かう主要な街道として本格的な整備が進んだ。 沿道の各地に宿や人馬を手配する宿場が開かれたのも、大方この時期だと言う。
そんな旧出雲街道は、播磨から万ノ峠を越えると、現在の岡山県の北東部美作の地に入り、津山盆地を横切るように西に進み、途中勝山を過ぎると北に進路を変え、中国山地の四十曲峠を越え出雲に向かっていた。 この間美作路には、土居・勝間田・津山・坪井・久世・勝山・美甘・新庄に宿場が置かれ、これを「美作七宿」と呼んだ。 (津山は城下町でもあるので、宿場としては数えない)
■国境の土居宿
播磨の国境の万ノ峠を越えると真野原と呼ばれる山里に降りてくる。 そこを抜ける街道には旅人を改める東の惣門が有り、それを潜れば美作の国の最初の宿場町土居宿であった。 元禄年間には本陣や脇本陣人馬問屋場などが立ち並ぶ戸数113戸の町であったが、幕末の頃は216戸と増え、美作七宿の一つとして街道沿いでは最も大きな宿場町であったと伝えられている。
この宿場には警備のため、東西の入り口付近に惣門が設けられていたが、このように宿場の両端に総門を構えるのは全国的に見ても珍しいことらしく、それだけこの国境の地が重要な場所であったことを示している。
今日のJR姫新線「美作土居」駅前あたりの通りが旧出雲街道にあたる。 丁度その駅前が街道の西入り口にあたるらしく、この地に有ったであろう「西惣門(関門)」が復元されている。 現在では周りは田んぼばかりで、およそその場に似つかない唐突な感じの立派な建物だが、高さ6.5m、幅7.8mもある門は当時の旅人に睨みを利かす警備の場としては十分すぎる威容を誇っていたのであろう。 門には日中は番人が立ち、夜は固く閉じられ一般の通行は禁じられていたと言う。
このあたりの旧街道は当時とあまり変わらないルートで残されているが、その道幅は随分と広くなっているようだ。 残念ながら街道沿いの建物は当時のものは何も残っていない。 僅かに街道沿いの平入の低い屋並みに古を偲び、かつてを示す案内表示板でそれと知るのみである。
「西惣門」から100mほど街道を西に向かうと、両側に大木が見えてくる。 慶長年間に時の津山藩主・森忠政によって整備された旧街道の一里塚の跡で、当時は北塚には黒松が、南塚には榎が植えられていたという。松は戦時中献木のため切られ、榎も戦後切られたが、昭和47年に復元されたのが現在植えられているものだと言う。 旧道はこの先で国道179号線に吸収され、美作江見に向かう。
■勝間田宿
江戸時代の文化年間(1815年ころ)には、この地は戸数72軒人口243人との記録が残されている。 街道筋にはそれらが軒を連ね、その中には人馬を差配する問屋場もあり、人足12人、馬2匹が用意されていた。 街道の両側には小川が掘られ、近くを流れる滝川から引いた水が流れていた。 今では水路として整備されているので、その分道幅が広くなった印象だが、当時の小川はその幅も今よりは広く、人々の生活用水として利用されていたのであろう。
宿場には本陣が二つ有ったと言う。 津山藩の宿所・下山本陣や、他藩や勅使などの宿所・木村本陣跡であるが、何れも主要な建物などは何も残っていない。 街道筋には切妻屋根のナマコ塀、格子窓を構え、卯建の上がった平入の商家らしい建物も幾つか残されているが、何れも当時のままのものではなく明治以降の建物らしい。
「まさかり 担いで 金太郎〜 熊にまたがり お馬のけいこ〜♪」
童謡でよく知られた、金太郎である。宿の一角にある小さな公園には、おかっぱ頭で丸金の腹掛をし、マサカリを担いで熊にまたがるのがお馴染みの姿の像が建っている。 説明板によると、駿河の国で生まれ金太郎は、幼いころから気は優しくて力持ちで、21歳になるころには源頼光に仕え名を坂田金時と改めた。数々の手柄を立て、その後頼光の四天王と呼ばれるほどとなり、九州筑紫の征伐に向かうが、その途中厳しい寒さと大雪に阻まれ難渋を極める中、重い熱病にかかり55歳であえなく最後を遂げてしまった。それがここ勝間田の地であり、彼を祀ったのが来栖神社である。
そんな公園を中心に延びる街道の両側には小川が掘られ、近くを流れる滝川から引いた水が流れていた。今では水路として整備されているので、その分道幅が広くなっているが、当時の小川はその幅も今よりは広く、旅人や住民の生活用水として利用されていたのであろう。
通りにあって人目を引くのが、明治45年に建てられた勝田郡役所だ。 濃い緑色のしゃれたとんがり屋根の建物で、内部にはかつてこの地にあった本陣の古材・肥松が再利用されていると言う。 この場所は宿場町の真ん中に位置し、数々の変遷を経て昭和に入ると県の地方事務所となった。 この地には警察署も設けられていたようで、それらと共に常にこの地方の政治・経済の中心として役割を果たしてきた建物は、今では郷土美術館として町のシンボルとなっている。
■坪井宿から追分へ
坪井宿は、津山からおよそ二里半の距離にある。 宿場が整備されたのは慶長8(1603)年以降と言われていて、当時は近くを流れる七森川から引いた水が流れる水路が道路中央を貫き、岸辺には柳が植えられ、常夜灯も建てられていたと言う。 久米川に架かる大渡橋を渡り、緩やかに上る川沿いの旧道を少し進むと右手に坪井の一里塚跡が見えてくる。 幕府による官道整備の政令により津山藩が設けたもので、明治の初めころまで周囲8尺余りの大松が植えられていたと言う。
坪井宿はかつて明治の時代に二度の大火を経験している。そのことが有ってであろう、大正期に宿場跡の大規模な道路の改修が行われている。中央を流れていた小川は片側に寄せられ水路となり、道幅が随分と広く取られているように感じられる。本陣跡と比定されるところもあるようだが、当時を彷彿させる建物などは殆ど残されてはいな。 すっかり住宅地となった街道筋ではあるが、それでも古い宿場町の面影が随所で感じられるのは、緩やかに上る広々とした道の雰囲気と、落ち着いた佇まいを見せる低い屋並みのせいかも知れない。
坪井の宿を抜け西に向かうと旧道は所々で国道181号線と絡みながら次の久世宿を目指す。 旧道を3キロ程行った先の、岩屋川が流れるあたりに岩屋城址を指す案内板が建っていた。 岩屋城は標高483mの岩屋山山頂に築かれた中世の山城で、たびたび激しい戦乱が繰り返され、目まぐるしく城主が変わった城らしく、今でもその堅牢な遺構が良く残されていると言う。
そこを過ぎると追分一里塚跡があり、その先の国道181号線との合流地辺りに大小二基の立派な道標が建っている。 大きなほうは六角柱の堂々としたもので、「東 木山宮」「能勢妙見」「伊勢大神宮」「讃州金毘羅」「伯州大仙」などと書かれていて、昔の旅の多くが信仰への道であったことを窺わせて興味深い。 小さなほうは四角柱で、元禄年間に建てられたものらしく、刻まれた文字を読みほぐすことは出来なかった。 その先には「大山みち」と書かれた木標も建てられていて、その指す先を見るといきなりの急坂が山に向って延びている。
ここを過ぎればJR姫新線の美作追分駅はすぐそこだ。 「キリタローの里」をうたう地域らしく、駅には「キリタローの館」が併設されている。ここは霧の発生の多いところらしい。 道路を隔てた反対側には、ツツジの名所として知られる「追分公園」が有る。
■美甘宿
■交通案内
■土居宿 電車 JR姫新線 美作土居駅下車 徒歩すぐ 車 中国自動車道 作東IC下車 県道86号〜国道179号線経由 南へ約3.4Km
■勝間田宿 電車 JR姫新線 勝間田駅下車 徒歩すぐ 車 中国自動車道 美作IC下車 県道51号〜国道179号線経由 西へ約5.4Km
■坪井宿 電車 JR姫新線 坪井駅下車 徒歩 車 中国自動車道 院庄IC下車 国道181号線経由 西へ約7.2Km
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