弁柄(ベンガラ)で 栄華極めた 赤い村
■ 赤い町並
標高550メートルほどの山嶺の、緑の平原の中に忽然と姿を表す「赤い集落」。
それが「鉱山の町・備中吹屋」である。
この地では、江戸時代中頃から、幕府直轄領に銅鉱山があり、良質な銅の生産が行われていた。
更に幕末頃からは、「吹屋弁柄」が加わりその相乗効果で、中国筋でも第一と言われる隆盛を極めるようになる。
ここ吹屋は、江戸時代後期から昭和の中頃までの二百年間、日本で唯一の弁柄の産地であった。
中国山地で生産される銅や砂鉄、薪炭や雑穀はここ吹屋に集められた。
その為吹屋の町には問屋や旅篭、飲食店が何軒も並び、市場としての体を成していた。
集められた物産の荷駄は、隊列を成して吹屋街道を成羽に向け運ばれていたと言う。
荷はそこから高瀬舟に積み替えられ、高梁川を下り玉島港に集められ、瀬戸内海を使い上方や西国に送られた。
当時の吹屋の賑わいは、天領として栄えていた倉敷と比べても、遜色の無いものであったと言う。
弁柄の製造で巨万の富を得た豪商達が、今日の「弁柄の町 吹屋の町並」を作り上げたのである。
多くは赤銅色の石州瓦葺きの豪壮な切り妻二階造りの建物で、江戸末期から明治にかけてのものだ。
長者達は、石州(今の島根県)から宮大工を招き、競い合うように良材を惜しげも無く使う贅を尽くした上に、町並の統一感をコンセプトに大邸宅を次々に建てていった。
建物外観の壁や塀には、防虫・防腐効果のある弁柄を入れ込んだ漆喰壁で仕上げた。
腰高格子や出格子なども弁柄で赤く染め、こうしてセピア色の町並が出来上がった。
そんな中に白漆喰の海鼠壁の土蔵なども混じっている。
電柱が地中化された余り広くはない通りに立ち並ぶ、妻入りと平入りの入り交じる家並みは、その不統一がかえって独特な景観を醸し出している。
第二次世界大戦が終わると、安価な化学工業製の弁柄が出回り、次第に取って代わられるようになる。
と同時に、町を支え続けた銅山も廃坑になってしまう。
当然のように弁柄を扱う商家は廃業、それに引きずられるようにその他の店も閉まり、町全体が衰退し、建物はいつしか老朽化してしまった。
その後町並を保存再生させ、観光に生かそうという機運が盛り上がるのは昭和も後半に差し掛かる頃である。
その甲斐あって町は蘇り、繁栄の面影を今に色濃く残す町並は、昭和49年には「岡山県ふるさと村」に指定され、「吹屋ふるさと村」と呼ばれるようになった。
更に昭和52年には、文化庁から国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受ける事になる。
■ 豪商達の屋敷
吹屋の町並で中心的な建物が、国の重要文化財に指定された「旧片山家住宅」である。
間口は10間と、豪商の邸宅としてはそれほどでもないが、奥行きは何と40間もある。
宝暦の創業以来、200年余りにわたって「吹屋弁柄」の製造・販売を手がけてきた老舗だ。
屋号を「胡屋(えびすや)」とった。
当時の片山家は、早くから弁柄の製造を手がけ、窯元として生産・出荷量は最大クラスの中心的な豪商で、名字帯刀を許されるほどの勢いであった。
その向にあるのは、片山家の総支配人を務め、分家された家で、「郷土館」として公開されている。
間口五間、奥行き16間は、典型的な中級の商家造りであった。
石州の宮大工の手になる建物で、「これほどの良材と大工の手の揃った家は世に少ない」とまで言われる名建築とされている。
当時の片山家は千余町歩の山持ちで、そこから栗材や桜材など、選りすぐりの良材を切り出し、建材としてふんだんに利用したと言う。
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■ 交通案内
■ 吹屋ふるさと村
電車 伯備線 備中高梁駅下車 (岡山から 約50分 840円)
バス 備北バス 「吹屋」行きで終点下車 58分 800円(時刻は事前確認を)
タクシー 27q
車 岡山自動車道 賀陽ICから R484号〜R180号など経由で 39q
中国自動車道 新見ICから R180号〜県道など経由で 21q
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