先人の 知恵が救う 城下町



 

■ 百間川(旭川放水路)

 

 岡山市の南部、岡山平野のほぼ中央を流れる百間川は、旭川放水路とも呼ばれる人工の川である。

江戸時代の承応31654)年に旭川で起きた大洪水を契機に、岡山城やその城下を洪水から守るために造られた。

その歴史は藩お抱えの儒学者・熊沢蕃山(写真:上段左)が考案した荒手による「川除けの法」を基に、藩郡代の津田永忠(写真:下段中)が設計・施行したとされ、貞享4(1687)年に概ね出来上がっている。

 

熊沢蕃山

熊沢蕃山

熊沢蕃山

 

百間川(旭川放水路)

百間川(旭川放水路)

百間川(旭川放水路)

 

 「川除けの法」とは旭川の川筋に大荒手と呼ばれる堰を設け、洪水時に城下に水が入り込みそうな時はその堤を超して、田畑に水を誘導し、更に下流にも段階的な荒手を設ける事により水流を弱め、城下を洪水から守るという考えだ。

すなわち荒手は旭川が増水したときに、分流してきた水を受け止め、水の勢いを削ぎ、同時に土砂の流出をコントロールする機能を持たせたものとなる。

 

百間川(旭川放水路)

百間川(旭川放水路)

百間川(旭川放水路)

 

百間川(旭川放水路)

百間川(旭川放水路)

百間川(旭川放水路)

 

百間川(旭川放水路)

百間川(旭川放水路)

百間川(旭川放水路)

 

百間川(旭川放水路)

百間川(旭川放水路)

百間川(旭川放水路)

 

当初洪水時の流路は、一定間隔で平行する二本の簡単な堤を造りそのまま川とし、いざという時は巨大な放水路とした。

更に下流には「二の荒手」「三の荒手」を築き、水勢を削ぎ土砂が下流に運ばれるのを防いでいた。

こうして上流では平時でも放水路、下流では南部に広がる干拓地の維持という仕組みが出来上がった。

 

 安土桃山時代に行われた旭川の流路変更により河道が狭められ、洪水が頻発していた城下は、この放水路のお陰で洪水から守られるようになったものの、大雨の度に下流の村落の田畑では甚大な被害が出ていた。

しかしそれは城下へ水が入る事への利害得失を考えると、この事には目をつぶらざるを得なかったようで、その為被害のあった村落には水損に応じた「加損」という助成米を与えていたと言う。

 

 

■ 一の荒手・二の荒手

 

 平成最後の年、着手から50年を経て「百間川の改修工事」が全て完了した。

分流部から児島湾まで12.9キロの間で、分流部(一の荒手等)の改良、2メートル程しかなかった堤防をその内側に嵩上げ、排水機場の設置、水門の増設などの工事が行われている。

川を横切る旧山陽道や、市町村道などの陸閘(りくこう:河川の堤防を通常は途切れさせて道を通し、増水時にはそこをゲート等で閉塞する施設)部分は全て廃止され、道路などは新たに付け替え、橋に置き換えられた。

その一連の工事を締めくくる「一の荒手」の復元・修復工事も同年に完成した。

 

この最後の工事は江戸時代に造られた越流堤(一の荒手)を改修・復元をするもので、全長約180メートルの堤を一旦解体し基礎部分を補強し直し、修復する作業である。亀の甲と呼ばれる巻石は一つの重さが凡100キロと言われ、その一つ一つに番号シールを貼り、又元有った位置に一つ一つ戻し、かまぼこ形の堤に積み上げるものだ。

 

一の荒手

一の荒手

一の荒手

 

一の荒手

一の荒手

一の荒手

 

一の荒手

一の荒手

一の荒手

 

 これより先だって行われた流域の発掘調査では、江戸時代に築かれた「二の荒手」の存在が明らかになり、300年余りの歴史が白日に曝されることになった。

これは幅20m長さ180m、石の数は2万5千個にも及ぶ見事な石張り遺構で、その後復元整備されている。

百間川の名前の由来は、この辺りでは堤防を含めた川幅が百間(凡180m)あった事からこう呼ばれるようになったと言う。

 

「一の荒手」を乗り越えた旭川の洪水は、「二の荒手」でその勢いを弱められ、その間に土砂を沈殿させ、比較的綺麗な流れになって下流域への悪影響を押さえていたという。その下流には「三の荒手」が待ち構えていたが、その荒手は明治251892)年の大洪水で流出し、今その遺構は何も残されていない。

 

二の荒手

二の荒手

二の荒手

 

二の荒手

二の荒手

二の荒手

 

 平成302018)年の西日本豪雨の折、改修・復元がほぼ終了していた「一の荒手」では、降り続く雨で増水した旭川からの越水が始まり、7月6日未明がそのピークであるにも拘わらず、百間川に放水する事で旭川下流の水位が1.5メートルほど下がり、結果岡山市街地では、約五千戸が浸水の被害を免れたと言われている。

 

江戸時代の先人達の知恵で築かれた放水路の、その価値がこれにより証明されたのである。

そんな津田永忠の功績を郷土の誇りと称え、市民グループである津田永忠顕彰会は「一の荒手」の愛称を「永忠(えいちゅう)堤」と命名したと発表し、長く愛され、語り継がれる名前になって欲しいと願っている。

 

 

■ 百間川の遺跡群

 

 百間川の流域を含む一帯は豊かな実りをもたらす沖積平野で、昔から流域各所では住居跡や田畑の遺跡が確認されている。

中流域の河川敷の四カ所では集落跡が見つかり、総称して百間川遺跡と呼ばれている。

その一つ沢田遺跡からは、縄文後期とされる「ドングリピット」(木の実の貯蔵穴)が発見された。

 

百間川遺跡

百間川遺跡

百間川遺跡

 

百間川の遺跡群

百間川の遺跡群

百間川の遺跡群

 

百間川の遺跡群

百間川の遺跡群

百間川の遺跡群

 

百間川の遺跡群

百間川の遺跡群

百間川の遺跡群

 

百間川の遺跡群

百間川の遺跡群

百間川の遺跡群

 

百間川の遺跡群

百間川の遺跡群

百間川の遺跡群

 

国道250号線百間川橋近くの原尾島遺跡では、弥生時代の水田跡とされるかまぼこ状の畦畔や、稲株を植えたと思われる多数の痕跡も確認され、水田が広範囲に広がっていたことが解った。

又ここからは、製塩用の赤く焼けた炉が発見され、古くから塩が造られていたことが確認されている。

 

 そんな遺跡群も発掘調査が終わると多くは埋め戻され、河川敷内の江戸時代から続くとされる田畑などの耕作地などは、半世紀にも及ぶ河川改修工事により全て国(建設省・国土交通省)に買収され、今では子供向きの遊具が据えられ、緑地公園や、野球・サッカーなどの運動施設に生まれ変わり市民に広く開放されている。

 

百間川遺跡

百間川遺跡

百間川遺跡

 

百間川遺跡

百間川遺跡

百間川遺跡

 

 米田遺跡近くの河川敷内には、「笄(こうがい)の井戸」と呼ばれる伝説の場所がある。

背後には高さ56mの正木山が控え、かつて戦国時代、正木大膳康正が治めた正木城が有った地だ。

天正年間に宇喜多直家に攻められ落城寸前の日、大膳の内室・玉尾の方は姫君・初瀬を抱いて馬に乗り、山頂から斜めに駆け下り、そのまま井戸に身を投げた。後にその井戸で供養の法要を営むと、そこに笄(髪掻き)と櫛(髪梳き)が浮かび上がったと言う。

 

百間川遺跡

百間川遺跡

百間川遺跡

 

百間川遺跡

百間川遺跡

百間川遺跡

 

百間川遺跡

百間川遺跡

百間川遺跡

 

 

■ おきた姫の人柱伝説

 

岡山平野のほぼ中央を流れる百間川は、江戸時代に造られた人工の川である。

川は市内の三野辺りで旭川から分流し荒手を越え山陽新幹線や山陽本線をくぐり抜け、行く手を塞ぐ操山や笠井山の北を東に流れ、米田辺りでは東に塞ぐ芥子山を避けるようにほぼ直角に流れを南に変え、途中で砂川と合流し水量を増しながら干拓地を潤し、児島湾に流れ出ている。

 

 その干拓地は、備前平野の中央を流れる旭川の河口部と、東部を流れる吉井川の河口部を、潮留堤でもって児島湾を仕切って造成したもので、備前ではこの新田を「沖新田」と呼んでいる。

長さ六千五百十八間(およそ13q)にも及ぶ長大な堤で仕切られたこの新田の総面積は千九百十八町と言われている。

 

おきた姫の人柱伝説

おきた姫の人柱伝説

おきた姫の人柱伝説

 

おきた姫の人柱伝説

おきた姫の人柱伝説

おきた姫の人柱伝説

 

おきた姫の人柱伝説

おきた姫の人柱伝説

おきた姫の人柱伝説

 

 この新田の氏神様として藩主の命により建立されたのが、河口に近い百間川右岸に建てられた「沖田神社」である。

元々他の場所(沖元宮地)にあった古宮が、宝永61709)年にこの地に移し替えられたものだ。

御祭神は天照大神など五神が合祀されているが、更に「おきた姫」も神として祀られている。

 

 「当社を沖田神社と名付けるは、此処を開墾の時(中略)、人柱といふ生きたる人を海に沈め、其の上に堤を築きけば堤出来すという。其の沈めし女の名を「沖田」といひしにより神の名とする(後略)、」

と言う民間の伝承があり、地元では通説となっているが、今でもその真否の論争は繰り広げられている。

 

おきた姫の人柱伝説

おきた姫の人柱伝説

おきた姫の人柱伝説

 

おきた姫の人柱伝説

おきた姫の人柱伝説

おきた姫の人柱伝説

 

おきた姫の人柱伝説

おきた姫の人柱伝説

おきた姫の人柱伝説

 

 「沖田」というのは「きた女」と呼ばれた女性に漢字を当て嵌めたものとされ、この女性は開墾を指揮した津田永忠屋敷の奥女中とか、神官の娘等という説がある。また入水の場所に祀られたのが古宮であるとも言われている。

報恩感謝の気持ちが厚かった地元民は、五神に含め神名帳には乗せられないが、「おきた姫」を神として崇め、本殿の床下に祀り、これまで信仰を守り伝え続けて来た事は確かである。

 

 

■ 点字ブロック発祥の地

 

 町中の歩道や横断歩道、駅のホームなどいたるところで見かける「点字ブロック」は、目の不自由な人たちにとって、当たり前に社会生活を送り、町中を安全に自由に歩き回るには無くてはならないもので有る。

この「点字ブロック」は、半世紀以上も前の昭和421967)年318日に、全国で初めて岡山市の或交差点に設置された。

 

今や日本国内に止まらず世界中に普及しているこの点字ブロックは、ここ岡山市で考案されている。

昭和361961)年ころ、市内に住む自営業の男性がある日交差点で、白い杖を持った目の不自由な人が、危なげに車の往来する車道を横断する姿を目撃したのがそのきっかけだそうだ。

 

点字ブロック発祥の地

点字ブロック発祥の地

点字ブロック発祥の地

 

点字ブロック発祥の地

点字ブロック発祥の地

点字ブロック発祥の地

 

点字ブロック発祥の地

点字ブロック発祥の地

点字ブロック発祥の地

 

当初それはコンクリートブロックの表面に突起物を配列させた簡単な物で、旧国道2号線の横断歩道上に230枚敷設された。

場所は今日の国道250号線の、百間川に架かる百間川橋の西詰近く、岡山市中区原尾島付近の交差点辺りで、これが日本では勿論、世界でも初めての出来事であったと言う。今ではそれを記念して、318日は「点字ブロックの日」に定められている。

 

 設置された当初は、「障害者への理解が乏しく、その普及は遅々として進まず、資金集めに奔走する日々が続いた。

やがて人権意識の向上と共に交通事故から障害者を守ろうと言う声が広まり、点字ブロックの有効性が認められ、徐々に敷設されるようになりました。」(記念碑文より)

このように当初の出足は鈍かったものの、その後は急速に普及が進み、鉄道関係では昭和451970)年に旧国鉄が、大阪の安孫子町駅のプラットホームに敷設したのがその第一号と言われている。

 

 

■ 交通案内

 

 ■ 百間川源流の碑(一の荒手)

 

    バス   岡山駅前から 両備バス 旭川荘行き 「祇園」下車 徒歩  900

 

 ■ 沖田神社

 

    バス   岡山駅前から 両備バス 沖元・西大寺線 西大寺行き 「沖元」下車 徒歩  200

 

 ■ 点字ブロック発祥の碑

 

    バス   岡山駅前から 宇野バス 250号線(瀬戸、長岡駅前、片上行きなど) 「原東」下車  徒歩200

 



 

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