|
■ 四国往来・藤戸の町
藤戸は、町中を南北に藤戸海峡の名残を留める倉敷川が流れる、緑に囲まれた静かな町だ。 この町は、江戸期以降の大規模な干拓工事で陸地が造成される以前は、小さな島が点在する海であった。 干拓により藤戸海峡と呼ばれた海が消え、海峡に浮かんでいた藤戸・天城の島々は山丘となったのである。
本格的な大規模干拓は、明治期に入ってからの事で、戦前は民営の事業として行われている。 戦後も工事は引き継がれ、農林省による国営として敢行し、竣工するのは昭和38(1963)年のことだ。
川は天領である倉敷と、児島湾を経て瀬戸内海に出て、上方などとを結ぶ物資交流の重要なルートであった。 また明治に入り倉敷紡績が操業を始めると、原料となる原綿などを運ぶ運河として利用されてきた。 この為藤戸は川湊として、また物資の集散地として大層な賑わいを見せていたと言う。 しかし後年の干拓事業により児島湾が締め切られ児島湖となると、運河としての機能は無くなってしまった。
又この地は岡山城下から早島を経て、児島田の口や下津井等へ向かう「四国往来」の途中町としても栄えていた。 江戸時代には児島の由加山に立ち寄り、その後舟で四国に渡り金比羅さんに詣でる両参りが大流行した。 そのため、町中を大勢の参拝客が行き来したらしいく、道筋には思わぬところに古い道標なども残されている。
町中は入り組んだ細い道が多く、往時の街道の面影を良く残している。 中には倉のある家や、白壁や海鼠壁の屋敷等、切妻造平入りの重厚な家並みも有り、往時の繁栄を偲ばせている。
■ 要衝支えた盛綱橋
藤戸の町中を流れる倉敷川に、赤い欄干の印象的な橋が架けられている。 当初は徒渡りであった川にも、要衝の地らしく正保4(1647)年には、いち早く橋が架けられている。 最初は「藤戸大橋・小橋」と呼ばれる木橋が架けられ、後に永代橋が架かるのは、大正15(1926)年の事だ。 まだまだ舟運が盛んな頃で、支障が無いように無橋脚のトラスドランガー橋が架けられた。 橋の名は、源氏の猛将・佐々木盛綱に因み、時の県知事・佐上信一により「盛綱橋」と命名された。
幾星霜の風雪や、過酷な使用に耐えた橋も、何時しか老朽が進んでいった。 昭和のモータリゼーションの時代が訪れると、車が増え大型バスが行き交うにはこの橋では手狭となった。 加えて重量制限6トンではさすがにこの先心許なく、橋は架け替えられることになる。
平成元(1989)年、総工費1億円余りを投じ、赤い欄干の二代目の「盛綱橋」が完成した。 橋には藤戸合戦の歴史を後世に伝えんと、盛綱が藤戸海峡を渡る馬上姿の同像が飾られた。 欄干の四隅には、戦の様子を描いた銅板も飾られている。
■ 「佐々木憎けりゃ笹まで憎し」・源平藤戸合戦
一の谷、鵯越の合戦で源氏に敗れた平家は、数千の死者手負いを残したまま、散々な姿で四国の屋島に集結した。 大打撃を受け、呆然と成りながらも安徳幼帝を奉じ、そこに本拠を構え立て直しを図ることになる。
その頃大将の平資盛(「吾妻鏡」では平行盛)は、備前の国・藤戸に布陣していた。 海峡の西岸、児島から粒江・種松山に陣を敷き、源氏と対峙していたのだ。 対する源氏の大将は源範頼で、兵数千騎を従え海峡を挟んで藤戸・日間山に相対したのである。
しかし兵舟を持たない源氏は、「うみのおもて五町ばかりへだて」と言われる僅かな海峡が越えられない。 平家から度重なる挑発を受けるも、攻めあぐね苦戦を強いられていたのである。 この時平家は、海底に「菱を植え、蜘蛛手を結いて」源氏を海に誘き出そうとする作戦であった。
そんな折、源氏の武将・佐々木盛綱が、地元の漁師から騎馬でも渡れる浅瀬の存在を聞き出すことに成功する。 漁師は、小袖や白鞘巻などの褒美と引き換えに、平家の陣地まで浅瀬で渡れるルートの存在を教えたのである。
ところが盛綱は、このことが敵方に漏れるのを恐れ、口封じの為この漁師を殺害してしまう。 無残にも斬り殺された漁師の死体が流れ着いのは、「浮洲岩」との言い伝えが残されている。 (余談になるが、織田信長により二条御所に持ち出され藤戸石は、この浮洲の岩であったと言われている。 岩はその後秀吉により、醍醐寺三宝院の庭園の主人石とされた藤戸石の事である。)
当時武士の目的は、戦で手柄を立て功名を成し、恩賞の土地を得る事だ。 その為には戦では後れをとるわけにはいかず、何としても先陣を切りたい思いである。 血を血で洗う戦場での立場なら、敵方や無名の民を欺すことなど、不名誉とはされていなかった。
浅瀬の存在を地元の漁師から聞き出した盛綱は、躊躇いも無く口封じをしてしまったのだ。 褒美と引き換えに、亡き者にされた漁師には、年老いた母がいた。 息子の無残な最後を知らされた老母は、嘆き悲しみの毎日である。 思いあまった老母は、「佐々木憎けりゃ笹まで憎し」と、付近の山の笹を全部抜いてしまった。 以後その山には笹が生えなくなってしまったと言う。(笹無山伝説)
先陣の功を焦る盛綱は範頼の制止も聞かず、僅か7騎の股肱を従え「乗出岩」から騎馬で浅瀬に乗り出した。 途中「鞭木」で兵を一旦休ませ、対岸の「先陣庵」に上陸し平家を攻め立てたのである。
当時は、騎馬で海を渡るなど不可能と考えられていた時代である。 自信に満ちた盛綱の後ろ姿を見て、馬で渡れることを知った範頼は、源氏方3万全軍に進軍の命を出した。 これにより、布陣する平家軍との間で激しい争いが繰り広げられることになる。
「先陣庵」は、真言宗善通寺派の西明院という寺の境内にある。 嘗ては広大な敷地を要し、壮大な寺院であったらしいが、何時しか廃れ今日ではこの一宇の小庵が残るのみだ。 後世になってこの地では、地中深く掘ると、錆びた武具や人骨が沢山出土したと伝えられている。
平家との間で激しい戦闘が加えられたが、結果破れた平家は、舟で屋島への撤退を余儀なくされたのである。 安徳天皇を奉じ、内裏を置いた屋島であったが、ここも安住の地とはなら無かった。 その後、熊野水軍や摂津水軍を味方に付けた源義経の奇襲に遭い、敗れて海上へ逃げ出した。 四国屋島の内裏を失い、一族郎党舟に乗り退散、ついに壇ノ浦に追い詰められてしまう。 ここでも海戦で敗れた平家は、安徳幼帝を道連れに、哀れ西海の藻屑となり滅亡することに成る。
■ 菩提を弔う寺・藤戸寺
そんな哀しい伝説の地の、小高い丘の上に古刹「補陀落山千手院藤戸寺」は建っている。 高野山真言宗のお寺で、その昔藤戸の海より浮かび出た千手観音を奉安し本尊としたのがこの寺の始まりだ。 天平年間の行基菩薩による創建だと言う。
平家滅亡後、源氏方の総大将・源頼朝は、佐々木盛綱の先陣の功を先例無き事と激賞した。 盛綱はその恩賞として、鎌倉幕府から備前国・児島の地頭職に任じられ、知行地を得た。 着任した盛綱は、土地の有力者などに服従を求め、誓紙を差し出させたと伝えられている。 以後一族はこの児島に土着し権勢を奮う事に成り、備前地域がその後も東国武士との関わりが残るようになる。
地頭として当地に着任した佐々木盛綱は、手始めに戦で荒廃した藤戸寺の復興をはかることになる。 その折、一人の老婆が口封じのため我が子を殺したと追求、謝れと激しく迫る。 白を切る盛綱も、執拗な追求と哀れな姿に心打たれ、罪を認め両軍戦死者や漁師達の為に供養の管弦講を約束する。
寺の境内、本堂北側には盛綱の子信綱が供養のために建立したとされる「五重の石塔」が残されている。 高さ355pもある花崗岩製で、鎌倉時代中期頃の作とされ、県の重要文化財に指定されている。
最もこの老母の存在は史実ではなく、後の室町時代に謡曲で創られたエピソードらしい。 源平藤戸合戦の先陣争いをした盛綱や、殺された若い漁師(浦の男)の恨みを題材にして、創られたそうだ。 若き命を奪われた青年の悲しみと、老母の怒り、親子の情愛を描くことで、残忍な武士の仕打ちを暴き出した。 不条理なその理不尽と、人の命の重さ尊さを訴えている。
盛綱は写経した経を、お寺の飛び境内であった対岸の島に埋めた。 この島は今では地続きとなったが「経が島」と呼ばれ、頂上には漁師追福の宝篋印塔も建てられた。 恨みを持って死んでいった漁師も、この供養で心が晴れ、ようやくに成仏できたという。 (現在崩落が激しいため、「経が島」には登れない。)
藤戸寺では弘法大師の命日である21日には、毎月縁日が開催されている。 特に5月の命日は、盛綱公や両軍の戦没者、漁夫の供養も併せて盛大に行われるという。 また夏至の頃には、沙羅の花(夏椿)の「観る会」が開かれる。 「平家物語」の一説「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色・・・」で知られた花だ。
■ 供養のまんじゅう
倉敷川の袂に、倉敷銘菓「藤戸まんじゅう」本店の重厚な構えの店が建っている。 この店舗は、明治時代も初期の頃に建てられたもので、築100年以上経つと言う。
盛綱による供養は藤戸寺で盛大に行われ、その折、近くの民家からは饅頭が供えられた。 それを起源とするのがこの「藤戸まんじゅう」とされている。 この饅頭屋の創業は寿永3(1184)年と言うから、鎌倉幕府の成立よりも早い老舗である。
当初の事は記録もなく良く解からないが、今の物とは形も味も違うお餅に近い物であったらしい。 現在の形になるのは江戸後期の文化年間で、初期の頃は、藤戸寺境内の茶店で販売されたりした。 また、参拝者向けに配られたりしていたが、江戸時代前期には店舗を構え販売を始めたそうだ。
地元産の麹を使った酒粕から絞られた甘酒と小麦粉が原料の薄皮で、十勝産の小豆で作るこし餡を包む。 ほのかに甘酒が香る薄皮まんじゅうで、透明な薄皮と餡の絡みは絶妙だ。 口に含めばなめらかでしっとりとした舌触り、まろやかで上品な甘さが感じられる。
無添加で素材の味を生かした、素朴で飾らない倉敷銘菓である。 岡山にはよく似た「大手まんじゅう」もあり、共に歴史を誇り、何かと比べられる。 しかし、何れも地元からは絶大な支持を得ていて、甲乙付け難い岡山が誇る銘菓には間違いない。
本店は、映画「ALWAYS三丁目の夕日」の撮影でも使われた、昔を感じさせる建物だ。 店舗の前には旧藤戸町の「道路元標」が今も残されている。
■交通案内
■藤戸寺・藤戸饅頭本舗 電車 JR宇野線 植松駅下車 北西に徒歩 約2.2Km バス JR倉敷駅前より下電バス 天城線児島駅行で 藤戸寺下(約20分)下車すぐ 車 瀬戸中央自動車道 水島IC下車 北東へ 県道21号など経由で 約3.6Km
(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved. |