ずに浮く 平城哀れ 兵糧戦

 

高松城の水攻め

 

 備前地方の戦国時代は、岡山城に移った宇喜多直家・秀家父子によりほぼ終焉した。

その後直家がこれまで同盟関係にあった毛利氏と手を切り、全国統一を目指す織田信長方に付いたことにより、この地は西方をにらむ最前線の基地となったのである。そんな中、「備中高松城」での攻防が始まった。

 

 この地は北に吉備高原のなだらかな山並みが迫っている、とは言え辺りは僅かばかりの小高い丘があるのみの平坦地で、一面田畑が広がり小さな沼が点在する、見るからに低湿地帯である。この城はこんな地を天然の堀として巧みに利用した典型的な平城で有あったようで、よく見るシンボルとも言えるような壮大な石垣は無く、多くは土塁によって固められていた。

 

 羽柴軍2万、宇喜多軍1万が合流し岡山に攻め込んだ信長軍は、5千の兵で籠城する城を攻めあぐねていた。

そんな中こんな地勢に着目した羽柴秀吉の軍師・黒田官兵衛は、城を囲むように12日間でおよそ3キロメートルの堰堤を築き、近くを流れる足守川を堰き止め城を水攻めにした。

元々水量は左程多くは無い川であったが、折しも梅雨時で川は増水し辺りは水浸し、城は水中に孤立した。

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

 『浮世をば 今こそ渡れ 武士の名を 高松のコケに残して』

 

1か月にも及ぶ攻防の結果、城主・清水宗治が城兵の命と引き換えに自刃、城は落城した。

折しも京の本能寺では、織田信長が明智光秀の謀反に倒れ、それをひた隠しての講和であった。

その後秀吉の中国大返しにより、歴史が大きく動いたその端緒となった舞台でもある。

 

備中高松駅の裏手、歩いても10分とはかからないところにある「高松城址」は、「高松城址公園」として整備されている。

入口近くには資料館があり、模型やパンフレットなどと合わせ、ボランティアガイドによる説明を受けることも出来る。

広場には芝が張られ、その中央には7000平方メートルにも及ぶ広大な堀池が有り、毎年7月中頃ともなると「宗治ハス」が美しい花を咲かすと言う。そんな堀池を巡るようにつけられた遊歩道を歩いてみてもほとんど起伏のない道で、このお城が平坦地に築かれたことが良く解る。

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

本丸跡には近くの山中から改葬された清水宗治の首塚があり、傍らに辞世の句を記した石碑が立っている。

城跡を出ると、周辺には宗治自刃の地(顕彰碑)や、主君の後を追った家臣が互いに刺し違えて自刃した場所と言われるこうやぶ遺蹟、秀吉が築いた築堤跡など見所も多い。

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

 本丸跡の前に店を構える「清鏡庵(せいきょうあん)」は、老舗の小さな和菓子屋で、この「宗治饅頭」は、城主清水宗治に因んだこの店の名物の一つである。やや小ぶりで、白あんと、小豆あんの二種類有り、何れも「添加物は一切使っていない」と言う。ほんのりと栗色に焼かれた皮は薄く、甘さ控えめの餡がぎっしりと詰まっている。素材の風味をそのまま生かした饅頭で、その飾らない素朴さがよく、とても美味しい。

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

備中高松城

備中高松城

備中高松城

 

 

■高松最上稲荷

 

高松城址公園の近くに、大きな朱塗りの鳥居が建っている。「高松最上稲荷」のものだ。

鉄筋コンクリート製で、高さは27.5m、柱の直径4.6m、道路をまたぐ柱間は19mと言う巨大なもので、総重量が何と2,800トンもあると言う。平成の改修では、邪気を振り払うとされる弁柄(ベンガラ)色に塗り込まれた。

赤みを帯びた、赤銅のような光沢のある濃い茶色が、青空に一際大きく目立って見える。

 

「高松最上稲荷」は、正式には「最上稲荷山妙教寺」と言う神仏習合の日蓮宗のお寺である。

元々は山岳修行の道場として栄えた地で、開山から1,200年を迎えると言う。

ここは伏見、豊川と並ぶ日本三大稲荷の一つとされ、県下では「お稲荷さん」「高松稲荷」などと呼び親しまれている

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

駐車場からは仁王門に到る参道が続いている。参道は緩やかに登る600mほどの坂道に成っていて、両側には旅館や土産物屋や食事処など凡そ50軒が犇めき合い、昔ながらの門前町の風情を色濃く残している。参拝の人々はそんなお店を冷やかしながら、時には名物のごえん饅頭やゆずせんべい手に、本殿に向かうのである。その姿は、今も昔も変わらない。

 

境内には「緑の末社」が有り、近頃では離縁・結縁について参拝する人が多いと言い、社務所ではそんな人々に正式な参拝方法を教えてくれる。それは偶数月に「離別天王」にお参りしまず今の悪縁を断ち、次の奇数月に「縁引天王」にお参りし良縁成就をお願いするとやがて思いがかなうと言うものだ。

 

新年の開運大祈願祭が行われる正月三が日の参拝者は60万人を数え、これは県内では最大規模だ。

また節分では、有名芸能人や著名人らを招いて行われる豆まき式でも大勢の参詣者で賑わい、この巨大な本殿前の広場は福を求める人々で埋め尽くされる。

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

 備中高松駅の裏辺りから山に向け、県道と並走するように自転車道が通っているが、これは昭和19年、吉備線の国有化(国鉄)と同時に廃線になった鉄道の跡で有る。明治37年に中国鉄道の吉備線として開通したその7年後、当時稲荷駅と称していた今の備中高松駅から、「高松最上稲荷」のある稲荷山までの2.4Kmの間で、中国鉄道の稲荷山線が開業している。人々は稲荷駅でこの線に乗り換え、「お稲荷さん」の参詣に向かっていたようだ。

当時の稲荷山線の終着駅は、現在麓に広がる大駐車場の辺りであったらしい。

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

高松最上稲荷

高松最上稲荷

高松最上稲荷

 

 

■交通案内

 

 ■高松城址公園

    車   岡山自動車道 岡山総社ICから東へ 国道180号線経由で 約2.8KM

    電車  JR吉備線 備中高松駅下車 北へ徒歩0.6Km

 

 ■高松最上稲荷

    車   岡山自動車道 岡山総社ICから東へ 国道180号線経由で 約5.2KM

    電車  JR吉備線 備中高松駅下車 北へ徒歩3.5Km

    バス  JR岡山駅前から 中鉄バス稲荷山線で稲荷山下車(約40分) 徒歩すぐ

                     大井線で稲荷参道口下車(約35分) 北へ徒歩2.7Km

 

 



 

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