かいでも 誇りは庶民の 閑谷校

 

■特別史跡 旧閑谷学校

 

池田家の墓地選定のため当地に立ち寄った時の岡山藩主・池田光政は、風光明媚で清閑な環境に感動し、孔子の儒教に基づいた学校の地に相応しいと確信、家臣の津田永忠に建設を命じた。1670(寛文10年)のことである。

文治を藩政の基本とした光政は、領内に123か所の藩直営手習い所を設けている。

その一つとしてのスタートではあったが、この地だけは当初から学校として、飲室、学房、講堂、聖堂などが整備された。

 

 光政の死後その精神を引き継いだのは長男の綱政である。

1684(貞享元年)から1702(元禄15年)の二十年をかけて、講堂などが大改築され、今日目にするような特別史跡 旧閑谷学校の姿に生まれ変わっている。

 

閑谷学校

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閑谷学校

閑谷学校

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閑谷学校

閑谷学校

閑谷学校

 

閑谷学校

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閑谷学校

 

 旧山陽道から北に凡そ3キロメートルほど入った、旧道に学校の入り口を表す石門が残っている。

高さは、4メートル余りとされているが、今ではその2/3以上が土に埋まり、背丈ほどの擬宝珠型をした頭部のみが見える。

ここからが学校の敷地となり、学田や学林が広がる中を一キロメートルほど行くと正門があった。

 

 その正門は、鶴鳴門と呼ばれていた。

門を開け閉めするときの音が、鶴の鳴き声に似ていることから名付けられたという。

切り妻造りの屋根は、備前焼の本瓦葺きで、棟には鯱が一対乗っている。

門の先には、儒学の殿堂をなす中心的な建物、孔子像を祀る聖廟が見える。

 

閑谷学校

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閑谷学校

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閑谷学校

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 門をくぐり広場を横切り、19段の石段を上がると外門が有り、それを潜ると孔子像が祀られた、聖廟(孔子廟)である。

学校内では、最も古いとされている建物である。

その東に建つ東御堂とも呼ばれる閑谷神社は、学校の創始者である池田光政公を祀っている。

 

 学校の中心的な建物である講堂は、国宝に指定されていが、内部は公開されている。

入母屋造りの堂々たる建物で、その大きな屋根は、すべて備前焼の瓦で葺かれていて、その備前焼特有の窯変は美しく、これが大きな魅力となっている。備前焼の産地である伊部周辺の職人が大勢集められ焼かれたものだという。

講堂は10本の欅の丸太に支えられ、その周りの花頭窓から明かりを取るだけのシンプルな造りではあるが、そこ透かす光は柔らかくてとても暖かい。吹き漆仕上げの柱も床もしっかりと拭きあげられ、その黒光りが特に美しい。

 

閑谷学校

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閑谷学校

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閑谷学校

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閑谷学校

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閑谷学校

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 学校の敷地を石塀が取り巻いている。

幅、高さとも2メートルの、かまぼこ形をした石組みで、その長さ、765メートルほどである。

形の不揃いな水成岩を巧みに組み合わせており、元禄年間に造られたにも関わらず、その隙間からは未だに一本の雑草も生える事が無い不思議な石塀である。

 

聖廟の前には赤と黄の一対の学問の木と言われる櫂の木が有る。

秋には紅葉する木で、その盛りにはライトアップされ幻想的で素晴らしい景観を見せてくれる。

 

閑谷学校

 

閑谷学校

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閑谷学校

閑谷学校

閑谷学校

 

 閑谷学校が作られた当時、城下には藩士のための学校「岡山藩学校」は設けられていたが、ここは当初から庶民も一緒に学べる学校として創建されている。いわば我が国では最初の庶民のための公立の学校で、現存する日本最古の学校建築である。

国宝に指定されている講堂をはじめ、聖廟や神社、石塀などが重要文化財に指定されている。

 

閑谷学校

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閑谷学校

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■交通案内

 

   ■ JR電車 山陽本線吉永駅下車、タクシー(約8分)叉は、徒歩(3.4Km 60分)。

         赤穂線備前片上駅下車、タクシー(7.9Km 10分)

   ■ 高速道路 山陽自動車道備前IC下車。

国道2号を岡山方面へ、閑谷学校入口を右折、県道261号経由で(9.3Km 約15分)



 

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