どの世に 永忠造る 大庭園

 

■特別名勝・岡山後楽園

 

 江戸時代、備前の国を治めた岡山藩六代藩主・池田綱政が、家臣津田永忠に命じて造園した大名庭園は、14年の歳月を費やして、元禄13年に一応の完成を見た。岡山城の対岸にある同時代を代表する林泉回遊式庭園は、四季折々の景観が楽しめる、日本屈指の庭園でもある。水戸の偕楽園、金沢の兼六園と共に、日本三名園の一つとして国の特別名勝に指定されている。

 

 旭川に架かる鶴見橋を渡ると、後楽園の正門がある。門を入ってすぐ右手の建物が、「鶴鳴館(かくめいかん)」で、お殿様の一族が来たときや、お客様をもてなす時に使われた施設で、いくつかの部屋と台所などを備えている。

今では結婚式や同窓会などで、一般市民が借りることが出来る建物でもある。

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

 

その隣の茅葺屋根の建物が「延養亭(えんようてい)」で、藩主が園を訪れた時の居間として使われたものだ。

時には高名な学者を招いて、藩主が学問をしたのもこの場所で、園内外の景観を眺めるには一番の場所に建っていて、園の中心的な建物である。現在の建物は昭和になって再建されたものである。

 

 後楽園は、「沢の池(さわのいけ)」、「花葉の池(かようのいけ)」、「花交の池(かこうのいけ)」などを水路で結び、そこに築山や樹林帯、芝生の広場、建物などを巧みに配し、それらを結ぶ園路を巡りながら楽しむ工夫がされている庭園である。

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

 建物の周囲には壁が無く、中央に水路が通る珍しい造りの建物は、「流店(りゅうてん)」と呼ばれている。

藩主が、園内で行われるお田植え行事を眺め、庭園の散策時の休憩場所として使われた。

「唯心山(ゆいしんざん)」は、園のほぼ中央に位置する園内では一番高いところである。

ツツジの咲く頃が特に美しい。く、ここからは、三つの島を浮かべた「沢の池」を見下ろす事が出来る。

クヌギ丸太で組まれた、「五十三次腰かけ茶屋」の、竹と木の枝で造られた連子窓からは、庭園の向こうに岡山城(金烏城)の雄姿を望む事も出来る。

 

 園は日本庭園としては珍しい、芝生の張られた広場が広がっている。冬場は、枯れた茶色のしっとりと落ち着いた感じの庭を見ることが出来る。早春には、芽吹きを良くし、害虫を駆除するために、芝焼が行われ、一面黒一色に覆われる。そして、春から夏にかけて、新芽が延び、鮮やかな緑に覆われる。このように、季節ごとに芝の趣が異なる庭園風景を楽しむこともできる。

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

 

後楽園のお正月

 

 『後楽園仍在 烏城不可尋願 将丹頂鶴作 対立梅林 一九五五年』

 

 岡山後楽園の片隅に建っているこの漢詩は、岡山の旧制第六高等学校で三年間を学び、帰国後は後に中国科学院院長になった郭沫若(かく・まつじゃく)氏の直筆で書かれた石碑である。

「留学時代が懐かしい後楽園も、戦災で城を失った今の眺めは寂しい限り、せめて梅林に鶴を立たせて良き伴侶としたい」

こんな意味だそうだ。

 

 戦後、氏は中国学術文化視察団を率いて、37年ぶりに岡山の後楽園を訪れている。

その折、岡山城(烏城)が戦争で焼け落ち、園の丹頂鶴が絶滅したことを聞かされ、そんな状況を嘆き見兼ねて、後日鶴を贈ることを約束し帰国の途に就いた。

約束通り昭和31年中国からの引き上げ船に乗せられ2羽の丹頂鶴が舞鶴港に到着した。

その日の内に汽車で岡山に運ばれ、後楽園の新居に移された。

それを元にその後釧路市などの協力を得て交配・孵化・繁殖・飼育させたものが、現在では8羽ほどに育っている。

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園では築園当初から丹頂鶴が飼育され、江戸時代には群れを成していたと言われるが、その後その数は次第に減り、大戦の後にはついに絶滅していなくなってしまった。

園内には鶴鳴館、近くには鶴見橋など鶴にちなんだ名前が有るように、昔から鶴は後楽園のシンボルであった。

 

「タンチョウ」はその飛ぶ姿や立居が優雅で、そんなことから瑞鳥と言われ、国の特別天然記念物に指定されている鳥だ。

園では毎年正月になると初春を彩る「初春祭」が開かれ、その折この瑞鳥の放鳥がある。

この日は係員の声に追い立てられ、金烏城とも言われる岡山城を背景にして、冬枯れの芝生の上を、池の上を、そして人々の目の前を、優美に優雅に舞うタンチョウの姿を間近で見ることが出来る。

瑞鳥がゆっくりと、大きく飛翔する姿に人々は酔いしれ興奮し、感嘆の声を上げるのである。

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

後楽園

後楽園

後楽園

 

金烏城(岡山城)

 

 岡山市街地の東部には旭川が流れ、その分流に取り囲まれるように天神山、石山、岡山と呼ばれる高さのない小高い丘があり、複雑な地勢を要塞とした城(砦)が戦国時代には築かれていた。

豊臣秀吉の天下取りが行われ、宇喜多氏による当地の支配が成ると直家は石山城に入りこれを改築、この子・秀家は秀吉の命により隣接する岡山に本丸を築き、この一帯に城郭を発展させ今日の岡山城の礎とした。

当時の岡山城の本丸は、大阪城を模したともいわれる金箔瓦を施した豪華絢爛な姿をしていたと言う。

 

明治の廃城令により全国の城が取り壊される中、後楽園の南に建つ岡山城は、堀の多くが埋め立てられ市街地として変貌を遂げたものの、本丸や月見櫓・西手櫓や石山門は残された。

戦前には天守が国宝に指定されていたと言う名城だが、残念ながら昭和20629日の岡山大空襲で市街地と共に焼け落ちてしまった。

 

郭沫若氏が「戦災で失った・・・」と寂しがった城は、昭和41年に鉄筋コンクリート造りで再建された。

天守屋根の鯱は、金色に輝いていたと伝わる史料に基づいて、築城400年を記念した平成8年に金箔が施された。

黒漆塗りの下見板が特徴的な岡山城はその色から「烏城(うじょう)」と呼ばれていたが、今では「金烏城」と呼ばれるようになった。

 

金烏城

金烏城

金烏城

 

金烏城

金烏城

金烏城

 

金烏城

金烏城

金烏城

 

金烏城

金烏城

金烏城

 

金烏城

金烏城

金烏城

 

金烏城

金烏城

金烏城

 

金烏城

金烏城

金烏城

 

金烏城

金烏城

金烏城

金烏城

 

 

■交通案内

 

■岡山城・後楽園

車  岡山自動車道 岡山IC下車、国道53号線等経由 約7Km 20

電車 山陽新幹線・JR山陽本線 岡山駅下車 

・路面電車 「岡山駅前」から東山本線に乗り、「城下」で下車(約5分)、徒歩10

・路線バス 「岡山駅前」から岡山電気軌道・藤原団地行に乗り、「後楽園前」で下車、すぐ

・タクシー  約1.8Km 約10

・徒歩    約1.8Km 約30



 

| ホーム | はれのくに | このページの先頭 |

 

(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved.

 

inserted by FC2 system