『黄金花咲く陸奥の山野を、北から南へ悠々と流れる北上川は、北上山脈に連亘し、
漸く南部平野の南端に達するあたり、束稲山の山容を映し西から注流する衣川の合流地点に近く、
鬱蒼たる関山が望見される。その丘陵に衣が関が有った。(中略)
その頃この地方に足を踏み入れた有徳の僧が有った。(中略)関山の地相を見て此所を霊地なりとし一宇の堂を建て
自ら石に仏陀の尊像を刻んだ。』 「平泉中尊寺」(昭和42年3月 淡交社)
作家であり天台僧である「今東光」は、後に中尊寺の貫主にもなった人物である。
彼はその著書で、寺の開山と、それに関わった円仁法師・慈覚大師をこんな風に紹介している。
創建は850年と言う古刹、「関山 中尊寺」は天台宗東北大本山で、その寺号は清和帝から賜ったとされている。
その後一旦廃れるが、1100年代に奥州を治めた藤原氏初代・清衡が寺の中興に着手した。
多宝塔を建立し多宝如来・薬師如来を安置した歴史を持ち、これが実質的な寺の開基とも言われている。
寺は標高130m程の関山という東西に長い丘陵地に位置しているため、この月見坂が寺への表参道となっている。
道の両側には江戸時代伊達藩により植えられたという、樹齢300年を超える巨大杉の並木が鬱蒼と続いている。
喧騒の国道はこの杉並木により隔離され、境内に入り込むと参道は静寂に包まれていて異次元の世界となる。
凛とした早朝の冷気が肌を刺し、吐く息も白く、身がキリリと引き締まり、心を洗われるひと時が静かに過ぎている。
「月見坂」の途中には、源氏の氏神として広く信仰された八幡大菩薩を祀る「八幡堂」が静かに佇んでいる。
更に上ると、かつては仁王尊を安置していたという総門跡が有るが、今は柱が立つのみだ。
その先に入母屋屋根・総ケヤキ造りの「弁慶堂」が建っている。
江戸文政年間の建立で、本尊の勝軍地蔵と共に、弁慶衣川立ち往生の等身生木像が祀られている。
古くは愛宕堂と呼ばれていたが、明治以降こう呼ばれる様になり、当山の中では人気の高いお堂らしい。
その先では右手の木立が途絶え、大きく視界が開けると、東物見台だ。
正面に束稲山、その足元を北上川の支流・衣川が悠然と流れる南部平野が眺望でき、何とも雄大で見事な眺めである。
傍らに平泉を訪れた際に西行が詠んで「歌碑」も立っている。
“ききもせず 束稲やまの桜かな よし野のほかにかかるべし”
当時束稲山は「桜山」とも呼ばれ、全山に1何本とも言われる桜樹が植えられていたという。
奈良吉野山の桜と比べても遜色がないほどに美しい光景を見せていたのであろう。
更に「地蔵堂」や「薬師堂」などの堂宇を見て、「月見坂」を登りつめると、本坊に向かう山門が見えて来る。
十段ほどの石段があり、それを上がると広い境内の正面に「本堂」が建っている。
本堂には一丈六尺と言う釈迦如来座像(像高約2.7m・総高約5m)が本尊として祀られている。
本山延暦寺から分けられた「不滅の法灯」が燃え続けると言う一山の根本道場である。
中尊寺は、ほとんどの伽藍が火災で焼失している。
そんな中で、金色堂・経蔵だけが焼け残ったと言うのは、むしろ奇跡としか言いようがない。
多くの建物は近代に再建されたもので、この「本堂」も、日露戦争が終わった四年後の明治42年の再建である。
『おもしろいことに、その屋根のかたちが、どことなく神社や京都御所に似ている。(中略)
隆盛する神道の影響を受けたのだろうか、寺院でありながら神社を思わせる建築物になっている。』
(「百寺巡礼 第七巻東北」 2004年12月 五木寛之 講談社)
「本堂」を見て、その中に入り、初めてお参りした作家の五木寛之は、興味深い感想を述べている。
ナショナリズムの高揚、神道崇拝と言う再建当時の背景から、建物にもその時代が微妙に反映されているという。
「中尊寺」は一山の総称で、本寺と山内17の支院で構成されている。
嘗ては、藤原氏四代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)に渡り、平泉文化と共に栄華を極めたという。
最盛期のその規模は、「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」といわれる堂々としたものであった。
しかし平家を打倒した源義経が兄頼朝と対立し、この地に落ち延びてきた事で平和で極楽なこの地の歴史が動く。
頼りとした三代・秀衡が死ぬと、頼朝は四代・泰衡に圧力をかけ、これに動じた泰衡は義経に夜討を掛ける。
潮時と悟る義経はこの地で自害、その後泰衡も鎌倉勢の前に成す術もなく滅ぼされてしまう。
鎌倉幕府により寺院の安堵は約束されるが、藤原氏100年の栄華には及ばず、寺は苦難の時代を迎える事になる。
「金色堂」の完成は天治元(1124)年で、起工して十六年の歳月を要し、初代清衡公による上棟と伝えられている。
以後「金色堂」は中尊寺創建当初の姿を今に伝え、建造物として国宝第一号の指定を受けた。
境内の奥まった一角、両側に老杉が何本も林立する小高い丘の上、緩やかな傾斜の段を登りつめたその先にある。
山道を上り詰め、やっとの想いで参拝に訪れる人々を、恰も極楽浄土へ導くかのように静かに迎え入れている。
堂内に入ると、落ち着いて安定した冷気が体に纏りついてくる。
微かな空調の音以外は何も聞こえない室内は、温度や湿度が完全にコントロールされているようだ。
内部には隔離されたガラス張りの小部屋が有り、その中央に黄金色に輝くお堂が端正で瀟洒な姿を見せている。
嘗て民衆に開放されたお堂は、今日ではガラス越ししか眺められないし、写真の撮影も禁止されている。
しかも金色の堂内に上がることが出来るのは、僅かに中尊寺貫主のみが許されているという。
作家の井上靖が「黄金の小函」と形容した美しい小堂は、ため息が出るような煌びやかな美しさである。
鳳凰が大きく優美に羽を広げたように、美しい反りを見せる仏堂の屋根は、南部檜の木瓦で葺かれている。
宝形造り形式で、この反りは平安朝の特徴といい、梁も庇も、柱も扉も、何もかもすべてが黄金色に輝いている。
正面に三つの入り口を持つ建物の内部を覗くと、四本の柱に囲まれた須弥壇がある。
眩いばかりの黄金と、煌びやかな螺鈿、繊細を極める蒔絵が施され、格天井や長押までもが黄金色に輝いている。
中央に本尊の阿弥陀如来像、周りには観音菩薩や勢至菩薩、地蔵菩薩などの諸仏が守護をしている。
ここは藤原四代が求めた極楽浄土で、須弥壇の中には藤原四代のご遺体が安置されている。
昭和25年に行われた学術調査では、須弥壇の下に安置されたご遺体も調べられた。
それによると、初代清衡が脳溢血で長い間半身不随に悩まされていたことが判明した。
身長は160p、血液型はAB型で、その骨格は紛れも無く日本人のものであったという。
いまでは「金色堂」は近代的な「覆堂」に守られているが、建立後の数十年間は、雨に打たれ風雪に晒されていた。
この美しいお堂を守るため、その後「覆堂」が造られたが、当初のものは屋根を葺いただけの簡単な代物であった。
藤原氏が滅亡すると、鎌倉幕府によって「金色堂」の修復が行われ、その頃には「覆堂」が造られている。
以後度重なる増改築を経て、室町中期以降になるとようやく今日に残されている「旧覆堂」の形になったと言う。
昭和40(1965)年、完璧な空調設備と防火設備を備えた鉄筋コンクリート造りの「新覆堂」が完成した。
北国の過酷な風雨から今後千年は守り抜けるという代物である。
この完成により鎌倉時代と思われる「旧覆堂」はその役目を終え、経蔵の建つ脇に移築保存されることになる。
『光堂は八代の棺を納め三尊の仏を安置す。七宝散うせて珠の扉風にやぶれ、
金の柱霜雪に朽ちて既に頽廃空虚の叢となるべきを、
四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時、千歳の記念とはなれり。
“五月雨の 降り残してや 光堂”』
一時期、栄華を極め、中尊寺に代表される平泉・藤原文化も早500年の歳月を経ている。
多くのものが朽ちてかつての面影が薄らぐ中、「金色堂」だけが未だ昔のままに輝いている。
そんな光堂を、五月雨までもが降り残し、守ろうとしている・・そんな句意らしい。
奥の細道を旅した松尾芭蕉も46歳、同行する曾良と共に梅雨の季節に中尊寺に立ち寄っている。
彼らは、鎌倉時代に造られたと思われる「旧覆堂」の中に入って、ガラス越しでないお堂を見ていた。
その旅姿の像と、延享三年建立と言う句碑が、「金色堂」の近くに建てられている。
岩手に生まれた宮沢賢治は、熱烈な法華経の信者としても知られている。
明治45(1912)年5月、盛岡中学の修学旅行で松島、仙台、平泉などを訪れた賢治は歌を残している。
“中尊寺 青葉に曇る夕暮れの そらふるはして 青き鐘なる”
「金色堂」とは参道を挟んだ反対側、本坊の一角にその鐘楼が建っている。
説明によると康永二(1343)年の鋳造で、銘には寺の創建や建武の火災のことが刻まれていると言う。
賢治が訪れた当時は、まだ朝な夕なに鐘はつかれていたようだ。
夕暮れに低く震える鐘の音を聞き、その教えと共に深い共感と感銘を覚えてこの詩を残したのであろう。
今日では、この鐘は撞き座の摩耗が激しく撞かれることもないが、名鐘としてその名を残している。
中尊寺の北方鎮守 白山神社
中尊寺の北方を鎮守するのが白山神社である。
中尊寺を開基した慈覚大師により、加賀の一の宮より分霊された社が祀られている。
境内には仙台伊達藩主が建立寄進した能舞台が残されている。
重厚な入母屋造りの茅葺き屋根を持つ建物で、国の重要文化財に指定されている。
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