少し早い夕食に仙台駅構内の店で名物「牛タン」を味わって後、東北本線で一ノ関に向かう。
「ようこそ 一ノ関温泉郷」の看板が立つ一ノ関には、2時間足らずで到着し、駅前のビジネスホテルに宿を取った。
翌朝、町中にある100円レンタカーの営業所で車を借り、平泉町にある中尊寺や毛越寺の観光に向かう。
奥州平泉は、南の白河関(福島県)から北の津軽(青森県)の地までの中間に位置している。
北方領域に展開する奥州藤原氏の中核的な所で、言うなれば日本朝廷の政治的勢力の及ばない地であった。
平安時代末期、ここに藤原氏が清衡・基衡・秀衡の三代に渡り理想的な平和郷を築き上げてきたのだ。
仏教の浄土思想の考えに基づき造られた庭園寺院群で、それが政治・経済の中心で、繁栄と潤沢な富の証でもあった。
当時の平泉は、人口が10万人とも言われる繁栄の地だ。
そこは奥州だけで産出する金の恵みで、黄金郷と例えられるユートピアでもあった。
そんな地を支配する藤原氏の財力は莫大で、その庇護を受けた寺院群は大いに繁栄した。
中尊寺、毛越寺、観自在王院、無量光院等と、そこに残されてきた四つの浄土庭園等である。
当時、毛越寺に次ぐ規模を誇っていたとされる中尊寺は、一時勢力も衰えたがその後再興した。
しかし多くの寺院はこのような繁栄・栄華は長くは続かず、急速にしかも劇的に没落・終息してしまう。
栄華の夢の跡は、その虚しさ・はかなさの象徴的な場所ともされてきた。
やがて900年以上もの時を経て、「平泉の文化遺産」が、平成23年世界文化遺産に登録された。
中尊寺やその金色堂、毛越寺やその常行堂、観自在王院跡、無量光院等跡、それらに関わる金鶏山等だ。
北上川が緩やかにその流れを変える辺り。
東北本線に挟まれる河岸地に、広大な「柳之御所史跡公園」があり、その一角に「柳之御所資料館」が建っている。
当時ここは、旧北上川の古流路で猫間が淵と呼ばれる低湿地と、北上川に挟まれた要塞の地であったようだ。
ここは、奥州藤原氏が政治を行った中心地と考えられるところだ。
歴史書『吾妻鏡』に残されている「平泉館」と呼ばれていた場所に当たると推定されている。
過去の発掘調査では、中心部を囲うような巨大な堀や苑池、掘立柱住居、井戸などの遺構が確認されている。
その建物はかなり大がかりなものであったことを窺わせているという。
また遺跡からは、儀式に使用されたとみられる「かわらけ」が10トン以上も出土した。
中には中国産のものも多数有り、当時の文化交流の状況を知る手がかりとなっている。
「柳之御所」から掘りを隔てた外側に、三代・秀衡によって建立された寺院の跡が確認されている。
「無量光院」と言われる寺院で、京都・宇治の平等院鳳凰堂を模して建てられたという。
また、「柳之御所」から300mほど西方に、秀衡の日常の居館である「伽羅之御所」跡なども有る。
高館・義経堂
奥州平泉は、源義経の縁の地としても知られている。
京都・鞍馬山で育った義経は、後に奥州に下り藤原三代・秀衡の庇護を受けながら源氏の旗上げを待っていた。
そんな折兄頼朝の挙兵を知ると馳せ参じ、平家相手に奮戦、一の谷、屋島、壇之浦で尽く打ち破り滅亡に追込んだ。
しかしその後は頼朝と対立、追われる身となった義経の逃避行が始まる。
越後、出羽の国を経て奥州平泉に辿り着いたのは、束稲山の花もすっかり葉桜に代わった頃であった。
傷つき疲れ果てたその姿を見て、いたわり手厚く迎え入れたのは藤尾家三代の当主・秀衡である。
“夏草や 兵どもが 夢の跡”
そんな義経が、小さな平和を愉しんだのが高館の「衣川館」である。
遥かに束稲山を望み、南部平野とそれを割って悠久と流れる北上川を見下ろす場所だ。
そこは中尊寺東南の丘陵で、秀衡の居館「伽羅の御所」からも、中尊寺からも十町(約1km)とは離れていない。
当時こんもりと木の繁る丘は、片側が切立った崖となっていて、その下は北上川の流れに接していた。
そんな山上に館が有り、その麓には随身たちの武者長屋が二・三十戸ほど建っていたと言われている。
ここを暗夜、四代・泰衡が急襲した。
秀衡亡き後、嫡男として跡目をどう継ぐか混乱の中、鎌倉の頼朝の圧力に屈しての挙兵である。
時を悟った義経は、長年辛苦を共にした郎党たちに最後の別れを告げ、持仏堂に走り込み、火を放ち自刃した。
時に義経、31歳であった。
その数か月後、源頼朝は大軍を率いここ平泉へ攻め入ったが、世を知らぬ四代・泰衡には、これを支える術も無い。
父祖三代にわたって築かれた平泉の栄華は、虚しく火焔に包まれ灰塵に消えるのである。
今は人の気も無い荒れ地に、夏草だけが生い茂っている。
嘗ては功名をかけ、栄華を夢見た戦いの場であるが、荒れ果てた地を見ていると一抹の哀れを感じずにはいられない。
奥の細道を旅し、高館に立った松尾芭蕉がこう詠んだ地には、「義経堂」が建てられている。
義経の首は死後四十数日を経て、黒漆の棺の美酒に浸され鎌倉に届けられたが、頼朝は自ら首実検はしなかった。
また命じられた家臣の侍も、哀れを思うとまともに正視出来なかったと言う。
首実検で義経との確証がなされない事から、奥州平定後も、「義経死せず」の風評は後を絶たなかったらしい。
高館の「義経堂」に向かう石段の脇に、「伝説義経北行コース」と書かれた表示板が立てられている。
『高館で自刃したのは、義経の影武者で、当人はその一年余り前に密かに平泉を脱出し北方を目指して旅に出た』
との説明があり、それによるとやがて義経は、北海道からさらに大陸に渡った。
果てはモンゴル帝国のジンギス・ハーンは同一人物であつた、などとまことしやかに語られるようになる。
悲運の英雄・義経をこのまま死なせたくは無い、と言う庶民の「判官贔屓」がこの伝説を生み出したのであろう。
しかし今日の学説的には全否定され、残念ながら問題にもされていないようだ。
この立て看板は岩手県の観光連盟が立てたものらし。
ここ高館を振り出しに、凡そ太平洋に沿って北上、久慈の諏訪神社まで三十数箇所に立てられている。
今では、義経贔屓の伝説を巡るコースとして確立されているようだ。
一ノ関 ソースカツ丼
一ノ関の駅前ビジネスホテルの、すぐ隣にある食事処「割烹・和風レストラン 松竹」を訪ねてみる。
観光案内所で教えられてのことで、地元では良く知られた店らしい。
ここは創業が大正12年の老舗割烹らしく、店内のメニューの頭には名物の「ウナギ料理」が書かれている。
しかし女将の言によると、この店は何と言っても「かつ丼」で、来たからには是非食べて帰って欲しいと言う。
実はこの店はこの地では「ソースカツ丼」の有名店で、休日などには行列ができるそうだ。
その人気を支えているのが、口の滑らかな名物女将でもあるらしい。
店内は昼時と有って結構込み合っている。
そのテーブルを見てみると、多くの人がその「ソースかつ丼」を食べている。
壁にはここを訪れた錚々たる著名人の賞賛する色紙も掛けられていて、どうやら店の評判は間違いないようだ。
ここの「ソースかつ丼」は一般的な卵でとじたものではない。
ご飯の上に千切りのキャベツを乗せ、その上に秘伝のソースをたっぷりと潜らせた三枚のカツを乗せたものだ。
こんがりときつね色に仕上がったロースカツは、きめの細かいパン粉を使用しているので衣はやや薄めだ。
カツを口に含めばソースの香りも良く、噛むと柔らかく、ジューシーに肉汁がこぼれる。
和風だしのようなソース味と肉が絡まって、掛け値無しに美味しい。
どんぶりのご飯も、ソースかけごはんを食べているようで、何とも懐かしい味がする。
夜遅く到着したその日、一ノ関駅の至る所で「ようこそ一ノ関温泉郷」の看板を目にしてきた。
平泉の町中を巡る国道4号線でも、道路脇に立つ「〇〇温泉」の看板を幾つも見かけている。
「一ノ関温泉郷」は、市内から秋田県の湯沢町に抜ける国道342号線上に点在しているらしい。
宝龍、真湯、須川高原温泉等の総称だが、市内周辺にも規模こそ小さいが幾つもあり温泉の宝庫という。
平泉にも町の健康福祉交流館があり、そこに「悠久の湯・平泉温泉」が併設されている。
また、毛越寺近くには大沢温泉という、一軒宿の日帰り入浴が出来る施設もある。
毛越寺境内と町営駐車場の間の細い道を山側に向かいしばらく走ると、東北自動車道に突き当たる。
その下の狭いトンネルを潜り抜けると、登り道に沿った戸数も僅かな集落が現れる。
そこに客室12、収容40名余りの「大沢温泉旅館」が有り、そこでは料金が350円で立ち寄り入浴が出来る。
玄関を入り左手の廊下を進むと、突き当りに男女別の浴室が有るが、室はさほど広くは無い。
タイル張りの浴槽には無色無臭、さらっとした負担の少ない軽い感じの加温された冷鉱泉が満たされている。
温泉成分の表示はされていないので、詳しい泉質や成分は良く解らないし、残念ながら源泉かけ流しではない。
露天風呂はなく内湯のみであるが、見通しの良いガラス張りの窓からは、時々雪花が舞うのが見える。
目の前に迫る山肌と、足元を流れる渓流が一望で、湯船からのロケーションは悪くない。
観光ですっかり冷え切ってしまった体には、何ともありがたい至福のお湯であった。
| ホーム | 国内の旅行 | このページの先頭 |
(c)2010
Sudare-M, All Rights Reserved.
|