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■船坂峠
船坂峠と言えば、児島三郎高徳が兵を挙げた場所として知られている。 凡そ700年前、元弘の乱に敗れた後醍醐天皇は、鎌倉幕府によって捕らえられた。 隠岐の島に流される事となった天皇は、500名あまりの幕府の兵に守られ京を発ち、播磨をすでに通り過ぎていた。 そんな折、「義を見てせざるは、勇無き」と天皇を奪還するために、一族郎党に檄を飛ばし大軍を起こし、名を子孫に残そうとしたのが児島三郎高徳である。
軍備を整えた高徳は、この峠で待ち伏せを図る。しかし天皇一行は予期に反して山陽道には現れず、これより北の美作街道を粛々と進むことを知るのである。慌てて軍備を払い、播磨と美作の国境の杉坂峠に駆け付けるが、その時すでに遅く、一行は峠を下り美作を抜け院庄館に入り、高徳の奪還作戦はあえなく失敗する。
■旧院庄館・作楽(さくら)神社
院庄館とは美作の国の守護の住む館のことで、津山盆地の西端、吉井川左岸の微高地に建てられた平城である。 鎌倉時代の初め頃にはこの地に建てられていたらしく、その規模は東西200m、南北150mほどと推測されている。 現在この地に館はなく明治時代に建てられた作楽神社の境内となっていて、ここには後醍醐天皇と児島高徳がご祭神として祭られている。
『桜ほろ散る院庄 遠き昔を偲ぶれば 幹を削りて高徳が 書いた至誠の詩がたみ』
忠義桜(詩吟・津山民謡)に謡われているように、神社の境内にはソメイヨシノが100本ほどあり、春の桜、初夏のアヤメ・カキツバタなどの名所としても知られている。
船坂峠で奪還に失敗した高徳は諦めきれないまませめて志だけでも天皇の耳に入れたいと、日が暮れて一人ご在所に忍び込むものの、警備がことのほか厳しく天皇の寝所に近づくことは叶わない。 思いあぐねた結果、囚われの身の天皇を少しでもお慰さめしようと、館の庭に植えられた桜の木に、あの有名な10字の詩を彫り残し立ち去ったのである。
『天莫空勾践。 時非無范蠡。』(天、コウセンを空しくするなかれ、時にハンレイの無きにしも非ず)
翌朝、夜中に賊の侵入を知った衛士が騒ぐ中、天皇は桜の木に刻まれた10字の詩を見て、一人静かにほくそ笑んだと伝えられている地が院庄館である。
■五流尊瀧院
備前の国児島郡林(現在の倉敷市林)で生まれたとされる児島高徳だが、南北朝時代を題材にした軍記物語「太平記」にしか登場しない人物であることから、その実在を疑問視する声も一部にはあるようだ。 しかし幕末から明治に入ると、天皇に対する忠臣として教科書や文部省唱歌などに取り上げられ、その肖像は当時の二円札に用いられるほどに持て囃された。これは多分に皇国史観を教える手段として、この伝承が使われたとも言われている。
その地に所在するのが五流尊瀧院で、ここは天台修験道の一派である「修験道の総本山」で、紅葉のころが特に美しい境内には、修験道の祖と言われる役行者(役小角)の像が建っている。 高徳はこの地域で生まれたとされ、その門前には生誕地を示す案内板が建てられ、境内には祠も祭られている。
■交通案内
■船坂峠 電車 山陽本線 三石駅下車 北東へ徒歩約2.2Km 車 山陽自動車道 備前ICから国道2号線経由で 約7.2Km
■院庄館跡・作楽神社 電車 姫新線 院庄駅下車 西へ徒歩1.3Km 車 中国自動車道 院庄ICを出てすぐ 約0.6Km
■五流尊瀧院 電車 瀬戸大橋線 植松駅または木見駅下車 徒歩20分 車 瀬戸中央自動車道 水島IC下車
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