栗太八景

 

 

 東海道は名神高速道路の高架を潜ると、甲賀市から栗東市に入っていく。

最初の集落を「伊勢落」と言い、そのものズバリ、「いせおち」と読み、「生涯学習都市宣言のまち」だ。

興味をそそられる地区名ではあるが、その謂れは良く解ってはいないらしい。

ただ古代当地には、東海道を下り伊勢へと向かう斎宮の禊場があったとの伝承があるらしい。

 

 集落の中程に「栗太八景 伊勢落晴嵐」と書かれた石碑が建っていた。

「梅痩せ柳疎にて柴扉鎖す 簷外は半ば晴れ野草肥ゆ 山色の末分の雲気は晴れ 一声鳥啼き霧破りて飛ぶ 

寛延三年十二月 素月作」と彫られている。 

 

栗太八景

栗太八景

栗太八景

 

栗太八景

栗太八景

栗太八景

 

これは、中国宋代の「瀟湘八景」にならい、大橋にある慶崇寺の致遠(雅号素月)が選定した。

水墨山水画で著される自然界の気象や光の変化と、地名とを合体して地域の光ものの景観を現わすらしい。

江戸中期(1750年)頃、七言絶句の漢詩を作り、栗太八景を定めたもので他には以下がある。

 

松島秋月(大橋の慶崇寺)、     金山暮雪(大橋の三輪神社境内)、 

上野夜雨(旧東海道筋林)、     砥山夕照(北の山の上池)、  

赤坂帰樵(小野の赤坂公園)、    手原行人(手原の稲荷神社)、

蓮台寺晩鐘(下鈎蓮台寺跡)

 

栗太八景

栗太八景

栗太八景

 

栗太八景

栗太八景

栗太八景

 

 因みに栗東市には、平成元年に公募で選定した観光スポット「栗東八景」が有る。

青麦の薫風(初夏の大宝神社)、   彼岸の繁華(木洩れ日の新善光寺)、

積日の海道と城跡(日向山と和中散)、泉面の雪花(東方山安養寺)、

飛翔の羽音(自然観察の森)、    払暁の駒音(栗東トレーニングセンター)、

陽春の風光(県民の森)、      夏清の幽玄(金勝寺と森林浴の森)

 

栗太八景

栗太八景

栗太八景

 

栗太八景

栗太八景

栗太八景

 

栗太八景

栗太八景

栗太八景

 

 歩を進め林村に入り、その先上野村から、六地蔵村を抜けていく。

旧街道に行き交う車は少なく、所々で軒の低い白壁の、何となく懐かしさを感じる家並みが続いている。

民家の門口には「甘酒屋」「人力屋」等と、旧家号の書かれた小さな札が貼り付けてある。

 

林の長徳寺・薬師如来堂の前に、栗太八景詩碑の内の一つ、「上野夜雨(かみののやう)」の碑がある。

「茅屋は寂寥なり上野の郷 村前と村後には雨声長し 陰晴定難し雲来りて去る 是疑い今宵月光を尋ねん」

詩碑にはこのように書かれている。すぐ横に古い領堺石が立っていて、「従是東膳所」と刻まれている。

 

 その先に常夜灯と共に「新善光寺道」と書かれた大きな石柱が立っていた。

ここから北に、草津線の線路を越えて300m程入った所にある、浄土宗鎮西派のお寺を案内する道標だ。

 鎌倉時代中期、当地に住む小松宗定という武士が、信州善光寺に四十八度詣したある日、三尊が夢に現われた。

歓喜感涙した宗定が、分身した如来像を請来したのが寺の始まりという。

 

栗太八景

栗太八景

栗太八景

 

栗太八景

栗太八景

栗太八景

 

栗太八景

栗太八景

栗太八景

 

 東海道は既に六地蔵村に入っている。

そこから160m余で突き当りを左折、南に向かうが、この辺りは「上り下り立場」が有った場所である。

その突き当りにあるのが、国宝の御本尊が知られる「六地蔵」、旧法界寺だ。

 

 御本尊は像高96.5pの「木造地蔵菩薩立像」で、平安時代頃に造られたとされる檜の一木造りである。

かつて当地には地名の謂れとなった六躯の地蔵尊があったが、その内の一躯と伝えられている。

寺は衰退し今では無住となり、地蔵堂だけが残され、境内には子供向けの遊具などがおかれている。

 

 

梅木村 旧和中散本舗 大角家住宅

 

 

 東海道は国宝六地蔵の六地蔵村から梅木村に入って行く。

梅木村は、石部と草津の中間に位置し、間の宿として栄えていた集落だ。

 

左手に間口の広い豪華な商家の建物、重要文化財の「旧和中散本舗大角家住宅」が見えてくる。

屋根上部は本瓦葺き、下部は棧瓦葺きの二段構えで、両端には防火用の卯建壁が上がる重厚な造りである。

江戸時代に「和中散」を売る、「ぜさいや」本舗の本家、是齋(ぜさい)の建物である。

 

 この本家は、参勤交代の大名たちの小休息所とされており、茶屋本陣も兼ねていた。

当時、「梅の木和中散」を名乗る店は近隣に5軒ほどあったと言うが、その内今に残る一軒が当家である。

そう言えば六地蔵近くでも「東海道六地蔵村 和中散屋 ぜさい東店 大角重蔵」の家号札を目にしている。

 

旧和中散本舗

旧和中散本舗

旧和中散本舗

 

旧和中散本舗

旧和中散本舗

旧和中散本舗

 

旧和中散本舗

旧和中散本舗

旧和中散本舗

 

旧和中散本舗

旧和中散本舗

旧和中散本舗

 

 東海道を行き交う旅人の間では、薬は腹痛や歯痛、暑気当りに良く効くとの評判であった。

家康も永原に滞在中腹痛を起こし、典医に勧められこの薬を飲んだところたちどころに治ったと言う。

この薬の名は、腹の中を和らげると言う意味で、家康が名付けたと伝えられている。

江戸参府のケンペルやシーボルトも、この薬を買い求めたという記録が残されているらしい。

 

邸宅内部の大きな店の間は、贅を尽くした造りらしい。

玄関や隠居所の欄間など、江戸時代の豪商の店構えらしく重厚に造られているという。

また仕事場には、木製の動輪や歯車の付いた製薬用石臼が、昔のままの姿で保存されているそうだ。

内部は春秋に定期公開されているらしく、見学は予約制と書かれていて、見学は叶わなかった。

 

旧和中散本舗

旧和中散本舗

旧和中散本舗

 

旧和中散本舗

旧和中散本舗

旧和中散本舗

 

旧和中散本舗

旧和中散本舗

旧和中散本舗

 

旧和中散本舗大角家住宅を背に広い道路に出るとその合流地点に、ポケットパークが有った。

この辺りは、焼き物の産地・信楽が近いせいか、矢鱈タヌキの置物などが飾られている。

 

栗東八景「積日の海道と城跡(新緑の日向山と和中散)」の看板が立っていた。

日向山(222.9m)を借景とした、和中散屋敷の池泉式庭園(小堀遠州作)は、秀逸で趣があるそうだ。

国の指定名勝「大角氏庭園」となり、その眺めは、平成の栗東八景の一つとされている。

少し行くと「東海道一里塚」の石碑が建ち、側には、「和中散の町 六地蔵/東へ到石部の宿」等と彫られていた。

 

旧和中散本舗

旧和中散本舗

旧和中散本舗

 

旧和中散本舗

旧和中散本舗

旧和中散本舗

 

旧和中散本舗

旧和中散本舗

旧和中散本舗

 

 小野村に「五葉の松」と書かれた札が貼られていたが、どのことかは良く分からなかった。

その少し先の西巌寺の門前に一本の松が立ち、「肩かえの松」の石碑が有った。

「旅人足などがこの松の木の下で休憩し、荷物を担う肩をかえた所である」と書かれている。

 

 

女の腹の上に手を置きて てばらみ

 

 

 「手孕村、此辺草津・石部の中成」と言われたように長丁場の中間地点、街道は手原村に入っている。

嘗ては伊吹艾(いぶきもぶさ)を売る店が有り、家号は亀屋を名乗る処が多かったと言う。

 

 街道に面して国の登録有形文化財の指定を受けた、「里内呉服店」の主屋の建物が残されていた。

二階を低く抑え、雨除けの小庇を設ける等、外観が明治初期建築の特徴を良く伝えているらしい。 

西隣には、創業が寛政2(1790)年と言う、手原醤油の「塩屋藤五郎」の建物が建っている。

その前には、「手原醤油顕彰碑」が見えるが、美味しいと評判な事を讃える碑らしい。

 

てばらみ

てばらみ

てばらみ

 

てばらみ

てばらみ

てばらみ

 

てばらみ

てばらみ

てばらみ

 

てばらみ

てばらみ

てばらみ

 

 十字路の角に、鬱蒼とした森に赤い柵を巡らした稲荷神社が鎮座していた。

境内の片隅、街道に面した場所に、石碑や石柱、手型のモニュメント等が列を成している。

「厚進学校跡」地で、明治8年に創設されて以後の学校沿革が記され、往時を偲ぶ門柱が立てられている。

更に「明治天皇手原御小休所」の石柱が有る。

 

 その横に手の形をした「手孕ベンチ」が置かれている。

『伝説が歌舞伎「源平布引滝」に・・・子供を守るため産んだのは手だけだと偽り助けた。

(源平の戦いで有名な 後の木曽義仲)子どもを守り育てるベンチ』と刻まれている。

 

 嘗て村の何某が、若妻を友人に預け旅に出た。

その友は「夜は女の腹の上に手を置きて守りしに、女孕みて十月と言うに、手一つ生みけり」との話が伝わる。

それによりこの村を「てばらみ」と言ったが、後に略して「てばら」となった。

 

てばらみ

てばらみ

てばらみ

 

てばらみ

てばらみ

てばらみ

 

てばらみ

てばらみ

てばらみ

 

「稲荷神社の祠有り 老松ありて傘の如しなり 笠松の宮という」

江戸時代の名所記でこう紹介があり、稲荷神社(里中大明神)」の笠松が世に知られていたという。

 

栗太八景詩碑の内の一つで、「手原行人(手原の稲荷神社)」の詩碑も建っている。

「雨寒塵路手原辺 客袂涙霑萬里天 終日著鞭馳痩馬 往来有故幾年々」

知識が皆無なので、どういった意訳なのか、皆目見当もつかない。

 

この角を右手に取れば奥がJR草津線の手原駅である。

街道はそのまま直進し、国道に突き当たる手前で線路を離れ、左に大きく曲がる。

 

 

田楽発祥の地 目方の立場

 

 

鈎里(まがり)集落に入ってきた。

上鈎池の西側土手下の公園に、「九代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地」の大きな自然石の碑がある。

周囲には、歌人だった義尚が交わした何首かの和歌を刻んだ石碑も並んでいる。

 

義尚公は、応仁の乱後、衰退気味の幕府権力を回復させようと、近江に出陣した。

隣国近江で、幕府の所領を横取りしていた六角高頼を討伐するためである。

池の300m程西の永正寺付近(諸説有り)に布陣したが、この陣所で25歳の若さで病没した。

 

目方の立場

目方の立場

目方の立場

 

目方の立場

目方の立場

目方の立場

 

 上鈎から葉山川橋を渡り、川辺(かわづら)集落に入ってきた。

葉山川は琵琶湖に注ぐ一級河川で、滋賀県には多い天井川の一つである。

橋の周辺では、治水対策で川床の掘り下げ、川幅の拡張など、河川改修工事が行なわれていた。

 

目方の立場

目方の立場

目方の立場

 

目方の立場

目方の立場

目方の立場

 

 その先に、慶安2(1649)年開基の真宗大谷派の善性寺が有った。

当寺の僧・恵教は、植物に造詣深いことが知られていて、オランダの医師シーボルトはここを訪ねている。

文政年間に、江戸参府の帰途に立寄ったとの記録が自著である「江戸参府紀行」残されている。

 

「スイレン、カエデ、ウド、モクタチバナ」等当時としては珍しい植物を見学して帰った。

植物学者であり、日本の文化を研究しながら出島に植物園を作り、約1400種の植物を栽培していたという。

 

彼は江戸参府の折、天文方・高橋景保に最新の世界地図を送った。

お返しとして受け取った伊能地図は、当時国外持ち出し禁止であったが、帰国する際持ち出そうとした。

所謂文政111828)年の「シーボルト事件」で、シーボルトを含む役人・関係者が処罰された。

 

目方の立場

目方の立場

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目方の立場

目方の立場

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目方の立場

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 金勝川(草津川の支流)に突き当り、右に曲がり川に沿って左に曲がると、目川の集落である。

目川は「上り下り 立場」で、旅の必需品を売る店が沢山軒を連ねていたという。

 

中でもひょうたんは、酒やお茶を入れる容器として人気商品であった。

地元農家の副業的な地場産業として、その需要は明治に入るまで続いていたらしい。

街道筋にも、目川のひょうたん直売所が有り、可愛らしいひょうたんが店先で売られていた。

 

目方の立場

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目方の立場

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目方の立場

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道辺に「(右方向)東海道 (左方向)中郡街道」と刻まれた石の道標が立っている。

東海道は右に折れるが、左に取れば金勝川に沿って、石部までは1里2426間(約6.6q)だ。

今日の県道、川辺御園線の起点である。

 

 横には、川辺灰塚山古墳群の説明も書かれている。

「目川と梅木の間に灰塚山が有り、昔からここには栗の大樹があった。ここからは弥生式土器の出土があり、

大樹を焼いた灰で築いたらしい塚が数基有った事から灰塚山と呼ばれていた」という。

 

その大樹を掘り起こした跡が、灰塚池である。

その後池は埋め立てられ、跡地には今体育館が建ち、栗東運動公園となっている。

郡名の「栗太」はこの栗の大樹に因むものだという。

 

目方の立場

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目方の立場

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目方の立場

目方の立場

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立場の名物は菜飯田楽で、伊勢屋という店が知られていた。

安藤広重が「東海道五十三次之内 石部 目川ノ里」として、田楽茶屋「いせや」を描いたのはここらしい。

「田楽発祥の地」の石碑が立つ田楽茶屋・元伊勢屋も今は無く、跡地に建つ石碑と説明板のみで有る。

その傍らには、「従是西膳所」と刻まれた領界石が立っている。

 

 東海道は旧岡村で草津川に行く手を阻まれ右に折れ、この先は旧草津川に沿って進む。

やや西北寄りに進路を変え、250m程で新幹線の高架を潜ると、道は緩やかな下りだ。

「従是東膳所領」の領界石辺りで旧小柿村に入る。

 

目方の立場

目方の立場

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目方の立場

目方の立場

目方の立場

 

 住宅地の前に、「史跡 牛馬養生所跡」の石碑があり、老牛馬が余生を過ごした場所の跡らしい。

使役として使えなく成った牛馬が、残酷に殺処分される様子を見かねた庄屋さんが、天保121841)年につくった。

 

「この施設は和邇村榎の庄屋・岸岡長右衛門が、湖西和邇村の牛上で老廃牛馬の打ちはぎをしている様子を見て

その残酷さに驚き、老牛馬であっても息のある間は、内はぎすることを止めるようと呼びかけ、天保十二年四月当地

が東海、中山道を集約する草津宿近くである事から、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生場を設立した」

 

 湖西地方の和邇村は、現在の大津市北部(旧志賀町)辺りのことだ。

JR湖西線には、和邇(わに)駅があり、地名としも残っている。

和邇村は琵琶湖大橋の無い当時なら、陸路で行ったら十里近くも離れた地である。

 

目方の立場

目方の立場

目方の立場

 

目方の立場

目方の立場

目方の立場

 

 因みに当栗東市は、「馬の町」を謳っていて、JRAの競走馬トレーニングセンターがある。

嘗ては東海道の宿場町で、宿内には東海道と中山道の追分けも有り、馬が頻繁に行交っていた。

往時からこの辺りは、馬には縁深いものが有ったのであろう。

 

鈴鹿峠(標高378m)を超えた近江路は、土山、水口、石部と宿を重ねる毎に標高が少しずつ下がって来た。

丁度この辺りの標高は100m前後で、草津市街地に入り、ここからは更に下って行く。

 街道筋には、アパートやマンションも増え、草津市の中心部に近づいている。

旧道を行き交う車が増え、はや前方には中心市街地の高層ビル(マンション)も見えてきた。

左手に続くのは、廃川となった旧草津川の堤防で、この先はそれに沿って市街地を目指して下っていく。

 

 

草津川と草津宿橋

 

 

 草津川は大津市南東部の鶏冠山(標高491m)西麓を源流として、琵琶湖に流れ下る淀川水系の一級河川である。

江戸時代中期の頃より、はや天井川が形成され始めたらしい。

明治には川底に国道のトンネルが通されていることから、短期間の内に一気に形成されたものと考えられている。

 

 都で社寺の造営が急速に進み、大量の樹木を伐採したため、土砂の流出が一気に進み、天井川化したという。

ところが草津川流域は元々風化した花崗岩地で、大雨の度に多量に土砂が流出したらしく若干事情は異なるようだ。

とは言え、堤内地盤から河床までの高さが約5mもある危険な天井川は、大雨ともなると、洪水被害をもたらす。

その為川を平地化し、琵琶湖までの5.5kmに新たな放水路を整備する治水事業が行われる事になった。

 

草津川

草津川

草津川

 

草津川

草津川

草津川

 

金勝川と合流する同市青地町〜御倉町の間7.2 kmを掘削し、その間の小規模な天井川は、統合或は廃川する。

「草津川放水路事業」が、昭和571982)年から始まった。

平成142002)年には、新たな放水路の開削工事が終了し、通水試験が行なわれ、旧草津川は廃川となった。

 

工事完了の7年後に、新川の管理が滋賀県に移され、「草津川放水路」は完成を見た。

廃川により生まれた広大な空間は、延焼阻止の緩衝緑地や、市街地に残存する貴重な緑地となった。

市は、そこを公園化、観光農園化する事を進め、今では市民の憩いの場となっているという。

 

草津川

草津川

草津川

 

草津川

草津川

草津川

 

 昭和111936)年に、堤防から10m程低い川床に、延長53.1m、高さ4.7m、幅9.5mの隧道が造られた。

単線並列通行が行なわれていて、トンネルの上には天井川である旧草津川が流れていた。

その後、国道は交通量が増加し、単線並列のトンネルでは交通渋滞を引き起こすようになる。

そこで昭和411966)年、道路の拡幅工事と共に、長さ56.0mの「第二草津川トンネル」が開通した。

 

 その後、治水対策として天井川の解消が事業化され、新しい草津川放水路が掘られることになる。

完成後は、旧草津川は廃川となり、川跡が平地化され、緑地や公園へと転用が進んだ。

 

草津川

草津川

草津川

 

草津川

草津川

草津川

 

此までは特例として使用してきた「草津川隧道」は、道路構造上の基準を満たさないことが知られていた。

その為道路の改造が必要となり、トンネルを撤去して、新しく都市計画道路を通すことが決められた。

両側に歩道も整備され、片側二車線、中央分離帯も二車線分ほどもありそうな、広々とした幹線道路である。

 

道路改造に伴い、天井川を潜る国道の「草津川隧道」の上を通る東海道も整備された。

平成312019)年に、国道を跨ぐ新たな「草津宿橋」が架けられたのである。

 

草津宿橋を渡り、旧草津川の堤防上のアスファルト道を進むと、平地化した跡地公園が拡がっている。

更に進むと公園の有料駐車場に突当たり、旧東海道はそこを左に取り、旧河川の堤防道を下りる。

 

草津川

草津川

草津川

 

草津川

草津川

草津川

 

草津川

草津川

草津川

 

その左側の降り口に近い旧堤防上と思われるところに、「高野地蔵尊」の地蔵堂がある。

傍らの石柱には「昭和10年」の日付が入れられているが、説明がないので謂れは良く解らない。

 

その近くの少し高くなったところに横町の道標、火袋付きの大きな常夜灯が立っている。

文化131816)年に建立されたものだ。

土台の石柱には、「右 金勝寺 志がらき道」「左 東海道 いせ道」と掘られている。

 

 草津川には、大名の通行時以外、仮橋も架けられる事が無かったらしい。

常夜灯は足元を照らし、地蔵尊は昔から、草津川を徒渡りする旅人を優しく見守り続けて居たのであろう。

ここからは旧草津川に沿って、堤防下にやや下り気味の旧道が見えている。

この辺りがどうやら江戸側の入口、東の見附跡らしく、東海道は52番目の宿場・草津に入ってきた。

 

 

草津宿

 

 

 草津川を渡り、堤防下の道に入り、宿場町に入ってきた。

旧道らしい趣のある通りで、左程古くはなさそうだが、平入りの格子のある町屋が幾らか残されている。

旧道沿いの家跡や家屋の玄関先には、「茶碗屋 茶碗屋民蔵」等、嘗ての家号が書かれた札が掲げられている。

「博労 うおヤ弥七」「通り水屋 平井屋孫八」「油屋 油屋留八」「旅籠 昆布屋徳右衛門」「材木商 木屋忠蔵」等だ。

 

 東の見附から町中を500m程、ゆるく下っていくと道はT字路に行きあたる。ここが草津宿の追分けである。

東海道はここを直角に左に曲り東に向かうが、右手に取り北方向に向かえば中山道の起点である。 

中山道は江戸日本橋まで128307間(約505.9q)、東海道なら1183町(約463.7q)だ。

 

正面の旧川土手の下に、木製の道標が立っていて、「草津宿高札場」と書かれている。

ここは、追分けの高札場跡でもあり、幾つかの高札が復元されている。

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

昔は、京から東海道を下り草津宿に入ると、正面の草津川で道は行き止まっていた。

中山道を行く旅人は、直進で川の土手を登り板橋で川を越え、次の宿場・守山を目指していたという。

 

 トンネル口の脇、旧草津川の土手下には、古い道標が残されている。

「右 東海道いせみち」「左 中山道 美のじ」とかかれた追分の道標だ。

高さは一丈四尺七寸(凡そ4.45m)の火袋付きの大きな常夜灯で、文化131816)年に建立されたものだ。

江戸や大阪を始め、全国の飛脚仲間、問屋筋の人々の寄進によるもの言い、市指定の有形民俗文化財となっている。

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

右に見える道路トンネルは、「草津川トンネル」である。

「中山道筋草津川ずい道」として、明治181886)年12月、工事費736814銭9厘で着工された。

翌年の3月には僅か四か月という突貫工事の末、アーチ式煉瓦両側石積み、長さ43.6m、幅4.5mの隧道が完成した。

 

天井川による洪水災害防止をはかる治水工事と共に、中山道の川越えルートを解消する為掘られたトンネルだ。

是により中山道の川越は廃止され、東海道と中山道の平面的な追分け道が完成した。

 

 「近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何処ともなき  覧富士記」

 

曲がった先に公民館が有り、「尭孝(ぎょうこう)法師歌碑」が立っている。

「将軍のお供で、富士を見に行く途中、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかり、草花が美しい野辺を想像

していただけに心寂しい思いがする」との意味らしい。

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

「田中中七左衛門本陣」、別名「木屋本陣」(当主が材木商を営んでいたから)という。

昔のままの遺構が残り、現存する本陣としては最大クラスの草津宿本陣として、有料で一般公開されている。

敷地は4727平方メートルという広大なもので、建物面積1706平方メートル、部屋数39という。

膳所(ぜぜ)藩主・本多家の「瓦ヶ浜(かわらがはま)御殿」を拝領したものといわれている。

 

 表門、御除門、式台付き玄関を初め、書院造りの内部には上段の間、各種の広間や湯殿が残されているらしい。

本陣は、寛永121635)年に創建されたが後に焼失した。それでも当時の貴重な資料も多数残されていると言う。

大福帳には吉良上野介や浅野内匠頭、皇女和宮や土方歳三、徳川慶喜、シーボルトなどの名が見られると言う。

 

草津宿

草津宿

建物の入り口

低い精度で自動的に生草津宿成された説明

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

 本陣の向かい側には「脇本陣 大黒屋弥助」跡が有る。

小川小路を隔てて「脇本陣 藤屋与左衛門」と「脇本陣 仙台屋茂八」も並び立っている。

本陣小路を越えると「脇本陣 柏屋重右衛門」跡がある。

「脇本陣 仙台屋茂八」の傍らに脇本陣跡の石碑もあるが、今はベーカリー&カフェの看板が掲げられている。

 

そこから数件先には、もう一つの本陣、「田中九蔵本陣」跡と書かれた家号板と説明の紙が張られている。

残念ながら、建屋に見るべきものは何も無い。

説明によるとここには「敷地が1315坪、建坪288.5坪に部屋数41室、総畳み数264.5畳を擁する建物が有ったらしい。

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

九蔵本陣の東側は伝久寺と隣接し、境には掘り割りが有ったと言う。

今日の地図で見ても広大な敷地を有していたことが分かり、規模的には草津本陣に引けを取らないもので有った。

本陣制度廃止後の明治101878)年、この地には知新小学校(草津小学校の前身)が作られたと説明にある。

 

 街道筋には、「草津宿街道交流館」と言う施設がある。

江戸時代の旅と街道を中心に、展示と体験を通して草津の歴史・文化を紹介する場所である。

 

その先には、問屋場跡がある。

更に、貫目改所跡は、東海道では三カ所しか置かれなかった荷物等の重量を改める役所という。

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

通りには、明治初期頃から続く造り酒屋、「清酒 道灌」が知られる「太田酒造」があった。

商品名にある通り、ここは太田道灌の末裔が営む店らしく、試飲でも出来るのか、大勢の客が店先に群れていた。

 

「雑貨商 八百屋久兵衛」宅は、昭和3(1928)年に建てられたものらしい。

軒高を押さえた厨子二階建、格子窓や虫篭窓は江戸の伝統を引き継いだ造りで、登録有形文化財に指定されている。

 

 東海道と中山道の追分けでもある草津宿は、「客舎、茶店多し」と言われていた。

東の見附から、東横町、西横町1丁目〜6丁目、宮町と続き、西方の矢倉村との境の西の見附までの間が宿内である。

その長さ、1153間半(凡そ1.3q)に渡る町並で、人口は2350人を越え、可成りの規模を誇っていたらしい。

 

五百文と言われる「遊女が多い」らしいが、男と女は、ほぼ同じ数である。

家は586軒、本陣と脇本陣が各々二軒、旅籠は72軒を数えているから東海道の宿場の中では、可成り多い方だ。

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

草津宿

草津宿

草津宿

 

 草津市は滋賀県南西部にあって、県庁所在地の大津市に次ぐ、人口15万人余を有する県下第二の都市である。

近年、京阪神地区のベッドタウンとしての発展が著しいという。

 

JR琵琶湖線(東海道線)や草津線等の鉄道が通り、草津駅や南草津駅の利用者は、大津駅を遙かに凌いでいる。

国道1号を始め、名神高速道路や新名神高速道路なども市域を抜けている。

嘗ては東海道と中山道の追分けで、古今を通じて日本を東西に結ぶ陸上交通網の要所でもある。

 



 

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