北脇縄手

 

 

水口宿東入口に近い「作坂(つくりさか)町」も、元々は「造酒」から転化したものと言われている。

野洲川の伏流水に恵まれた水口は、地酒が美味しい酒処である。

蔵元「美冨久酒造」や、北部工業団地近くに蔵を構える「藤本酒造」が有り「神開」が知られている。

 

美冨久酒造の酒蔵横から北に延びる参道があり、奥には創建が白鳳期という「柏木神社」が鎮座している。

柏木荘近隣16ケ村の総鎮守、水口城築城以降は、歴代城主の守護神・祈願所として崇められてきた社だ。

古くから「若宮八幡宮」と称していたが、明治4(1871)年に現社名に改められた。

地元では「わかみやさん」と呼ばれ、親しまれているという。

 

北脇縄手

北脇縄手

北脇縄手

 

北脇縄手

北脇縄手

北脇縄手

 

 趣ある家並みの街道も、この辺り迄で来ると民家は途切れ途切れになり、道の両側の視界が開けてくる。

遙か彼方が見通せる広大な田畑の広がりの中、街道は一直線に西に向かって延びている。

 右手の小高い緑の固まりが水口丘陵で、手前に大小の建物が帯状に連なり、国道1号線が通っている。

左手には野洲川が流れているはずだが、ここからはその流れを定かに確認する事が出来ない。

 

この辺り江戸時代には、「北脇縄手」と呼ばれた松並木の美しい道が延びていたそうだ。

縄手とは田んぼの中を貫く一本道の事で、今でもその痕跡らしい大きな切り株が所々に残されている。

東海道の整備に伴い、 曲がりくねった旧伊勢大路を廃し、見通しの良い今日の姿に変更されるようになった。

街道を維持するために、近隣の村々には清掃場所が割り当てられ、何時も綺麗に保たれていたという。

 

北脇縄手

北脇縄手

北脇縄手

 

北脇縄手

北脇縄手

北脇縄手

 

 一本道を歩き北脇の集落に入ると、中之町の交差点角に、「料亭 米新楼」の看板を掲げた建物が有った。

以前は料亭らしく、今は仕出し・宅配弁当屋さんのようだ。

嘗ての茅葺き屋根を、瓦に葺き替えたような、堂々とした大屋根を持つ建物で、奥にも棟が見える。

説明によるとここには水口脇本陣の建物の一部が、移築されていると言う。

 

 先に進むと左手に柏木小学校があり、向かいの公民館にモニュメント化した火の見櫓が再現されていた。

北脇縄手は手入れの行き届いた美しい松並木が続いていたらしいが、今日松は殆どが伐採されている。

僅かにこの学校前に二三本見られるだけである。

 

北脇縄手

北脇縄手

北脇縄手

 

北脇縄手

北脇縄手

北脇縄手

 

泉地区では、田圃や畑の中で「五重相伝」と書かれた立札と吹き流しを時々目にするようになる。 

「浄土宗鎮西派で宗義の秘奥を相伝する儀式」「浄土宗の教えを五つの順序にのっとって伝える法会」である。

 

「五重」には、「お念仏の教えの中でも特に重要な五つの要点」の意味がある。

また、「お念仏の教えの基礎から一つずつ積み重ねて神髄に至る」といわれているらしい。

良く解らないが、「五重相伝」は、淨品寺(じょうぼんじ)の重要な儀式らしい。

 

 

日吉神社御旅所

 

 

 「泉村 いづみ縄手 松並木あり 立場なり 白菊と云う銘酒有」

 

ここ泉村も北脇に続く、松並木が美しい畷と言われた地であるが、今日松並木は消滅してしまった。

それでも旧立場(旅人の休憩する場所)の村らしく、趣のある平入りの家並みが残されているのが救いである。

 

真っ直ぐに伸びていた旧道は、この先野洲川に向かってようやく緩く左に曲がっていく。

泉集落を抜けると道は、二手に分かれるが、東海道は左に取り、先で泉川に行き当たる。

その手前で旧道は再び二つに分かれるが、これも左にとって進むと直ぐに舞込橋で、それを渡る。

 

日吉神社御旅所

日吉神社御旅所

日吉神社御旅所

 

日吉神社御旅所

日吉神社御旅所

日吉神社御旅所

 

日吉神社御旅所

日吉神社御旅所

日吉神社御旅所

 

橋を渡ると道路脇に、「日吉神社御旅所」の石柱が建っていた。

御旅所は、神社の祭礼等の時、巡行する御神輿(移動中の神様)が、途中で休憩や宿泊される場所の事だ。

同社は4月に大祭が行われているらしい。

 

その先に、江戸日本橋から数えて、百十四里目の「泉の一里塚」跡があった。

水口には、林口、今在家(今郷)とこの泉の三箇所に一里塚があった。

本来の塚は、これよりやや野洲川よりにあったが、モニュメントとしてここに築いたと説明されている。

 

 

横田の渡し場跡

 

 

 その先で県道を越えると、野洲川の堤防で、そこが「東海道十三渡し」の一つ、「横田の渡し」跡である。

伊勢参宮や東国に向かう旅人に取っては通り道で、このため古くから交通の要地とされたところである。

この辺りの野洲川は杣川や泉川との合流地点で、川岸まで山が迫り、川幅が狭くなっているため水流も激しい。

流れの中には巨岩も見え、道中では川の難所の一つに数えられていた。

 

古くは室町時代の寛正2(1461)年には、「横田河橋」の名が見え、京都の寺により橋賃が徴収されていた。

江戸時代になると、東海道の要衝として幕府道中奉行の支配下に置かれ、渡し舟や渡し賃の制度が整えられた。

3〜9月の増水期は四艘で船渡しを行ない、地元の泉村が公役を請け負って賃銭の徴収を行なっていたという。

それ以外の渇水期に限り、土橋を架けての通行を許していた。

 

横田の渡し

横田の渡し

横田の渡し

 

横田の渡し

横田の渡し

横田の渡し

 

横田の渡し

横田の渡し

横田の渡し

 

横田の渡し

横田の渡し

横田の渡し

 

 明治に入ると、対岸の三雲とを結ぶ長大な板橋が架けられた。

昭和に入るとこれより少し下流に橋が移され、昭和271951)年の国道の開通で、現在の地に横田橋が開通した。

 

 渡し場の跡地は、ポケットパークに成っていて、そこに立派な常夜灯が建っている。

文政5(1822)年、地元の村々を初め遠く京・大阪の人々を含めた万人講により建設されたものだ。

基壇には多くの寄進者の名が刻まれている。

高さは10.5mを越え、笠だけでも2.7m四方あり、道中でも最大級のものと言われている。

 

横田の渡し

横田の渡し

横田の渡し

 

 

横田の渡し

横田の渡し

横田の渡し

 

横田の渡し

横田の渡し

横田の渡し

 

横田の渡し

横田の渡し

横田の渡し

 

 公園から500m程川に沿って歩き、国道の泉西交差点に迂回し、甲賀市から湖南市に入る。

暫く国道を歩き、朝国の交差点で左折し、横田橋を渡り野洲川を越える。

そこで、コース取りを失敗してしまった。

 

橋には歩行者用の歩道はなく、白線で区切られた路側帯があるものの僅かな幅で、人一人がやっとである。

後ろから来る車が、直ぐ脇を可成りのスピードで追い越していくので、風に煽られ怖くて堪らない。

橋の下流側には「横田橋側道橋」が設けられていたので、先の交差点の歩道橋で国道を越えておけばよかったのだ。

 

 

きずな街道

 

 

 旧東海道は、嘗ての伊賀領に入る。

橋を渡ると正面がJR草津線三雲駅だが、駅手前の三叉路で右に取るのが東海道である。

この辺りは、伊賀領田川村の立場があった場所で、角に「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」の石碑が建っている。

側面に「住是二十二丁」と刻まれ、臨済宗妙心寺派「雲照山妙感寺」の微妙大師の墓所を案内した石柱である。

 

微妙大師は、建武中興の元勲萬里小路(までのこうじ)中納言藤原藤房卿その人である。

後醍醐天皇の側近で、元弘の乱の謀議が露見した為、天皇と共に笠置山に脱出した。

その後、出家して京都・妙心寺の第二世となり、晩年は妙感寺に隠棲した。

後世、新田義貞、楠木正成と共に建武の三忠臣と讃えられた人物である。

 

きずな街道

きずな街道

きずな街道

 

きずな街道

きずな街道

きずな街道

 

きずな街道

きずな街道

きずな街道

 

「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」の石碑を見て、民家の建て込む余広くも無い通りを更に行く。

すると、民家の前に立派な自然石の「明治天皇聖跡」が立っていた。

天皇は大政奉還以後各地を行幸され、当地では湖南三山の国宝二寺等を廻られたらしく、その記念碑である。

 

旧街道はその先で、「あらかわ 砂川也 かりはし廿間ばかり」と言われた荒川を渡る。

今は立派のコンクリート橋が架けられていて、その道路脇にも「藤房卿墓所」案内の古い石柱が建っていた。

寺はここを左に折れ、荒川を遡ったところにあるらしく、駅からは2.4qほどの距離である。

 

きずな街道

きずな街道

きずな街道

 

きずな街道

きずな街道

きずな街道

 

 道がJR線を越えると踏切脇右側に広場があり、「きずな街道 歴史探訪・史跡巡りマップ」の看板があった。

「横田の渡し常夜灯」、「天保義民の碑」や、ここから南方の「立志神社」等の簡単な説明が書かれている。

施設は旧東海道に面している、「みくも学区まちづくり協議会」(平成213月設立)が整備したものだ。

協議会は、三雲・妙感寺・吉永・夏見・針・ルモン甲西・中央・平松・柑子袋の9区で構成されている。

 

東は三雲、西は柑子袋まで東西6qは、『きずな』を高める「きずな街道」と名付けられている。

東海道を行き交う人と住人に、心優しいおもてなしのまちづくり、をテーマに取り組みを進めているという。

 

 

猿飛佐助 三雲城址

 

 

街道の右手には、ほぼJR草津線が併走し、その向こう側を野洲川が流れている。

反対側は、吉永山など標高数百メートルほどの山並みが続き、間近まで迫っている。

旧街道はそれらに挟まれた地をやや頭を北に向けながら、進路は西に向けて延びている。

 

吉永地区に入ると至る所で「猿飛佐助のふるさと 三雲城址」の幟旗を目にするようになる。

道路脇に「吉見神社」の石柱があり、その先右側には、「きずな街道休憩所」があった。

三雲城址に上る観光客向けの、休憩時兼駐車場の様な施設だ。

 

猿飛佐助

猿飛佐助

猿飛佐助

 

猿飛佐助

猿飛佐助

猿飛佐助

 

三雲城址は、現在でも標高334mの山頂部に、主郭などの郭群跡が残されていると言う。

石垣が残る主郭の桝形虎口、主郭の石垣、土塁、八丈岩が見どころといわれている。

中でも、猿飛佐助が忍術の修行をしたと言われている場所は人気らしい。

「三雲城址ハイキングコース」の案内板が立ち、城跡の入口までは、1.5q、徒歩で35分と書かれている。

 

猿飛佐助は講談や立川文庫の小説、ゲーム等に登場し、真田幸村に仕え、真田十勇士の一人として活躍した。

大坂夏の陣では徳川方に敗れた後、幸村と共に薩摩に落ち延びたとされている。

架空の忍者との説が一般的ではあるが、モデルとされる人物はいたらしい。

作家の司馬遼太郎は、小説「風神の門」の中で、猿飛佐助の実在説を支持している。

 

猿飛佐助

猿飛佐助

猿飛佐助

 

猿飛佐助

猿飛佐助

猿飛佐助

 

猿飛佐助

猿飛佐助

猿飛佐助

(上三段写真は JR柘植駅)

 

甲賀五十三家の一つ三雲新左衛門賢持が、近江守護職・佐々木家に仕え間忍(忍術)の事を司っていた。

三雲家は、吉永山に城館を構え三雲庄(吉永村、三雲村、妙感寺村)を治めた家柄である。

 

その後、三雲新太夫賢方の代になり、三人の子供が生まれた。

後に主家の佐々木氏は織田信長に滅ぼされたが、三雲家の兄二人は忍者として上杉氏と筒井氏に仕えさせた。

ただ、末子の佐助賢春だけは手元で大事に育てられ、成人になったのが猿飛佐助とされている。

佐助賢春は賢方の死後、甲賀の山を下り、大坂の豊臣家に仕えたと言う。

 

 

天井川と隧道

 

 

「きずな街道休憩所」から再び街道に戻るとすぐ目の前に、立派で頑丈そうなトンネルが現われる。

地元では、「吉永のマンポ」と呼び親しまれている、「大沙(おおすな)川の隧道」である。

この短いトンネルの上には、大沙川と言う川が流れているが、所謂天井川である。

 

長さ16.4mしかないトンネルの先は明るく開け、向こう側を見通す事が出来る。

入口は高さ4.6m、幅4.4m、意匠を凝らした半円のアーチ型で、内部の壁は花崗岩の切石積みで造られている。

土木学会「ランクA」(国の重要文化財相当)の土木遺産に認定されている。

 

天井川と隧道

天井川と隧道

天井川と隧道

 

天井川と隧道

天井川と隧道

天井川と隧道

 

天井川と隧道

天井川と隧道

天井川と隧道

 

天井川と隧道

天井川と隧道

天井川と隧道

 

「奈良時代には、大津の石山寺や奈良の仏教寺院の造営が頻りに行なわれるようになった。

すると、この辺りの木々が手当たり次第に伐採され、たちまち山は禿げ山に成ってしまったという。

その為、大雨の度に土砂が流れ、川底が上がり天井川になったのだそうだ。

 

 嘗て東海道には、大沙川やこの先の由良谷川、家棟(やのむね)川の三川の天井川が有った。

東海道が開通すると、川が交差する場所では土手をよじ登り、土橋か徒渡りで浅瀬を渡っていた。

明治以降、人馬の円滑な通行の為、街道の整備が進められ、これらの川の下を潜る隧道が掘られた。

このトンネルが県下では最初に掘られたもので、明治171884)年3月の事だそうだ。

 

 トンネルを抜けると左側に、「弘法大師錫杖跡 お手植えの杉」の石柱があった。

その脇にトンネルの上に出る小道が有り、登ってみると、川に水の流れは無く両岸は雑草に覆われていた。

そこには、弘法大師伝説の樹齢750年の「弘法杉」が聳えていた。

 

天井川と隧道

天井川と隧道

天井川と隧道

 

天井川と隧道

天井川と隧道

天井川と隧道

 

天井川と隧道

天井川と隧道

天井川と隧道

 

天井川の大沙川を過ぎると東海道は、吉永から夏見の集落に入っていく。

夏見村は立場の有った処で、名物は春から秋にかけて売られる心太であったという。

 

暫く行くと江戸日本橋から百十五里地点の「夏見の一里塚跡」がある。

左の塚には榎が、右の塚には松が植えられていたらしいが、明治以降の道路拡張や周辺の開発により悉く消滅した。

今では道路に埋め込まれた30cm四方程の『夏見一里塚跡』碑で跡地を知るだけである。

 

更に街道を進むと、二つ目の天井川、由良谷川隧道が見え、その手前に、『新田道』の道標が建っていた。

新田道は野洲川方向に伸びていて、昭和101935)年に立てられたものらしい。

野洲川河川敷には、整然と区画整備された新田が開かれ、その取り付け道路が開通したのである。

 

天井川と隧道

天井川と隧道

天井川と隧道

 

天井川と隧道

天井川と隧道

天井川と隧道

 

大沙川からは1.5km西側にある、由良谷川隧道の上には天井川の由良谷川が流れている。

由良谷川は南部の竜王山に源を発し、曲流しながら北に向かい、野洲川に流れ込んでいる。

川幅は狭く大沙川同様平時は水が無い河川で、すぐ横には改修された川に、新しい橋が架けられている。

 

隧道は長さ16.0m、高さ3.6m、幅4.5m、欠円アーチ断面、両側壁は花崗岩切石積みである。

明治191886)年320日の築造で、土木学会「ランクA」(国の重要文化財相当)の土木遺産に認定されている。

 

天井川は、一度異常降雨などで河川が氾濫すれば、流域一帯に甚大な被害が発生する。

加えて車の時代と成り、道が狭くなるトンネルがボトルネックで、通行に支障を来たすようになる。

このため近年、県では天井川の解消を目指し、河川の改修事業に着手していると言う。

 

 

針文五郎

 

 

由良谷川隧道を抜けると、「針川村」とも言われた「針村」の集落に入って行く。

右手に「針公民館」があり、「ようこそ きづな街道(東海道)へ」 の看板が掛かっていた。

建屋の前が「おやすみ処」で、椅子が置かれ、今時分なのにご丁寧にも吸い殻入れまで用意されている。

 

「針文五郎顕彰碑」案内板があり、「天保一揆」と「針文五郎顕彰碑」の説明がされていた。

「天保131842)年1014日から16日、野洲、甲賀、栗太三郡の百姓が幕府の不法検地強行に対し蜂起した。

これが「天保一揆」で、伝法山中腹に一揆の農民が殺到し、その折百数十人の農民が捉えられた。

 

首謀者・針文五郎は、人一倍正義感の強い指導的立場の精農家で、十万日検地日延べ書持参の罪であった。

首謀者11人は江戸送りとなり、この時一番駕籠に乗せられたのが文五郎であった。

江戸への道中では3名が死亡し、江戸の白洲でも8名が拷問を受けるなどして、やがて全員が獄死した。

しかし、死を賭して不法検地を訴え続けた結果、幕府からは「検地十万日延期」を確約させることが出来た。

これは幕府の敗北を意味し、事実上検地の挫折で、農民達は目標を達成させたのである。

 

針文五郎

針文五郎

針文五郎

 

針文五郎明

針文五郎

針文五郎

 

針文五郎は、天保14418日に死亡したが、 行年50歳であったという。

この時犠牲になった農民を「天保義民」と崇め、慰霊と功績を残す記念碑「天保義民の碑」が立てられた。

明治時代に建立されたもので、高さは約10メートルを誇るという。

三雲駅の東200m程の山裾にあり、毎年1015日には慰霊祭が行なわれるらしい。

 

 針公民館を後に、再び街道に出て西に向けて歩を進める。

暫く行くと左手に、近江の地酒「御代栄」で知られる北島酒造の白壁の建物が見えてきた。

創業が文化2(1805)年と言い、以来14代続く老舗の酒蔵である。

 

針文五郎

針文五郎

針文五郎

 

針文五郎

針文五郎

針文五郎

 

家棟川隧道は、明治191886)年に築造されたトンネルで、由良川から西に800m程進んだ先にあった。

三川目の天井川を潜るトンネルは、アーチ型隧道で、高さ3.64m、長さ21.82m、幅約4.55mであった。

近年家棟川では、災害防止対策で、流路の変更等により改修工事が進められた。

河口(野洲川合流部)から1370mの間の河川が掘り下げ、新橋が架かり、隧道は、昭和541979)年に撤去された。

 

現在は、「家棟川」と陰刻された額だけが「奉両宮常夜燈」の脇に残されている。

家棟川は針集落の西端流れていて、近代橋・家棟川橋でこれを越えると旧東海道は平松集落に入っていく。

すると頻りに「うつくし松」と書かれた案内板を目にするようになる。

 

針文五郎

針文五郎

針文五郎

 

当地の美松山(227m)の麓に「松の葉細く、艶ありて、四時変せず蒼々たり」と言われる松が自生していた。

これは、大正101921)年、国の天然記念物に指定された「平松に自生する赤松の変種」らしい。

「根から放射状に出て傘を開いたような美形の松で、大小二百本が群生している」という。

 

江戸時代には観光名所として街道を行き交う旅人に、昭和天皇も自生地に御幸されたと伝えられている。

「隣山は常の松にして美松一本も無し」と言われ、松はここでしか育たず、他所に移すとすぐに枯れてしまう。

 

松にはこんな伝説もある。

「平安時代、病弱な藤原頼平が静養のために当地を訪れたおり、然数人の天女が木々の間から舞い下りた。

京都西山・松尾明神の使いで、頼平様をお護りするためにやってきたと言った。

頼平は感涙に咽ぶが、ふと我に返ると天女は何時しか消え、松は見たこともない美しい姿に変わっていた。

驚いた頼平が文徳天皇に報告すると、天皇は勅使を派遣して事の真実を確かめ、美し松と命名した。

 

 

京立ち 石部泊まり

 

 

「京立ち 石部泊まり」

 

京〜大津は三里(11.8q)、大津〜草津は三里半六丁(14.4q)、草津〜石部までは二里半十七丁(11.7q)だ。

歩くしか移動の手段がない当時の人は健脚を誇り、一日に10里(40q弱)は歩くと言われていた。

京都を朝出発すると、石部には夕方陽が暮れるまでには到着出来ることからこのように言われた。

ここから水口まではまだ三里半(13.7q)もあり、流石に無理で、江戸へ下る旅人の最初の宿となっていた。

 

 近江の国「石部宿」は、現在の湖南市に有る。

東の甲賀市との市境は国道1号線の泉西交差点辺りで、西は名神高速道路の通る辺りが栗東市との境だ。

この間10q余、旧東海道が市域を貫いている。

 

その為同市では旧街道を挟み道路境界から25mの範囲を「東海道沿道地区」と定め景観造りに務めている。

「宿場町に暮らす人々の“営み”と“おもてなし”が行きかう人々の心とも響き合う」

「百年先にも誇りをもって住み継ぐことのできる美しい景観」づくりが方針という。

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

平松は道中奉行の高木伊勢守が領し、陣屋が建てられたが、その後建物は取り払われ跡地が残されている。

柑子袋(こうじぶくろ)集落には、南無妙法蓮華経のお題目石が建てられていた。

上葦穂神社の参道入口を過ぎ、その先で広野川(落合川)を越えると、いよいよ石部宿の東入口見附である。

当時は、幅3m、高さ2m程の土塁が築かれ、木戸が有り、番兵が通行人を厳しく見張っていたという。

 

 その先には「吉姫(よしひめ)神社」がある。

創祀年代は分かっていないらしく、元は現在の御旅所の地に、斎き祀られていたと言う。

現在の地に斎祀再建されたのは、天文3(1534)年のことである。

ここから1q西に有る「吉御子(よしみこ)神社」とは、女神(上社)・男神(下社)対の関係にある。

 

毎年51日の「石部例大祭」になると、二つの神社からそれぞれ神輿が担ぎ出される。

当日は本殿で祭典があり、引き続き分霊を神輿に移して行列を整え、両神杜を10時頃に出発し御旅行に向かう。

大神輿、子供神輿が神社に戻るのは、夕方6時頃で、その間氏子中を巡行するそうだ。

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

石部中央の交差点の角に、ポケットパークがあり、この辺りが嘗ての宿場の中心的な場所らしい。

常夜灯風のモニュメントが有り、「石部城跡」「高札場跡」「本陣跡」など、沢山の説明板が張られている。

 

 「安民米倉庫」は、教育費に充てられた安民米(救済米)を収める倉庫のことだ。

植付け時に食べる米のない百姓に、米一俵を安民米として貸付け、収穫時に年貢として五升を返す制度らしい。

 

「お半・長右衛門」と言うのは、この宿に伝わる悲恋の主人公の名である。

若者に言い寄られ困惑する石部の町娘お半(13才)を、京都帯問屋の主、長右衛門(45才)が匿った。

その後、二人は恋仲になり結ばれるが、長右衛門には妻がいた。

その事を苦にしてお半は自殺、それを知った長右衛門も後を追い、心中を遂げたという。

 

「常盤館」は、殿城道辺りにあった大規模な芝居小屋だ。

舞台中央には回り絡繰りが設置されており、評判も高く遠方からも観客が集まっていたらしい。

大正81919)年に火災で焼失して無くなった。(何れも説明板による)

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

交差点を渡ると、その先の左側には、「石部宿小島本陣跡」の案内板がある。

小島本陣は吉川代官所の跡地に建てられ、永応元 (1652) 年に本陣となり、明治維新の本陣制廃止まで続いた。

敷地2845坪に、間口45間、奥行31間、建坪775坪、部屋数26室の家だ。

東海道筋では豪壮鮮麗な建てものとして知られていたが、昭和40年代に老朽化で取り壊わされた。

 

跡地には街角サロン「いしべ宿驛」が建てられ、誰でも休憩所として利用できる。

横に明治天皇聖蹟碑が立っている。

 

旧道は左程広くは無く直線的である。

家並みは平入りと妻入りが入り乱れ、その中に比較的新しい家屋等もあり、統一感は無く雑然としている。

それでも所々に漆喰壁、虫篭窓、格子戸のある古い家等も見られ、そこそこに宿場の雰囲気は感じられる。

旧道沿いには、清酒・香の泉を造る竹内酒造もあった。

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

石部宿

石部宿

石部宿

 

 近江国甲賀郡石部(いしべ)については、「後ろの山を いそべの山といふ」と、江戸時代の旅案内にある。

その事から、昔は「いそべ」とも呼ばれていた。

宿の成立も諸説有り、信長の統治下には近隣五か村が統合され、既に「石部町」が形成されていたという。

今日では、「いそべ」では無く、ほぼ「いしべ」に統一されているが、何時頃からか定かではないらしい。

 

 東海道51番目の宿場、石部の宿内人口は1600人余り、家数が458軒、その内旅籠は32軒有った。

京に近く、京を朝立ちの貴人達にとっても、最初の宿泊地としての需要が多かったらしい

本陣は幕府直轄と膳所藩直轄の小島本陣と三大寺本陣の2軒が有った。

人口比では男性が800人余りで、女性より僅かに多く、都に近く、公を憚ってか、遊女はいなかったらしい。

 

 

石部の田楽茶屋

 

 

安藤広重は、「東海道五十三次之内 石部」として、「目川ノ里」の田楽茶屋「いせや」を描いている。

左手に茶店を大きく置き、店先の賑わう様子や、街道を行き交う人々の姿を描き込んでいる。

後方で藍色に霞むのが琵琶湖で、その奥に薄墨色で描いている山が比叡山であろう。

広重が画いた「目川ノ里」の「目川」は、石部宿よりは更に二里以上も西に離れた地域である。

ここには「上り下り立場(休憩場所)」が有り、菜飯と田楽が名物で「伊勢屋」という茶店があったそうだ。

 

 広重が画いたように、石部近辺の街道名物は、「菜飯」や豆腐百珍の一種「田楽豆腐」で有った。

「菜飯」とはダイコンやカブなどの葉を刻んだ青菜を混ぜて炊き込んだご飯である。

また「田楽」とは串に刺した豆腐を焼いて、木の芽みそやゆずみそ、黄味みそ等をつけて頂くものだ。

 

宿場にはこれらを食べさす「京いせや」「こじまや」「元いせや」の三軒の代表的な茶店が有った。

それらは「田楽茶屋」と呼ばれていたが、それを模した店が、平成142002)年、宿の西外れに再現された。

 

田楽茶屋

田楽茶屋

田楽茶屋

 

田楽茶屋

田楽茶屋

田楽茶屋

 

田楽茶屋

田楽茶屋

田楽茶屋

 

「歴史と文化を後世に伝え、旧東海道を歩く旅人や地域の人々の憩いの場となるように」

旧石部町制百周年記念として、立派な木造平屋建てのお食事処として甦っている。

店内には、市内の名所や観光スポットを紹介するタッチパネル式観光情報ボックスが設置された。

近隣観光地の検索等ができ、トイレも備え、地元の人や宿場を訪れる観光客等が休憩できるようになっている。

 

お勧めの食事メニューはオリジナル料理、「自然薯とろろ飯」や「自然薯とろろそば」だ。

これらは、すりおろした自然薯に胡麻とつゆを合わせ、御飯やそばにかけて食べる料理である。

豆腐とこんにゃくの田楽や、「山うなぎ」と呼ばれる「自然薯の蒲焼き丼」も評判らしい。

 

石部に古くから伝承されている郷土料理、「芋つぶし」も提供されている。

これは当地の伝統的な食べ物で、里芋と御飯を潰し丸くして、田楽味噌と甘辛醤油で味わうものでだ。 

シンプルで素朴、腹持ちが良く、歩き旅にはもってこいで、どこか懐かしく、ひなびた味わいがする。

この他にも、喫茶メニューがあり、各種飲み物が提供されている。

 

谷口長英堂

谷口長英堂

谷口長英堂

 

谷口長英堂

谷口長英堂

谷口長英堂

 

 田楽茶屋の前をそのまま西に進めば、「吉御子(よしみこ)神社」が鎮座している。

東見附近くの「吉姫神社」とは、男神(下社)・女神(上社)対の関係にあたる社である。

東海道はそこには向かわず、ここで右に直角に曲がる。

 

 暫く行くと左側に、創業以来100年以上、今は四代目が切り盛りする「谷口長英堂」という和菓子屋が有った。

代表的な菓子は太鼓の形をした最中「石部太鼓」だ。

甘さを抑えたさっぱりとした粒餡がぎっちり詰まっている。他にも「いしべえどん」という蕎麦饅頭もある。

 定番は30年以上前から愛され続けている「大福」で、栗、桃、蜜柑、抹茶、珈琲、塩豆などがあるらしい。

中でも季節限定毎年11月から販売される九州産のイチゴを白餡で包んだイチゴ大福が特に地元では評判という。

 

 

石部の金吉

 

 

 宿場の両入口「見附」に土手を築くのは、宿内が見通せないようにする為だ。

街道の鍵曲がりは見通しを悪くする目的で、街道を横切る間道も、決して十字に交差せず筋違いに通す。

これらは、大勢が一気になだれ込まないようにする為の工夫でもある。

何れも宿場を守る防御的機能で、何所の宿場でも大なり小なり考えられていた。

 

石部には享禄年間(1500年代)に建てられた石部城が有ったが、織田信長との戦いで敗れ落城した。

宿内の寺は、一朝有事には武者溜まりや戦術上の拠点となる。

又本陣が一杯の時はその代替となる。更に宿内で大名同士が行き違う場合、格下大名の一時退避場所となる。

城下寺町の名残なのか、西福寺、蓮乗寺、淨現寺、明清寺、真明寺等、街道筋には矢鱈と寺が多い。

 

石部の金吉

石部の金吉

石部の金吉

 

石部の金吉

石部の金吉

石部の金吉

 

 東海道はここから100m程で突き当りを左に直角に曲がり、下横町を西進する。

曲がった先に「石部一里塚跡」があり、ここには北側に榎、南側に椋が植えられていたらしい。

明治の時代に入り、宿駅制度が廃止されたのを期に撤去されたという。

 

 その先には北が長さ二丈二尺(約7m)、南が長さ三丈八尺(約2.5m)、高さ五尺八寸(約1.5m)の土居があった。

上に松が植えられた「西の見附」があり、西側には目見改場(番所)が、境界を示す傍示杭も立てられていた。

 

宿場最後の鍵の手を抜けると宿内は終わりだ。

石部を出るとやや北寄りに、右手奥に石部駅を見ながらゆるく曲がって西に向かう。

嘗てこの辺りは「西縄手」と呼ばれ松並木の続く道であったが、今松は何所にもなく町名に往時を偲ぶだけだ。

 

石部の金吉

石部の金吉

石部の金吉

 

石部の金吉

石部の金吉

石部の金吉

 

石部の金吉

石部の金吉

石部の金吉

 

石部の金吉

石部の金吉

石部の金吉

 

石部宿天狗谷の西端一帯は昔「石部金山」と呼ばれ、昔は銅や亜鉛を掘った鉱山跡だが、この辺りの事らしい。

「江州石部宿の駅西の入口の山にあり、新道三軒茶屋(五軒茶屋)という村の山也、色白くやわらかにして塊をなす

刻めば白粉となる。真の石灰のごとし。」ここでは石灰岩を産していた。

寛政5(1793)年頃より内貴勘助が焼いて石灰を製造していて、通称「灰山」と呼ばれていた。

 

近世では灰山は白壁等の建築用、止血剤等の医薬用、紺屋細工用或は防虫剤更に肥料として使用される。

近世後期になると、高価な干鰯に変わって土壌改良に使用するようになる。

 

良く融通のきかない堅物を、石と金を重ねて、人名めかして「石部金吉」と言う。

この四字熟語は江戸時代には既に使われていて、この「石部金山」から転化した言葉とされている。 

又一方で江戸時代の歌舞伎の台詞や浮世草子の中で使われた言葉との説も有り、定説は無いらしい。

 

石部の金吉

石部の金吉

石部の金吉

 

石部の金吉

石部の金吉

石部の金吉

 

石部の金吉

石部の金吉

石部の金吉

 

 国道1号線を越える手前で左に折れるのが本街道「上道」で、直進するのは「下道」だ。

ここは野洲川まで山塊が押し出したような狭隘の地である。

度々の氾濫で道が荒れ山側に迂回道がつくられ、茶屋(五軒茶屋)も設けられた。

 

上道は距離が倍となり評判が悪く、後には下道が整備され本街道と成った。

今では、草津線と平行し進み、先で名神高速道路の高架を潜る。

横を流れる宮川は、ホタルが飛び交うらしい。

街道はここから二里半十七丁(11.7q)の長丁場、次の草津宿を目指す。

 



 

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