伊勢斎宮へ御出駕の宿所 斎王の里 頓宮

 

 

「古斎宮群行の頓宮有りし所ゆへ、今に村の名残る」

 

松尾川の渡し場に、今は渡しも土橋もない。

現在の東海道歩き旅は、下流の国道に迂回して、安全な白川橋の歩道を歩き渡る。

嘗て渡れば松尾村で、立場が有り、僅かな上り坂になり、灰俵坂の名残も有ったらしい。

 

国道交差点が「頓宮」で、角に小公園があり「斎王の里 頓宮」と刻まれた自然石の石標が置かれて居る。

横にはこれまた自然石を積み上げた大きな石灯籠も据えられている。

この辺りを「頓宮(とんぐう)村」とい、嘗て「垂水斎王頓宮」があった場所である。

 

斎王の里

斎王の里

斎王の里

 

斎王の里

斎王の里

斎王の里

 

斎王の里

斎王の里

斎王の里

 

斎王の里

斎王の里

斎王の里

 

 斎王とは、天皇が即位するたびに伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女または女王をいう。

一行が都から伊勢斎宮まで、56日の旅へと御出駕される旅を「斎王群行」といった。

その宿泊所を「頓宮」といい、ここには378年間に31人の斎王が宿泊され、国の史跡に指定されている。

 

 国道から一本南の旧道に再び入り、旧前の村を西進する。

カラー舗装の道で、所々に虫籠窓を持った旧家も見られ、落ち着いた家並みが伸びている。

直ぐ左奥に瀧樹神社があり、更にその先で地安寺、諏訪神社が続く頃には左手に野洲川がより近づいてくる。

 

斎王の里

斎王の里

斎王の里

 

斎王の里

斎王の里

斎王の里

 

斎王の里

斎王の里

斎王の里

 

右手の生徳山長泉寺は、門前が児童遊園地に開放されている。

浄土宗の寺で本尊は阿弥陀如来、境内には子安延命地蔵尊があり、地元民から篤く信仰されている。

市場村の外れ大日川の手前は、市場の一里塚跡で、江戸日本橋より数えて百十一里目だが遺構は何もない。

 

 更にその先の橋の手前に「大日川掘り割り」の石標が建っている。

大日川橋を渡れば旧大野村で川がその境となり、この辺りが土山と水口宿の中間になるらしい。

 

斎王の里

斎王の里

斎王の里

 

斎王の里

斎王の里

斎王の里

 

斎王の里

斎王の里

斎王の里

 

斎王の里

斎王の里

斎王の里

 

斎王の里

斎王の里

斎王の里

 

頓宮山を源に、大野村や市場村を流れ野洲川に注ぐのが大日川である。

昔は一度大雨が降ると川幅が広がり、流域の水害被害が甚しかった。

その為江戸時代初期、大野村は市場村との境に堤を築くが、今度は市場村が重大な水害を受けることになる。

 

 堪らず市場村では、城主の許可を取り、頓宮村より総延長504間、川幅四間の排水路掘削工事に着手した。

市場村民の総賦役により、元禄161703)年に排水路を完成させた。

それがこの大日川の掘り割りらしいが、今は草に覆われた一筋の流れとなっている。

 

 

間の宿 大野村

 

 

この向かい側に「東海道反野畷」の碑が立ち、その先にも同様な碑があり、この間が畷道である。

この辺りには若干松並木が残され、その道は凡4町(約400m)続き、周辺には名産の茶畑が広がっている。

手前に淀藩領界石「従是東淀領」が立ち、この地には淀藩の飛地が有った事が解る。

 

大野小学校の手前に大野村の鎮守・花枝(はなえ)神社の鳥居が建っている。

鳥居の奥遙かに森が見えているが、途中国道を越え凡400m程の参道の先に社殿が鎮座しているらしい。

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

 宿場と宿場の間にあって、休憩が取れる集落のことを間の宿と言った。

小規模な茶店だけの場合は立場といったが、大野は可成り大きな間の宿で、商店なども存在した。

当時幕府は宿場以外での宿泊を認めてはいなかったが、これは建前で実際には間の宿では宿泊も出来た。

 

ここは土山と水口のほぼ中間にあり、松尾川の渡し場を控えていたので、旅籠が充実していたようだ。

「ひょうたん屋」「指物屋」等と、商店であろうか、家号の札が幾つかの家の軒下に貼られている。

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

「旅籠丸屋」「旅籠井筒屋」「旅籠篤居屋」「旅籠日野屋」「旅籠森田屋」「旅籠柏屋」等、旅籠の跡がある。

中には「旅籠枡屋」の石柱と同じ家号の看板を掲げる旅館もあり、今日まで宿泊業を続けているのであろう。

明治天皇東幸の折には、当地の小幡屋で小休止された。跡地にはそれを記念した「聖蹟碑」が建っている。

町筋では、明治期以降五代続く「初桜」の蔵元「安井酒造場」が、昔ながらの製法で地酒を醸し出している。

 

その先右側に、「みよし赤甫亭」と言う日本料理屋がある。

玄関脇に、『三好赤甫先生をしのびて「師の訓え 座右の銘とし 汗に生く」』の石碑があり、生誕の地らしい。

赤甫は東福寺の虚白の弟子で、この地方に俳諧の基礎を築いた人物と言われている。

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

 大野の交差点で国道1号線を越えるが、手前右手角に、『大日如来』を祀った小さな祠が建っていた。

渡ると、正面に「若王寺」の寺標が立ち、この奥突当りに浄土宗の『布引山医王院若王寺』があった。

元々は天台宗の寺院で、御本尊は薬師如来。ここからは鐘楼、山門や境内の大杉が見えている。

天正年間に兵火で全焼し、その後仮堂が造られ、承応2年(1653)に浄土宗に改宗したという。

その後、万治元年(1658)に本堂が再建され今日に至っているらしい。

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

間の宿 大野村

間の宿 大野村

間の宿 大野村

 

 旧東海道は暫く国道を歩き、バス停の所から右の旧道に入り込むと、この辺りから旧徳原村である。

左手の国道は一段低い所を通り、その更に南側には広大な河川敷が拡がり、中を野洲川が流れている。

間の宿・大野の家並みはこの辺りまで続いていたらしい。

 

若王寺から凡1.7q、国道の大野西交差点に合流すると、角に「東海道 今宿」石碑と石灯籠が建っていた。

嘗ての今宿村は、「しょうちゅうの名産也」と旅人に持て囃された焼酎の産地であった。

大野村にも、「玉の井という銘酒有り」といわれ、旅人に親しまれていたらしい。

この辺りは野洲川の伏流水が豊富なのであろうか、蔵元も多く、醸造が盛んに行なわれていたようだ。

 

 

近江国甲賀郡 水口宿

 

 

道は甲賀市土山から、既に甲賀市水口町の今郷に入っている。

国道1号線の大野西交差点を横断し、接する県道549号線に入り、直ぐに右手の坂を上り旧道に入る。

嘗ての今在家村は、明治211879)年に小里村と合併し、今郷(いまごう)になった。

 

旧道に入ると直ぐに、浄土宗の浄土寺があった。

その近くに「東海道今在家村 生掛ろうそく 蝋燭屋」の家号を掲げた立派な民家があった。

ろうそくは道中の必需品、繁昌していたのであろうか、随分と豪華な店構えである。

 

 後年、広大な河川敷に新道が開かれたようで、旧街道は、それより一段高いところに残されている。

旧道が高いのは洪水を避け、安全な高台、野洲川の河岸段丘上に作られたからと思ったりもする。

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

 江戸日本橋より数えて百十二里目が、今在家の一里塚である。

東海道は土山宿から二里半七丁、今の距離でおよそ10.6q、50番目の宿場・水口に入ってきた。

古くは近江国甲賀郡にあり、伊勢に通じる街道の要衝として開け、室町時代には既に宿場が形成されていた。

 

「水口」の読みは、“みずぐち”とは言わず、“みなくち”と読む。

「水口」とは、稲作文化の日本ではその生命線とも言える水を、田に取り入れる出入り口のことを言う。

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

 水口宿の南部を、野洲川が東から西に流れ下っている。

宿場町はその流域に形成され、廻りには広大な田畑が広がっていたらしい。

「此所は四方みな川おほく田地大なれば、鰌魚(どじょう)をとりて売りに来る・・」と言われた地だ。

 

 宿場の名物には、干瓢、葛細工、煙管、周囲の田畑で豊富に獲れる泥鰌でつくる汁等が知られていた。

今では廃れてしまったが「水口細工」などの土産もあり、豊富な品揃えで楽しませていたという。

 

夏の風物詩干瓢は、広重の画く東海道五十三次の画も、「水口 名物 干瓢」として取り上げている。

宿場外れであろうか、農家の女性達が、夕顔の実を細長く剥いて、それを干す様子を描いている。

画面右側には、民家の垣根に干されている様子も克明に写し取っている。

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

山川の橋を渡ると田町で、ここには東海道が定められた慶長年間以降、家が建ち始めたと言う。

続くのが東の見附があった片町で、天和2(1682)年には枡形に柵が設けられていた。

潜れば水口の宿場町内で、すぐに国道307号線を越えるが、この辺りを「牛ヶ渕」と呼ぶ。

 

 関が原合戦の三ヶ月前、慶長51600)年6月、上杉討伐の途中にあった家康を暗殺しようとした場所である。

石部宿に宿を取った家康に、時の水口城主・長束正家は鉄砲100挺を献上した。

更に、「城外の牛が淵に新築した茶室で、昼食を共にしましょう」と家康を誘ったそうだ。

 

ところがその夜、「茶室には、岩壁の下の『牛が淵』に落ちる仕掛けが有る」との密告があった。

慌てふためいた家康はその夜、「女輿」に乗り、水口城下を通らず間道を通って土山方面に難を逃れたという。

 

 

水口宿の三筋町

 

 

水口宿は、石部と土山の宿場に挟まれていて、宿場としては余り活気あるとは言えなかったようだ。

「京立ち石部泊まり」の通り、京を朝立ちした東下りの多くの旅人が最初の宿とするのは「石部宿」である。

石部から水口までは、まだ三里半(13.7q)も残し、余程の健脚でもないとここまでは辿り着けない。

又、鈴鹿超えの旅人は土山泊まりが多く、更に二里半七丁(10.6q)も歩く元気はなかったようだ。

 

しかし、「街道一の人止場(ひととめば)」と言われ、留め女による客引きは、頻りに行われていたという。

「女の声にて わやわやいう」と伝えられる、客引きの留め女の勢力が強かったようだ。

「物をいわせよといえども、女どもは耳にも聞き入れず、無理に家のうちにひきこむ」ほどであったらしい。

宿選びの時刻だけは、客引きの賑やかな声で大いに賑やかであったと伝えられている。

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

 人口2600人余りの宿場には692軒の家があり、本陣と脇本陣が各一軒、旅籠は41軒を数えた。

男女比では女性が多いものの、宿場に遊女はいなかったと伝えられている。

 

 片町、松原町を経て作坂町に到る間の左側に、脇本陣と本陣跡があり、その先が東の高札場だ。

古城山の南に開けた水口宿の宿内は、「三筋町」と呼ばれ、この札の辻でまず二つに分岐する。

 右の通りを北裏通りと言い、町人町らしい。

道筋では、水口神社の祭礼で引き回される曳山の山倉を幾つか目にすることが出来る。

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

 左側の取りは、昔ながらの賑わいが残る商店街が続いている。

この道が東海道の本道と思われるが、地元の人は、「何れも東海道、どちらを通っても宜しい」と言う。

 

その道は少し行った旅籠町で、更に二つに分岐するが、左の道は南裏通りと言い、寺町の様相だ。

円福寺、善徳寺、蓮華寺、西連寺等多くの寺院が甍を連ねていて、東の備えを構成している。

三本に分かれた道は、およそ800mあり、通りには旧町名を書いた石柱も立てられている。

 

この通りの東端南側には伝馬会所が有り、この辺り一帯は川岸と呼ばれていた。

当時は野洲川の河原がこの辺りまで広がっていたのであろう。

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

大池町には、宿場の有力者が役人を務めていた問屋場跡が有る。

問屋場は、公用で旅をする役人などの荷物を次の宿場まで運ぶ、継ぎ立てを差配する場所だ。

この時代、伝馬の定めで宿駅(宿場)には、人足や馬を定められた数だけ揃える義務があった。

 

柳町には、軒下に「いまむら呉服店」の看板を掲げた、伝統的な平入りの町屋があった。

旧街道と大岡寺山門に向かう大手道(市道大岡寺線)とが交差する東側、大池町に小公園がある。

廻りには広場、駐車場、トイレ等が整備されていて、宿場観光の拠点となっている。

 

そこには、平成212009)年に、「江戸時代の旅と宿」をテーマにして作られたからくり時計がある。

時計の下側には、水口曳山のミニチュアが飾られ、その傍に「曳山の由来」の書かれた碑が有る。

それによると曳山が初めて登場したのは、享保201725)年で、九基による巡行が行なわれた。

その後、祭が発展するに付け、各町毎に造られるようになり、今では三十基余を数えると言う。

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

 町並は、夷町から番町、平町と続き、ここには人足会所(にんそくかいしょ)跡が有った。

人足会所とは、宿駅間の継ぎ立てに従事する人足を雇うための事務手続きをする役場のことだ。

寛永期には平町に設置されていたが、元禄期に入るとその会所は廃止された。

その後大池町東端に、東伝馬を併合して、新たな問屋場として設けられたと言う。

 

問屋場跡の前にあるのが、文政年間から続く「菓匠 一味屋」である。

代表する銘菓は、「水口祭ひき山」「水口の里」「碧水最中」「茶慕」「忍者の郷」「本陣羊羹」等がある。

ここではやはり「忍者もなか甲賀流」がお勧めだ。なんてこともない極普通の最中ではあるが・・・。

甲賀忍者の秘術を記した巻物を意匠した、近江米や十勝産小豆餡で作られた最中で、この地ならではの物だ。

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

この三筋町は、近江鉄道水口石橋駅横の踏切の手前まで続き、ここで一本に集束され、先で石橋を渡る。

石橋は城の壕の一部とされる馬渡川に架かる橋で、当時のままなのか、ここだけ道幅が狭くなっている。

石橋の先で、近江鉄道を踏切で越えるが、直ぐ左手に見えているのが、水口石橋駅である。

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

水口宿

水口宿

水口宿

 

三筋の街道が集束した「三筋の辻」と言われる場所には、ここにもからくり時計が設けられている。

江戸初期の頃は、ここに「京口御門」があり、宿場の出口、東海道の西側の入口であった。

 

門を出れば、初期の頃の東海道なら、この先は真っ直ぐに次宿に向け西に延びていた。

後に街道は、この先からは鍵の手に何度も曲がるように付け替えられている。

この先左側一体が新たな水口城内と成り、民の立ち入りが規制され、そこを避けるための措置である。

 

 

甲賀市ひと・待ち街道交流館

 

 

水口市の歴史・文化や観光情報を発信する、「甲賀市ひと・まち街道交流館」と言う施設がある。

地元自治振興会の交流の場、特産品等の紹介や販売、講演会・イベントの開催などが行なわれている。

宿場を訪れる客の憩いの場としての利用も出来、観光ボランティアガイドの拠点としても活用されている。

 

甲賀市ひと・まち街道交流館

甲賀市ひと・まち街道交流館

甲賀市ひと・まち街道交流館

 

甲賀市ひと・まち街道交流館

甲賀市ひと・まち街道交流館

甲賀市ひと・まち街道交流館

 

 

水口の新しいお城下町

 

 

 水口は東海道の宿場町であるが、元々は「水口岡山城」の城下町である。

甲賀最大の独立丘陵である古城山に、天正131585)年、豊臣秀吉が家臣・中村一氏に命じ築かせた城だ。

近江国を広範囲に見渡す眺望から、東国制覇の足掛かりとして、秀吉の甲賀支配の拠点とされた城でもある。

重要な位置付けでは有ったが、後に入城した長束正家が、関ヶ原合戦で西軍に属し敗れたため廃城になった。

 

戦後、徳川の直轄地となり、慶長年間に東海道の宿駅に指定されるも、嘗ての城跡は忘れ去られ荒廃した。

建物などは全て消滅したが、幸い石垣等の遺構は残され、今では「しろやま」と呼ばれ親しまれている。

麓からは登山道も整備され、山頂までは約820mで、15分もあれば登れるらしい。

 

水口岡山城の城下町

水口岡山城の城下町

水口岡山城の城下町

 

水口岡山城の城下町

水口岡山城の城下町

水口岡山城の城下町

 

水口岡山城の城下町

水口岡山城の城下町

水口岡山城の城下町

 

 宿場発足当初は宿泊施設も少なく、度々通行した家康もここでは寺院や民家に宿泊していたという。

三代将軍・家光の時代になり、寛永111634)年、宿場の西方に新しいが水口御茶屋が築かれることになる。

水堀に囲まれた天守閣を持たない、本丸と御殿の建つ二の丸の二郭で構成された「水口城」である。

 

 作事奉行を小堀遠州が務める幕府直営工事で、京都の大工頭中井家支配の大工達、延べ10万人が動員された。

しかし城は、家光が上洛の折り一度だけしか使われず、本丸御殿は後に解体されたという。

居館式城郭・水口城(別名碧水城)の城跡は、今では県の史跡に指定されている。

 

甲賀市ひと・まち街道交流館

甲賀市ひと・まち街道交流館

甲賀市ひと・まち街道交流館

 

甲賀市ひと・まち街道交流館

甲賀市ひと・まち街道交流館

甲賀市ひと・まち街道交流館

 

天和2(1682)年、加藤明友が入城すると水口藩が成立し、新たな城下町も整備される事になる。

三筋町を中心にした宿場町は、更に西に延び、そこが新たな城下町となった。

因みに加藤氏は「諦観の間」詰めの外様大名で、石高は甲賀・蒲生地区を中心に2.5万石である。

 

新しい城下町が形成されると、この辺り一帯は武家地となり、藩士以外の通行が出来なくなった。

城の東端に当たり、「天王口御門」が設けられ、藩士以外が武家地に入る事を厳しく禁じていた。

 

このため東海道はここで鍵の手に曲がり、武家地を避けるようになる。

北側に右折、左折、左折、右折、左折、右折と目まぐるしく曲がり、大きくい迂回する鍵の手となった。

その出口の西林口には、石橋から移された西の見附が設けられた。

 

小坂町の曲がり角に、江戸時代から知られた力石と水口石とも呼ばれる大石が置かれて居る。

由緒ある石らしいが、説明によると、江戸の絵師・国芳により錦絵の題材にも取り上げられたらしい。

 

甲賀市ひと・まち街道交流館

甲賀市ひと・まち街道交流館

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甲賀市ひと・まち街道交流館

甲賀市ひと・まち街道交流館

甲賀市ひと・まち街道交流館

 

甲賀市ひと・まち街道交流館

甲賀市ひと・まち街道交流館

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その先、北邸町には、下級武士達が住んだ百軒長屋跡が有った。

お城の武家地にあり、百軒(約180m)の棟割長屋には、下級武士達が住んでいたという。

棟割長屋と言うのは、複数の住戸が水平方向に連なり、壁を共有する物件である。

それぞれの住戸は独立していて、共同住宅の様に廊下などの共用部分が無いのが長屋の特長だ。

 

城の防御の役割を担う建物とされ、その為東海道に面した北側には、出入り口は設けられなかった。

往来に向かっては、与力窓と呼ばれる小さな高窓が設けられているだけであった。

街道を往来する物売りとは、紐を付けた笊により、この窓越しに買い物をしていたという。

明治初期まで21軒が残されていたたらしいが、今では全てが取り壊されている。

 

甲賀市ひと・まち街道交流館

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甲賀市ひと・まち街道交流館

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甲賀市ひと・まち街道交流館

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甲賀市ひと・まち街道交流館

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 百軒長屋跡辺りにも、平入り町屋の美しい町並が残されている。

武家町を避けた鍵の手も終わると、行く手に「天照大御神」を祀る五十鈴神社の森が見えてくる。

藤原時代の長寛2(1164)年に設けられた、「御厨」制度による御厨田の守護神である。

又五穀豊穣の神として伊勢皇大神の御分霊を、「福原大神宮」として称え奉ったのがその創始とされている。

「五十鈴神社」と改称するのは、明治4(1871) 年の事という。

 

街道に面した境内の一画に、113番目の林口一里塚跡があるが、今は一本の石柱と説明板があるのみだ。

元々はこれよりやや南方に有ったが、郭内の整備で街道が付け替えられたのを機にこの場所に移された。

 

そこを抜けると西林口で、ここは石橋から移された西の見附跡があり、木戸や番所が置かれていた。

街道を横切って流れている小さな川が見附川で、宿場の終わりを告げる川である。

 



 

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