峠を控えた休息の宿に 飯盛り女はいらねぇよ

 

 

「土山といへ共山なし 昔 此所の郡主の姓也」

 

こう言われるように、鈴鹿山脈の西麓ではあるが、土山には土山という山はない。

地名は中世、甲賀の地侍53家の一つ、甲賀流忍術の中心、土山氏がこの地を治めた事に由来している。

 

 平安時代初期の東海道は、土山の南方、杣川(そまがわ)沿いに東進し柘植を通っていた。

その先で加太峠を越える所謂、加太越え道である。

その後、仁和2(886)年に鈴鹿峠を越えて伊勢に向かう、阿須波道(あすはみち)が開かれた。

これにより土山にも街道が通り、やがて宿場が設けられることになる。

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

前宿の坂下からは凡そ二里半(9.8q)、難所「鈴鹿峠」を越えた宿場だけにその規模は相当なものであった。

また宿場の西には、北国多賀街道(御代参街道)の追分けもあり多くの旅人で賑わった。

ここは中世以降、商業の発達に連れ、物流が盛んになり、交通の要衝としても知られていた。

徒歩で荷物を運ぶ「足子集団」や、馬の背に荷物を載せて運ぶ「馬借集団」が発生したのもこの地である。

 

 「道の駅 あいの土山」を出て、カラー舗装された通りを道なりに進むと、突き当りに小公園がある。

この辺りからが宿場の入口で、町の地図と案内板が立っていて、そこを右折する。

暫くは土山茶の畑の拡がる長閑な道を行くが、それも直ぐに尽きると道幅がやや狭くなる。

「東海道土山宿」の石柱が見えると、やがて家並みの連なる宿内へと入っていく。

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

ここは東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)までが宿内とされた。

北土山と南土山で構成され、長さは二十二町五十五間(約2.5km)にも及んでいた。

 人口は男760人、女745人で、多くの宿場ではこの時代、女性人口が上回っていたがここでは男の方多い。

峠越えを控え、体力温存の旅人も多く、遊び惚ける訳にはいかなかったのか、ここには飯盛り女はいなかった。

天保141843)年の東海道宿村大概帳によると、家数は351軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠は44軒あった。

 

 宿場は昔ながらの古い家も多く、重厚な黒瓦葺切り妻造り、連子格子の町屋風の家屋が、平入りで並んでいる。

軒瓦の上には鳩や鯉などの細工瓦も飾られている。

通りに面し、粋な板塀を巡らし見越しの松の屋敷等も有り、宿場町らしい見応えのある静かな佇まいだ堪能できる。

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

明治231890)年2月、関西本線の前身の関西鉄道が三雲と柘植駅間で先行開業した。

南の平安時代初期の東海道のルートである、加太越え道をなぞるように敷設されたのである。

同年12月には四日市まで延伸開業したが、旧宿場町の土山に鉄道が通ることはなかった。

 

宿内を暫く進むと左手に小さな祠があり道中安全を見守っているのであろうか、二体の地蔵尊が安置されていた。

その傍らには真新しい道標が建っている。

「従是 右京都へ十五里 左江戸へ百十里」「東海道近江国土山宿生里野」とある。

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

家並みの玄関先には、「旅籠鳥居本屋」「たば古屋」、「三日月屋」などと旧屋号の札が掲げられている。

途中には二つ目の祠があり、白化粧された二体の地蔵尊が安置されていた。

更に右手に「旅籠大槌屋跡」の石標が続くが、建屋はなく奥行きの深い跡地だけが残されている。

 

次いで右手に東海道一里塚跡石標が見えてくる。

江戸日本橋から数えて百十里目の土山の一里塚跡で、塚木は榎が植えられていた。

高さ凡2.4m、周囲凡12m程の塚であったらしいが、今は完全に失われ跡形もない。

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

 宿場はいつの間にか、南土山に入り、街道筋の行く手には跡地を示す石標等が次々と現われる。

「岩田屋」、「油屋」、「旅籠 阿波屋」、「旅籠 寿し屋」、「旅籠 木屋」、「旅籠 海老屋」等だ。

更に、「旅籠山本屋」、「旅籠簾屋」、「旅籠釣瓶屋跡」、「旅籠大工屋跡」、「旅籠柏屋」等も見られる。

嘗て宿場には44軒の旅籠があったらしく、往時の街道の賑わいを、これらの石標が今に伝えている。

 

 

病を癒やした小六櫛

 

 

「吹け波(ば)ふけ 櫛を買いたり 秋乃風」

 

伊丹生れの俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫(おにつら)と言われた上島鬼貫の句碑だ。

貞享3(1686)年秋、東海道の旅中ここに立ち寄り「お六櫛」を買い求め、鈴鹿峠に向った時詠んだ句と言う。

この碑の近くに扇屋伝承文化館があり、本家櫛所の看板を掲げているが、「お六櫛」を商う商家だったらしい。

 

 妻籠宿の旅籠の娘・お六は、持病の頭痛を治したいと、旅人の教え通り御嶽大権現に願掛けをした。

すると「ミネバリという木で櫛を造り、朝夕これで髪を梳かせば治る」とのお告げを聞いた。

お六は早速言われたとおりにすると、たちまち病は治ってしまった。

 

以後この櫛は「お六櫛」と呼ばれ、木曽地方の名産品として作られるようになった。

享保年間以降になると、中山道の薮原宿などで、旅の土産として売られる様になる。

今日では県知事指定伝統工芸品となり、又文化庁の日本遺産の指定も受けている。

原料は、カバノキ科の固くて粘りのあるミネバリやイスを使う。

僅か10pにも満たない幅に、凡100本もの歯を挽くと言う小さな櫛である。

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

 櫛が土山にもたらされた経緯が説明されている。

「江戸は元禄の頃、伊勢参りを終えて当地に立寄った信濃国の職人が、重い病に罹った。

見かねた村人は、民家で手厚い看病をすると、幸い一命を取り留め、無事京に向けて旅立つ事が出来た。

職人はそのお礼として櫛の製法を伝えた」という。

 

 こうしてお六櫛は、土山宿生里野村の名物となり、最盛期には十軒余の業者が櫛に関わっていたらしい。

街道筋には「お六櫛商」を名乗る家号札も見られるが、家業としては全て廃ったという。

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

やがて南土山地区の中ほどを流れる来見(くるみ)川を、来見橋で渡る。

町並との調和を図って造られたのか、瓦葺の白壁土塀造りの欄干が贅沢な橋である。

上流側には東海道五十三次の画が、下流側には、土山茶もみ唄の歌詞が書かれたレリーフが飾られている。

 

橋を渡ると左手に速須佐之尊、天照大御神、豊受大御神が祭神の南土山の鎮守・白山神社が鎮座している。

本殿は寛文5(1665)年に火災により延焼し、文久3(1863)年に現在の場所に造営された。

毎年七月第三日曜日の「花奪い行事」、「土山祇園祭花傘神事」は滋賀県の無形民俗文化財に成っている。

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

南土山に「井筒屋跡」の石標があり、森鴎外の祖父・森白仙終焉の地と刻まれている。

白仙は石見国・津和野藩亀井家の典医である。

文久元(1861)年参勤交代に随行して、帰国の際病を得て当地を訪れたが、ここで急に息を引き取った。

南土山の臨済宗東福寺派・常明寺に埋葬され、国元には遺髪が送り届けられたという。

 

その翌年生まれた鴎外は、後年ここに立寄り、祖父白仙の墓参に訪れ、平野屋で一泊した。

明治331900)年3月午後の事で、森鴎外は軍医部長会出席のため東京に出張の途次であった。

ところが墓は、無縁仏同様に荒れ果て、見るに見かねて寺に改葬を依頼した。

合わせてご位牌の「信士」位を「居士」と改めるように依頼した。

後に祖母・きよ、母ミネも遺言により常明寺に葬られた。

その後墓は、昭和281953)年、鴎外の眠る津和野の永明寺に移されることになる。

 

当時の宿の中心は、旧中町から旧吉川町辺りで、森鴎外が一泊した「旅籠平野屋跡」もこの辺りにある。

平野屋の先の左側に、築200年、江戸中期の両替商の建物を改造した、民芸・茶房うかい屋がある。

地域の人の手作りの陶器などを展示販売していて、和風の喫茶コーナーでは、ぜんざいが評判らしい。

又、土山名物だった夕霧そばの復活を試みた鴨南蛮は、現代の土山名物という。

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

「東海道伝馬館」の前庭には、「文豪森鴎外 来訪の地」碑が立ち、「小倉日記」の一説が刻まれている。

余談になるが鴎外は土山土産として、誰に渡すのか、お六櫛を買って帰ったそうだ。

又、常明寺の墓地には、昭和631988)年に鴎外の子孫が建てた供養塔が残されていると言う。

 

 「万屋跡」「はた屋跡」等、旅籠の石標が続き、その先右手に「問屋場跡・成道学校跡」の石標も建っている。

土山宿の問屋場は、ここ中町と吉川町の二カ所に設けられていたが、明治の世になると廃止された。

跡地には成道学校が創立された。その場所の奥まった所に、「東海道伝馬館」がある。

 

 

東海道伝馬館

 

 土山宿の街道筋中程に、「東海道伝馬館」がある。

江戸時代の農家の建物を移築した施設で、宿場の交流拠点として平成132001)年にオープンした。

毎日(月曜と火曜は休み)9時〜17時の間で無料開放されている。

 

東海道伝馬館

東海道伝馬館

東海道伝馬館

 

東海道伝馬館

東海道伝馬館

東海道伝馬館

 

東海道伝馬館

東海道伝馬館

東海道伝馬館

 

東海道伝馬館

東海道伝馬館

東海道伝馬館

 

東海道伝馬館

東海道伝馬館

東海道伝馬館

 

東海道伝馬館

東海道伝馬館

東海道伝馬館

 

東海道伝馬館

東海道伝馬館

東海道伝馬館

 

東海道伝馬館

東海道伝馬館

東海道伝馬館

 

館に使われている母屋や蔵等の建物そのものが貴重な展示品の一部とされている。

その1階は、観光案内所も兼ねた特産品の販売所で、宿場の概要が模型で紹介されている。

 

天井の低い2階は企画展示室になっている。

直径50p程のお盆の上に、広重の東海道五十三次の画を忠実に立体化した模型が五十五点展示されている。

また各宿場の饅頭や餅などの名物の模型も、錦絵と共に展示されていた。

 

 

土山宿の本陣・脇本陣

 

 

土山宿には中町(南土山村)の「堤家」と、吉川町(北土山村)の「土山家」の二軒の本陣が有った。

「堤家本陣」は門構えと玄関を持つ建坪は196坪で、家号を「二階屋」と呼び、代々堤忠左衛門を名乗った。

 もう一方の「土山家本陣」の初代土山家は、甲賀武士・土山鹿之助の末裔で、土山喜左衛門を名乗っていた。

三代将軍家光が上洛する折に設けられた、敷地建坪325坪を誇る、重厚な構えの遺構が今日に残されている。

代々引き継いだ家督は十代に及び、明治初期の本陣制度廃止と共にその役割を終えた。

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

敷地内の奥に、明治元(1868)年、明治天皇行幸の際本陣で一泊された事を記念する天皇聖蹟碑がある。

天皇は、十七歳の誕生日を迎えられ、天皇即位最初の誕生日に当り、翌日この本陣で第一回天長節が行われた。

この日土山の住民に対して、神酒、鯣(するめ)が下賜されたという。

 

天皇聖徳碑の横に、仏教哲学者の井上圓了(18581919)の漢詩碑が建っている。

碑は、後にこの地を訪れたが、この逸話にいたく感動し、祝賀の様子を即興で漢詩に詠んだ。

『鈴鹿山の西に古よりの駅亭あり。秋風の一夜鳳輿停る。維新の正に是天長節なり。恩賜の酒肴を今尚馨』

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

 土山公民館から100m程で、一の松通りの十字路を越すと、大黒屋公園がある。

「大黒屋本陣跡」の石標があり、本陣の跡地が公園に成っている。

豪商立岡家が営む「大黒屋」は、「堤家本陣」が衰退すると控本陣として指定され、代替えとして使われた。

 

ここには、「大黒屋本陣跡」と並んで、「問屋場跡」、「高札場跡」の石標や、明治天皇聖蹟碑がある。

本陣廻りにも「旅籠俵屋跡」「旅籠山形屋跡」「旅籠近江屋跡」等、旅篭が取り巻いていたらしく石標がある。

 

近くには、土山公民館があり「宿場のけごみ」と刻まれた石柱が建っていた。

「げごみ」とは、「足を止めるところ」、「足を休めるところ」という意味らしい。

公民館の玄関脇にも「土山宿お休処」の看板が掲げられていた。

 

建物の前に立っている家

低い精度で自動的に生成された説明

土山宿

土山宿

 

家の庭

中程度の精度で自動的に生成された説明

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

やや右に曲がりながら吉川を大黒橋で渡る。

来見橋と同様の瓦葺白壁土塀風の欄干を持った橋で、鈴鹿馬子唄の歌詞やそれに因む画が貼られている。

「鈴鹿山には 霞がかゝる 可愛いゝ娘にや 目がかかる」

「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」

川幅は狭く、元々は土橋が架かっていたが、大黒屋本陣を勤める立岡長兵衛が石橋に架けなおしたという。

 

 土山は当時幕府直轄地で、天和3(1683)年、代官・猪飼次郎兵衛により初めて陣屋が置かれた。

しかし、寛政121890)年に起きた土山大火で焼失し、以降陣屋は信楽に移され、跡地だけが残されている。

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

土山宿

土山宿

土山宿

 

その先左手奥が、森鴎外ゆかりの常明寺だ。

境内には芭蕉の「さみだれに 鳰(にお)のうき巣を 見にゆかん」の句碑がある。

 

「旅籠古め屋跡」「旅籠藤屋跡」「旅籠常盤屋跡」の石標を見て進むと、やがて国道1号線に突き当たる。

その右角に「東海道土山宿」の石標と共に石灯籠が建っていて、宿場町の西外れ、京方口である。

往時の町並はこの先も続いていたらしいが、今は新道に分断されている。その南土山交差点を横断する。

 

 

御代参街道の道標

 

 

 国道の脇、右手の小路口に古い道標が二基建っている。

向って左の道標は、天明8年(1788)の建立で「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれている。

高野の世継ぎ観音(永源寺)への案内である。

ここから笹尾峠を越え鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小幡まで十里余りの脇往還が伸びていた。

 

右の道標は、文化4(1807)年の建立で、「右 北国たが街道 ひの八まんみち」と刻まれている。

日野、八幡また多賀大社や北国街道へ続く道を示し、ここが追分けで有った。

 

御代参街道の道標

御代参街道の道標

御代参街道の道標

 

御代参街道の道標

御代参街道の道標

御代参街道の道標

 

御代参街道の道標

御代参街道の道標

御代参街道の道標

 

 説明によると、寛永171640)年、三代将軍家光の乳母春日局が将軍の名代として多賀大社に参拝した。

その折、この道を通って伊勢神宮へ参詣したが、この往還はそれを期に整備拡張された。

 皇室には祖先神として敬う天照大神が祀られている伊勢神宮と多賀大社へ詣でる習わしがあった。

しかし、多くは代参の使者が定期的に訪れたことから御代参街道という名が付いたという。

 

「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」

 

多賀大社には天照大神の親神の伊邪那岐と伊邪那美の二神が祀られている。

このことから、その往きか帰りには必ず多賀大社へ参るものとされていたのである。

江戸時代に入ると、各地の庶民の間でも頻りに、伊勢神宮参拝が行われるようになった。

京からは伊勢街道で、江戸からは東海道で伊勢神宮に詣で、帰路土山宿に出てここから多賀大社に向かった。

所謂「両参り」の風習である。

 

御代参街道の道標

御代参街道の道標

御代参街道の道標

 

御代参街道の道標

御代参街道の道標

御代参街道の道標

 

 東海道はその先400m程で、昔は松尾川と言った野洲川の河畔に出る。

土山宿の町並みは、この辺りまで続いていたと言われているが、今その姿は見る影もない長閑な農地だ。。

 

嘗ては松尾の渡し場があり、有る時期は、「十五間の土橋有り」と言われたが、今はその何れも無い。

現代の東海道歩き旅は、下流の国道に迂回して近代的な永代橋・白川橋を渡る。

 



 

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