西の難所 鈴鹿峠を越えて 近江国へ

 

 

伊勢と近江の国境にまたがる、鈴鹿山脈を越えるのが鈴鹿峠越えだ。

古くは「阿須波道」と呼ばれ、仁和2(886)年に開通したとされている。

鈴鹿峠は、三子山(568m)と高畑山(773m)に挾まれた、鈴鹿川源流域辺りの峠をいう。

古くから和歌などでは、「鈴鹿山」として登場するが、鈴鹿山脈にこの名の山は存在しない。

おそらくは、「三子山」か「鈴鹿峠」を指しているものと考えられている。

 

峠道は多津加美坂と呼ばれ、「八丁二十七曲り」の厳しい石段と石畳の道で、所々に清水が湧いていた。

古くから山賊の出没が懸念され、江戸時代には箱根越えに次ぐ東海道西の難所として知られた道だ。

 

上り詰めると道はやや荒れてはいるが杉林の中の平坦道に転じ、木漏れ日の中を峠目指して伸びている。

やがて道幅がやや広がり、鏡石への分岐道が現われ、更に少し進むと、茶畑の中に並ぶ道標が見えてくる。

そこが標高380mの鈴鹿峠で、東海道は、いよいよ近江の国(滋賀県)へと入っていく。

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

ここは、「峠茶屋有り。伊勢と近江の境也」と言われ、「澤」の立場が開かれていた。

松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋という6軒の茶屋が有ったといい、名物は甘酒である。

山賊に襲われることも無く無事峠に辿り着いた旅人は先ずは一安心、茶屋で足を休めつつほっと一息である。

 

 米麹甘酒はビタミンB1やビタミンB2などのビタミンB群が含まれていて、「飲む点滴」といわれている。

ビタミンB群は、「代謝ビタミン」とも呼ばれ、さまざまな酵素の補酵素として働く。

エネルギーを作り出すのに必要な栄養素で、糖質を燃やしてエネルギーに変える働きがある。

昔の人は、こうした事実を経験的に熟知していたのであろう、多くの茶店では甘酒が提供されていた。

 

杉林を抜けた未舗装の街道は、開放的で明るく、両側に土山茶の茶畑が広がっている。

暫く進むと、難所の峠に有り、毎夜火が灯され、旅人の目印と成っていた「万人講常夜燈」が見えてくる。

金毘羅参りの講中が、道中の安全を祈願して、今から300年近くも前の江戸時代に建立したものである。

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠明

鈴鹿峠

 

説明によると灯籠は、重さ38トン、高さ5m44pあると言う。

山中村の高幡山(773m)天ケ谷より、霊験により見いだされた「神石」と呼ばれる自然石が用いられている。

地元の山中村、坂下宿や甲賀谷等、三千に及ぶ人々の奉仕によって出来上がったから万人講と呼ばれている。

灯籠は、大正131924)年7月開通した鈴鹿トンネル工事のために現在の位置に移された。

 

 この先東海道は、比較的緩やかな下り坂に転じ、ダラダラと下っていく。

右手眼下に国道1号線を望みながら200m程下り、突当りのT字を右折すると、先で国道1号線に合流する。

この先は国道に沿って歩くが、次の宿・土山まではまだ一里半程の道程を残している。

 

 

甲賀市と国道1号線

 

 

 東海道は、世帯数凡そ3.7万、人口は凡8.9万人の滋賀県甲賀市に入って来た。

甲賀郡の7町(水口町・土山町・甲賀町・甲南町・信楽町・甲西町・石部町)が合併して発足した市だ。

同市は、滋賀県の南東部に位置し、市域は東西に長く、三重県と京都府に境を接している。

東部は鈴鹿山脈等があり標高が高いが、西部に向かうほどに標高は段々に下がっていく。

 

甲賀市

甲賀市

甲賀市

 

甲賀市

甲賀市

甲賀市

 

甲賀市

甲賀市

甲賀市

 

 嘗て主要な幹線道路であった国道1号線は、旧東海道を前身とする路線である。

東京都中央区の日本橋から、大阪市北区の梅田新道交差点に到る総延長730qに及ぶ道だ。

 「一級国道1号線」として制定されたのは、昭和271952)年である。

昭和401965)年には、現行法下の「一般国道1号線」となった。

道路としての整備は、明治の新政府が発足すると整備計画が策定されている。

 

 昭和401965)年、名神高速道路が全線開通(小牧IC〜西宮IC)すると、この道の交通量は激減する。

更に旧東海道のルートに沿った、新名神高速道路(三重県四日市〜兵庫県神戸市北区)が暫時開通した。

これにより国道1号線は、決定的ダメージを受け、広々とした道路は閑散としたものになってしまった。

道路脇には、往時の面影を留めたドライブイン等が、二三今でも廃墟となって残されていた。

 

甲賀市

甲賀市

甲賀市

 

甲賀市

甲賀市

甲賀市

 

甲賀市

甲賀市

甲賀市

 

「甲賀」といえば、「伊賀」と共に、忍者の里として知られている。

忍者は、忍術を駆使して活躍した特殊技能集団で、数々の伝説が今日まで語り継がれている。

この地方の忍者の屋敷は、石垣はなく、土を盛り上げ、一辺50m程の土塁で四方を囲んだだけの館だ。

こうした古くからの館タイプの城館跡は、両地方で800カ所余が確認されているらしい。

乱世の時代共に競った両地方は、「忍びの里 伊賀・甲賀」として日本遺産に認定された。

 

 「甲賀」は、つい「こうが」と濁って読んでしまうが、正式には「こうか」と濁らないのが正しい。

同市の前身の甲賀郡も、「こうかぐん」と清音で呼ばれていた。

 因みに「伊賀」は、同じ「賀」の字は「が」と濁って読み「いが」が正式な呼び名である。

「伊賀」と「甲賀」は、何かと対比されることから、「甲賀」の読みが混同され誤読されるようになった。

 

甲賀市

甲賀市

甲賀市

 

甲賀市

甲賀市

甲賀市

 

甲賀市

甲賀市

甲賀市

 

 車の少ない静かな国道を、峠から2q程下ると左側に「十楽寺」がある。

嘗ては「山中千日村の常念仏寺」と呼ばれた、浄土宗総本山知恩院の直轄末寺である。

御本尊は、日本最大級の丈六阿弥陀如来座像が安置されている。

甲賀三大仏の一つで、これらを巡る「湖国甲賀の三大仏巡り」が頻りに行なわれているという。

他は大池寺(臨済宗妙心寺派、水口町)の釈迦如来座像と、檪野寺(天台宗、甲賀町)薬師如来座像である。

 

 国道の開通で旧道は失われたが、「十楽寺」から500m程下った所に、僅かばかり旧道が残されていた。

暫く行くと左側に、立派な和風建物のトイレが整備され、小さな公園風の緑地があった。

 小高い土盛りの上には「鈴鹿馬子唄碑」が立ち、脇の植栽の中に「東海道鈴鹿 山中碑」がある。

園内にはベンチが有り、奥に石灯籠が建っていて、「歴史の道東海道」整備の一環で設けられた施設のようだ。

 

 

山中村 新旧道路が交わる村

 

 

旧山中村には、広々とした旧道と、平入りの落ち着いた家並みが残されている。

途中右手に地蔵堂があり、嘉永6(1853年)建立の献灯が堂の前に建っていた。

東海道を行く旅人を見守っていたのであろう、脚柱には太く力強く「地蔵大菩薩」と刻まれていた。

 

その先には、旧道に延びる集落の上を、新名神高速道の巨大な高架橋が高く跨いでいる。

潜るという感覚も無い程高い高い橋の下を抜けると、国道1号線に突き当たる。

国道の手前左に広場が有り、「第二名神 滋賀県起工の地」碑とモニュメントが建っている。

平成7(1995)年、滋賀県下で最初の工事が、この地で着工されたのを記念する碑である。

 

旧山中村

旧山中村

旧山中村

 

旧山中村

旧山中村

旧山中村

 

右手には、江戸日本橋より数えて百九里目の一里塚跡、「山中一里塚公園」がある。

園内には「櫟野(いちの)観音道(大原道)道」の石標が残されている。

東海道と南西の旧神村(甲賀町神)や旧櫟野村(甲賀町櫟野)方面に向かう大原道の追分である。

 

この道は、「湖国甲賀の三大仏巡り」で知られる櫟野の櫟野寺への参詣道であった。

しかし、度重なる道路の改修や拡幅で失われ、道標はこの地に移され保存されたものだ。

一里塚も本来は、これよりもやや南寄りに有ったらしい。

 

旧山中村

旧山中村

旧山中村

 

旧山中村

旧山中村

旧山中村

 

文部大臣揮毫による、「鈴鹿馬子唄」碑も建てられている。

傍らには当時の峠越えの様子を現わす馬子と荷を運ぶ馬の石もモニュメントも飾られている。

折角の公園なのに、手入れは行き届いてはいず、若干荒れ気味なのが残念だ。

 

 

猪鼻村 蟹ケ坂とかにが坂飴

 

 

「猪鼻村 上り下り立場なり。坂有り。花坂は上り成り。此所よもぎもちをうる。」

 

「山中一里塚公園」から凡700mで、湯の山温泉に向かう県道507号と分岐する猪鼻の交差点に到着する。

本来の旧道は猪鼻交差点を右折し、その先のY字路を右に進み、若宮神社の社標を見て左折する。

道は直ぐに国道に戻るが、左手に「東海道 猪鼻村」の碑がある。

 

猪鼻の地名は、鈴鹿の山から下りてくる猪を除ける垣根があった所に由来している。

村は五十戸程の集落で、立場(旅人の休憩所)して賑わい、草餅や強飯が名物だったという。

 

蟹ケ坂

蟹ケ坂

蟹ケ坂

 

蟹ケ坂

蟹ケ坂

蟹ケ坂

 

蟹ケ坂

蟹ケ坂

蟹ケ坂

 

蟹ケ坂

蟹ケ坂

蟹ケ坂

 

 山中村を下った街道は、猪鼻交差点辺りからやや上りに転じる。

この辺りの標高は、284.9mで、旧道と接する辺りでサミットの295.5mを迎え、その先は少しずつ下りだ。

今では大した坂でも無いが、当時はこの上りを花坂、下りは蟹ヶ坂と呼んだ。

 

 国道脇の椎の木を目印に、そこから右の側道、本来の道に入り込む。

右手の森は、白川神社の末社・榎島神社で、この木は樹齢約四百年の御神木である。

境内には、白川神社御旅所の石標がある。

鈴鹿山にはびこる山賊を退治した坂上田村麻呂を祀る田村社と、退治された山賊を祀る蟹社がある。

 

蟹ケ坂

蟹ケ坂

蟹ケ坂

 

昔鈴鹿山麓に身の丈3mの巨大な蟹が出没し、旅行く人や近郷の村人に危害を加えていた。

ある時、京の僧・恵心(えしん)がこの地に赴き、大蟹に印明を示し、天台宗の「往生要集」を説いた。

説法を施すと、不思議にも大蟹が悪行を悟るが如く、我が身の甲羅を八つに割裂いて溶け失せたという。

 

恵心は八つの甲羅を埋めて、蟹塚を建て懇ろに葬った、その蟹塚は現在も残っているという。

この時不思議にも蟹の血が固まって、八個の飴となった。

それを竹の皮に包んで村人に授け、「この八ツ割飴は、諸々の厄除けに効あり」と伝えた。

 

 江戸時代、「東海道名所記」(万治元年版)で「生野、茶屋あり飴を煎じて売る」と紹介されるようになる。

旅の疲れを癒す糖菓子、「厄除けのかにが坂飴」として世に知られるようになったという。

今その店は、田村神社の門前で、営みを続けている。

 

蟹ケ坂

蟹ケ坂

蟹ケ坂

 

蟹ケ坂

蟹ケ坂

蟹ケ坂

 

 旧道には、左程古くはなさそうだが、良い雰囲気の平入りの家並みが今も残っていた。

蟹ケ坂村を抜け、工場の渡り廊下を潜って進むと右手に、「蟹坂古戦場跡」の石標がある。

天文111542)年9月、伊勢の国司・北畠軍は、この甲賀の地に侵攻した。

対する山中城主・山中丹後守秀国軍は、当地で北畠勢と戦い撃退し、侵攻を防いだと言う。

 

 

田村橋と田村神社

 

 

田園風景が広がる中に、真っ直ぐに伸びる長閑な畷道があり、その先に緑濃い豊かな森が見えてきた。

行く手に、自動車通行止めの標識が現われると、突き当りに真新しい木橋が見えてくる。

森は田村神社で、橋は田村川を渡る海道橋(旧田村橋)、この先が神社の境内である。

 

田村川は、鈴鹿山の分水嶺、宮指路岳(くしろだけ)山麓に源を発する一級河川で有る。

南西に流れ下り、南土山の白川で野洲川の左岸に合流する。

 

嘗て街道筋の田村川に橋は無く、徒渡りで、大水が出る度に溺れ死ぬ旅人が出る有様であった。

又度々の川留めは、旅人や宿場の関係者を苦しめていたため、田村川への架橋を幕府に願い出た。

幕府の許可を得て、安永4(1775)年、土山宿の人達が中心となって東海道の道筋を変え、橋を架けた。

 

田村橋

田村橋

田村橋

 

田村橋

田村橋

田村橋

 

田村橋

田村橋

田村橋

 

 「かりはし、水増ば かち渡り」

 

田村橋は、巾2間1尺5寸(約4.1m)、長さ20間3尺(約37.3m)、高さ0.3mの橋だ。

低い欄干が付いた、当時としては画期的な永代板橋で、渡り口には橋番所が設けられた賃取り橋だ。

百姓や旅人からは三文、荷物を載せて渡る馬の荷主にも、馬一頭につき三文の渡り賃が徴収された。

幕府公用の役人、武家やその家族、近在の百姓で川向こうに田畑が有り、日常的に使うものは無料である。

 

 永代橋の新設により東海道は、田村神社参道の一部を抜ける事になった。

橋は何度も掛け替えが行なわれながら、台風で流される昭和の141939)年頃まで架かっていたらしい。

今日目にする橋は、平成172005)年11月に、再建されたもので、「海道橋」と名付けられた。

 

田村橋

田村橋

田村橋

 

田村橋

田村橋

田村橋

 

「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」

 

 歌川広重の「東海道五十三次(保永堂版)」では、宿場・土山の図「春の雨」が描かれている。

雨の中、大名行列の一行は、田村川に架かる板橋・田村橋を渡り宿場に向かい歩く姿の克明な描写である。

正面に田村神社の杜を見て、合羽を着た一団が雨の中悄然と頭を垂れながら歩いている。

 

広重はこの強く降る春の雨を、垂直線と斜線を二版に分けて刷り込むことで、激しさを強調した。

当時としては珍しい低い欄干付きの橋の下は、雨により水嵩が増し、荒々しく流れ下る川も画かれている。

仮橋の時代は大雨ともなると、橋渡りは禁止され徒渡りを余儀なくされると、溺れ死ぬものが多数出たという。

 

土山は馬子唄の通り、伊勢の海から吹き上げてくる風が、鈴鹿山を越えると雨になることが多いらしい。

昔から土地の人々は、風の流れと雲の動きで雨をよんでいたという。

その事から「あいの土山」は、「あいのう雨が降る」の方言「もうすぐ雨になる」との意とする説がある。

ところが、「あい」の解釈には異説が8つもあり、未だに定説はないという。(甲賀市HP)

今では単に「土山」の枕詞のように使われる事が多いらしい。

 

橋を渡り神社の深閑とした杜を暫く進むと、右手に高札場跡石標がある。

永代板橋である田村橋が架けられたことで、東海道は付け替えられ、その一部となったのがこの道である。

道はやがて広々とした表参道に行き当たり東海道は左に折れるが、右に曲がれば田村神社である。

 

田村神社

田村神社

田村神社橋

 

田村神社

田村神社

田村神社

 

田村神社

田村神社

田村神社

 

 嘗ての東海道は、海道橋の手前で左折し150m程下って右折すると、そこに徒渡り場が有った。

渡れば真っ直ぐ宿場に入り込んでいたが、街道は付け替えられ、新たに、田村神社の森を抜けるようになった。

田村川の板橋を渡り、田村神社の境内に入り込み、表参道に出てそれを左折し宿場に向う。

 

田村神社は、近江国(滋賀県)と伊勢国(三重県)の国境近くにある弘仁3(812)年に創建された古社だ。

古来には都より伊勢へと参宮する街道に沿った交通の要衝に鎮座している。

 

大和朝廷の命により征夷大将軍として蝦夷を平定した坂上田村麻呂を主祭神としている。

また嵯峨天皇並びに倭姫命(やまとひめのみこと)を祀っている。

坂上田村麻呂は、鈴鹿峠で人びとを苦しめていた鬼を退治したという伝説が伝えられている。

 

田村神社

田村神社

田村神社

 

田村神社

田村神社

田村神社

 

田村神社

田村神社

田村神社

 

神社では、創建日に行なわれる4月8日の郷中祭(例祭)が、最も重要なお祭りと言われている。

また、新年初詣1月1日の歳旦祭や、毎年、2月17日、18日、19日の田村まつりが行なわれる。

これは、厄除け大祭とも言われ、、災いを治めるご大祈祷が三日三晩に渡り行なわれる。

その日は凡そ200の屋台が並ぶ中、県内外から20万人程の参拝客が訪れるという。

 

表参道に出て右に折れ、三の鳥居を潜ると左に社務所、授与所や祈禱殿があり、正面がご拝殿だ。

その奥の神明石鳥居を潜り、厄落とし太鼓橋を渡ると御本殿が鎮座している。

御本殿は銅板葺三間社流造り、厄除けの神として、また北土山の鎮守として信仰されている。

 

表参道は、天を突くように立ち並ぶ杉木立が林立し、足元には常夜灯が並んでいる。

古社らしく奉納された常夜灯も古い物が多く、文政121829)年や安政3(1867)年と刻まれた灯籠がある。

それが途切れると神社の入口で、幟旗が翻り一の鳥居が立っている。

 

その前の道が国道1号線で、横断歩道橋が架かっていて、土山宿へはこれを渡って行く。

橋上から東方面を振り返ると、越えてきた鈴鹿山脈は最早遠ざかり、幾重にも重なる山の遥か向こうである。

西を見ればいつの間にか片側1車線に狭まった国道が土山の町中を抜けている。

眼下の左手に土山名物を売る「かにが坂飴」の店舗が、右手には「道の駅 あいの土山」が見えている。

 

道の駅・あいの土山

道の駅・あいの土山

道の駅・あいの土山

 

道の駅・あいの土山

道の駅・あいの土山

道の駅・あいの土山

 

道の駅・あいの土山

道の駅・あいの土山

道の駅・あいの土山

 

 「道の駅」は、道路管理者や全国の自治体が整備・設置して、国土交通省に登録されたものだ。

高速道路で24時間利用が可能なSAやPAの、いわば一般道路版としてその制度が創設されている。

歴史は比較的新しく、平成3(1991)年、実験的な施設として山口や岐阜に設けられたのが最初である。

その後全国展開され広まり、今では全国には1198カ所あるといい、これを巡る旅も人気らしい。

 

「道の駅」は休憩施設に留まらず、地域の情報発信、利用者との交流の場としての機能が盛り込まれている。

その為多くの「道の駅」では、農産水産物など地元の特産品が販売されている。

加えて地域の特性や、周辺観光地等の情報発信、様々なイベントなども頻りに行なわれることがある。

温泉や宿泊施設、公園、展示場等を併設した施設もあって、今では観光地化したところも現われている。

 

「道の駅 あいの土山」は、国道1号線沿い、名古屋と大阪のほぼ中間に位置する駅だ。

宿場町の風情が残る土山宿の東入口にあり、目の前は北土山の鎮守・田村神社である。

本館には、食堂や地元の名産品や新鮮野菜、特産品を取り揃えた売店がある。

地元の栽培農家が提供する山野草なども売られている。

特に土山茶は主要な生産地として、店内では無料の土山茶のサービスがある。

別館「やまなみ館」では、抹茶ソフトクリーム、お茶を使った和風ラテ、その場で焼くお団子が人気らしい。

 



 

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