筆捨山

 

西の追分けを右に取ると、次の坂下宿までは一里半六丁(6.5q)の道程である。

進路を北に向け暫く国道1号線を歩く街道は、鈴鹿峠に向けた緩やかな上り坂が待っている。

鈴鹿川が一ノ瀬川と名前を変える辺りで、右の旧道に入ると長閑な里山、市瀬の集落だ。

 

 さらにゆったりと坂を上ると、中間地点の筆捨の集落に入り、右手に筆捨山285m)が見えてくる。

江戸時代から知られた名勝で、嘗てここに立場で、筆捨茶屋があった。

峠を上り下りする旅人は、身体を休め、鈴鹿川と対岸の筆捨山を眺め、四季折々の景色を楽しんだという。

 

筆捨山

筆捨山

筆捨山

 

筆捨山

筆捨山

筆捨山

 

筆捨山

筆捨山

筆捨山

 

説明によれば、室町期の画家・狩野元信がこの山を描こうとした。

ところが時々刻々、雲や霞が立ちこめ、山の姿が変わり、とても画けなくてとうとう絵筆を捨ててしまった。

岩根山はこんな伝説から、何時しか筆捨山と呼ばれるようになった。

今は茶屋も無く農家だけの集落で、山は木々が深く生い茂り、嘗ての巌は見られない。

 

 筆捨を後に、弁天橋を渡るとまた二三の民家があり、その先で国道を外れ右の旧道に入る。

その分岐点の左側、道路向こう側の土手上に「市瀬一里塚跡」の石柱が建っていた。

江戸日本橋から数えて107里目の塚で、嘗ては榎が植えられていたが、今は石碑だけだ。

 

筆捨山

筆捨山

筆捨山

 

筆捨山

筆捨山

筆捨山

 

 国道を離れ旧道に入り込むと、沓掛の集落で、そこには車の喧噪とは全く無縁の道が延びていた。

行く手を鈴鹿山脈が塞ぎ、東に筆捨山が、西の山は何といのか、国道の直ぐ脇まで崖が切り立っている。

鈴鹿川が細く流れ下り、川筋を縫うように、街道に沿って町並が続いている。

沓掛の集落は、嘗ては山越えを意味する「おこし」と呼ばれたところで、坂下宿の助郷村であった。

 

筆捨山

筆捨山

筆捨山

 

筆捨山

筆捨山

筆捨山

 

集落の中の狭い道幅の旧道は、やや上り気味で、両側には落ち着いた切妻造り平入りの家並みが続いている。

軒が低い格子の平屋、伊勢特有の幕板を巡らせた中二階建ての町屋、焼き板張りの土蔵等が随所で見られる。

 

集落の中程に沓掛公民館があり、その奥に真宗大谷派の超泉寺が建っている。

更に行くと郵便局があり、その先には、右手奥の一段と高いところに庚申堂が有る。

この辺りまで来ると、正面の鈴鹿の山並みも、より鮮明に近づいてくる。

 

 

 

『坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る 

馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しよというた

坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に 手綱片手の浮雲ぐらし 

馬の鼻唄通り雨 与作思えば照る日も曇る 関の小万の涙雨』

 

 沓掛の集落を抜け、道なりに行くと、地域の文化創造施設として建てられた「鈴鹿馬子唄会館」が有る。

会館は地域の集会所を兼ねた建物で、訪れる人々が無料で入館できる休憩施設ともなっている。

館内では鈴鹿馬子唄の紹介や、鈴鹿峠の歴史文化を伝える展示が行われている。

 

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

 

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

 

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

 

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

 

 東海道西方の最大の難所・鈴鹿峠は、特に伊勢側からの上りが急峻で、旅人達を苦しめたという。

そんな峠を越える人々を、人や荷物運びの手助けを駄賃付けでするのが馬子である。

唄は彼らが良く口にする労働歌であるが、更には「関の小萬」に纏わる流行歌だとも言われている。

「関の小萬」は、関宿との縁も深く、馬子唄にも再三登場する。

敵討ちの女性として伝えられているが、一方でそうでは無く遊女の話だという説も有るらしい。

 

 「関の小萬」は関宿の旅籠・山田屋(今日の会津屋)で生まれた。

成人すると、良人の敵を討とうとするも当地で行倒れた母に代わってその志を引き継いだ。

亀山での武術修行に明け暮れ、幾多の困難に耐え修行を積み、18歳の折見事亀山城下で敵討ちの本懐を遂げた。

仇を討ち、安堵したのか、小萬36歳の若さで死んだが、関の福蔵寺に埋葬されている。

 

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

 

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

 

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

 

 鈴鹿馬子唄会館を左に見て、前の坂を登ると「鈴鹿峠自然の家」がある。

昭和131938)年に建てられた、坂下尋常小学校の跡地に建つ青少年向けの宿泊研修施設である。

旧校舎が残され、民具や寺子屋資料を展示した民芸館、天文台やキャンプ場、グランドが整備されている。

 

旧校舎は切り妻瓦葺屋根の平屋建築で、外壁は洋風下見板張りで、ペンキが塗られモダンな作りとなっている。

校庭に向けた平入りで建っていて、正面中央付近には、妻入りの洋風車寄せが作られている。

歴史的な景観に寄与するとして、平成111999)年国の登録有形文化財に登録されている。

 

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

 

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

鈴鹿馬子唄会館

 

坂を少し下り再び旧道に戻ると、その合流地点に「鈴鹿馬子唄発祥の地」の大きな石碑が建っていた。

ここからがいよいよ鈴鹿を目指す本格的な上りのようで、先ずは杉林に挟まれた道が延びている。

今のところ坂はたいしたことも無く、少しずつ高度を稼ぎながら次の宿場を目指している。

 

 両側は鬱蒼とした森で、途中には「AGF ブレンディの森 入口」と書かれた、大きな看板が立てられていた。

水の源で有る鈴鹿川流域の森を整備する一環で始められた活動の拠点らしい。

AGFが取引先と共同でイベント開催等を企画し、この森に一般客を招待しているという。

 


 

 

 そこから、数百メートルほど緩やかに坂を登って河原谷橋を渡る。

嘗ては亀山橋という名の長さ六間の橋が架けられ、渡ると東亀山領・東海道48番目坂下宿の入口である。

領境石が建てられていたらしいが、今に残っているのか否か、何所にあるのか見付けられなかった。

 

これまでの街道筋の鬱蒼とした杉林が嘘のように、宿内の道路は広々として開放感に溢れている。

道は広いが、行き交う車を見るのは稀で、人の姿も無く、観光する人を目にすることも無い。

静かに佇む、平入りの家並みが、嘗ての難所・鈴鹿峠を控えた宿場の大きさを伺わせている。

 

坂下宿

坂下宿

坂下宿

 

坂下宿

坂下宿

坂下宿

 

宿内の戸数は153軒、本陣は三軒、脇本陣が一軒だが、旅籠は関宿よりも多い48軒も有ったと言う。

人口564人程の小さな集落で、人口比では女性が多かったが、「旅枕」は「めしもりおんななし」と伝えている。

当時の庶民にとっての旅の楽しみも、峠越えを前にして、体力は温存しておけとの事であろう。

 

難所を控えるだけに諸物価は相当に高く、人足一人111文もかかり、関宿が56文というからほぼ倍である。

馬一疋の借り賃は、関宿なら73文で済んだが、ここでは146文もかかった。

因みに東の難所・箱根では、人足が238文、馬は312文と言われている。

次の宿場までの距離が四里と長いこともあるが(坂下と土山の間は二里半)、鈴鹿の倍以上を必要とした。

 

坂下宿

坂下宿

坂下宿

 

坂下宿

坂下宿

坂下宿

 

坂下宿

坂下宿

坂下宿

 

宿場には嘗て、松屋、大竹屋、梅屋の三軒の本陣や小竹脇本陣もあり、豪華な布陣であった。

鈴鹿馬子唄で「大竹、小竹とて おおきなる旅舎あり」と謳われ、広大さを誇った旅籠があった。

東海道名所図会でも細かに紹介され、旅人憧れの宿・大竹屋も取り壊され、今に残る遺構は何も無い。

広々とした跡地は、茶畑や野菜畑に転用され見る影もないが、ただ石碑だけが建っている。

 

宿の中程には、石工・近国作と伝わる庚申像で知られた「法安寺」と云う禅宗の寺が有る。

寺の門は、嘗て本陣であった松屋の玄関を、昭和351960)年に移したものだという。

禅宗にしては豪華すぎる庫裏玄関が、この宿場に残る唯一本陣の遺構らしい。

 

坂下宿

坂下宿

坂下宿

 

坂下宿

坂下宿

坂下宿

 

坂下宿

坂下宿

坂下宿

 

 明治に成り、現在の国道1号線が旧街道を避けて整備された。

更に231890)年に関西鉄道(現在のJR関西本線)が、関から加太峠を越え柘植に到るルートで敷設された。

これにより交通の動脈は、国道1号線と鉄道に移り、旧宿場町の役割は潰えることになる。

 

難所の峠を控え、大名達や峠越えの旅人の疲れを癒やし、繁華を誇った宿場町だけに廃れ様は余りにも寂しい。

今ではコンビニも無ければ食事処どころかスーパーさえも無い、何も無い町に成り下がっている。

 

大名行列を横切った子供の身代わりとなった「身代わり地蔵」の小さな祠、金蔵院跡を見て先に進む。

旧宿場町の家並みが尽き、やがて旧道は中橋を渡り国道1号線に接する。

その少し手前に「岩屋観音(清滝の観音)」が有る

高さ18mの巨岩に掘られた岩窟に、阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵の三体の石仏が安置されているという。

この「岩屋観音」が有る辺りが、凡1q続いた坂下宿の西の出口にあたる場所だ。

 

 

旧道と旧宿場・門前町

 

「杉林の中、せせらぎの音を聞きながら行くと片山神社がある。」

或る本には、「国道を600m程歩き、片山神社の参道を入る。杉木立の中・・・。」とある。

坂下宿を出て鈴鹿峠に向かうルートを確認すると、ガイドブックには「杉木立の中の道・・」と紹介されている。

 

地理院地図で確認すると、宿出口が国道に接する手前に、右に入る道らしい筋が「鎖線」で描かれている。

どうやらこれが本来の旧道らしいが、歩ける道なのかは判然としないし、その入口が見当たらない。

廃屋のような家があり、その辺りかと思ってはみたが、結局見付けられず無難に国道に出て側道を歩く。

 

峠越えの国道は、麓の沓掛から峠のトンネルを出るまで、上下車線が分離され、全く別ルートで流れている。

したがって国道に接続する側道には、至る所に「逆走注意」の看板が立てられていて、注意を促している。

今歩いている道は側道とは言え、嘗ては旧国道の下り車線で、融雪装置のパイプラインもそのまま残されている。

そんな広々とした側道を600m程歩くと、前方に片山神社の参道が見えてきた。

 

旧宿場・門前町

旧宿場・門前町

旧宿場・門前町

 

旧宿場・門前町

旧宿場・門前町

旧宿場・門前町

 

その少し前に、右側の山から国道脇に降りてくる石段があった。

道標が立てられ、直進すれば片山神社まで0.2q、山に入ればバス停坂下まで1.1qと書かれてある。

どうやら岩屋観音前から旧道に入れば、山裾を経てここに下りてくるらしく、これが本来の旧道のようだ。

 

 しかし10段程の石段の先は、雑草が生い茂り、樹木が生い茂ったトンネル状態で、とても歩けそうには見えない。

本来の旧道は廃れてしまったようで、関駅の案内所で貰った「東海道ぶらりマップ」でも国道歩きを推奨している。

「岩屋観音から片山神社入口までは 国道1号線の側道を通ります」と書かれていた。

 

旧宿場・門前町

旧宿場・門前町

旧宿場・門前町

 

旧宿場・門前町

旧宿場・門前町

旧宿場・門前町

 

旧宿場・門前町

旧宿場・門前町

旧宿場・門前町

 

 その先で道標に従い、右の片山神社の参道に入り込む。

少し行くと、杉木立の中の道がやや広がり、そこに案内板が建てられていた。

この辺りの左側を「古町」と云い、峠の直下にあって、神社の門前町兼宿場町として、嘗て栄えた場所である。

鈴鹿の山の麓、坂の直下にあるから「阪之下宿」と言ったらしい。

 

慶安3(1650)年9月2日、旧町は大洪水に見舞われた。

人的被害も大きく、111軒の人家が有った宿場は、「山川田畑民屋ことごとく頽廃す」有様で壊滅した。

余にもの惨状で、再建は諦め、十丁ばかり東の現在地に移転され「坂下宿」が成立した。

今でも森の中に民家や寺の痕跡が残るといい、最近発見された寛永年間検地帳による検証作業が続いている。

 

 

西の難所 鈴鹿峠

 

 杉林の細道となった旧街道は、心なし勾配も増して、山道らしい装いに変わってきた。

落ち葉の積み重なった道は、日差しが遮られ黒いまだら模様で、車の喧噪も無く、辺りは静寂に包まれている。

聞こえるのは、鈴鹿川のせせらぎ、時折の小鳥の鳴き声と、落ち枝を踏み折る微かな靴音のみである。

 

 やがて旧道は、昔は「鈴鹿権現」とも「鈴鹿明~」とも呼ばれていた、「片山神社」の鳥居前に出る。

説明によると延喜式内社で、元は三子山をご神体として祭祀されていたが、火災により当所に遷されたとある。

社前に「鈴鹿流薙刀術発祥の地碑」や、病気の母親を助けた孝行息子を讃えた「孝子万吉顕彰の碑」がある。

 

それらを見ながら、「八丁二十七曲がり」と言われた西の難所、鈴鹿峠に向かう急坂に向け足を踏み出した。

片山神社の前右手に、東海道鈴鹿峠を指す道案内板が見え、その後ろにも急な細道が見えている。

これがどうやら本来の古道らしいが、道を塞ぐように案内板が建つところを見ると廃道となったようだ。 

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

 「八丁二十七曲」の始まりは、石垣で固められた九十九折りの急坂で、たちまち息が上がる。

所々往時のものと思われる、敷き詰められた石畳も既に苔むして、古色を見せている。

箱根の東坂や金谷坂は、川の丸石が多用されていて歩き辛かったが、ここは平らな石が多く比較的歩きやすい。

これなら鈴鹿馬子唄を口ずさみながら、馬を引いて歩く事も出来そうだ。

 

 前方に国道1号線の高架橋が見えてくると、旧道の様子が一変する。

高架を潜る辺りから先は、道路の開通で旧道が失われ、付け替えとして作られた階段道が延々と続いている。

上り詰めてそこで国道を横切ると、その道路脇に、天然記念物の山桜が植わる小公園がある。

 

東海自然歩道の案内板もあり、古くから文人墨客が行き交う峠道は、今ではハイカーが行交っている。

江戸時代の俳人・松尾芭蕉は、「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残し、記念碑が立てられている。

平安時代の歌人西行法師も、「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠んだ。

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

「なにおふ鈴鹿山は、八丁二十七曲がりにして道狭くして険し。清水所々に湧きて云々」

鈴鹿峠(378m)越えの道は、既に平安時代の仁和2(886)に開通し、「阿須波(あすは)道」と呼ばれていた。

 

 鈴鹿峠の案内板には、平安時代の今昔物語集の話しとして逸話も紹介されている。

「水銀商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を、呪文をとなえて呼び寄せ 山賊を撃退した」という話だ。

「坂上田村麻呂が立鳥帽子という山賊を捕らえた」等という話もあり、山賊に関する伝承が多いようだ。

 

芭蕉句碑の或る小公園の背後から再び厳しい山道を登ると、直ぐの所に「馬の水飲み鉢」があった。

鈴鹿の山では所々で清水が湧き出ていて、こうして街道を上り下りする人馬のために水溜が置かれていたらしい。

これは関町教育委員会により、平成4年(1992)年に復元されたものだ。

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

 京・大坂と関東を結ぶ東海道は、様々なルートの変遷を重ねて来た。

とは言え、吉田宿(今日の豊橋)から東は、早くからほぼ確定したルートがあり変わる事なく安定していた。

ところが西のルート、尾張や三河国内では、時の統治者の出身地でもあり、時代と共に大きく変化している。

 

 当時は伊勢湾の海岸線は今よりも可成り北寄りで、加えて木曽三川が流れ、地勢的な要因が問題であった。

これを如何に越すかで、川越えの場合は可成り上流に迂回し、伊勢湾は舟便で渡る等の対応がとられている。

 

昔から比較的穏やかな関ヶ原・垂井等を経る美濃廻りや、柘植から関を経る伊勢廻りのルートも知られていた。 

しかし美濃廻りは、冬季豪雪地帯に変貌し、特に関ヶ原などは通行不能に陥ることもしばしば発生した。

又、鈴鹿山脈には山越え道とし、鞍掛峠、八風峠、千草峠、鈴鹿峠等の山岳ルートも古くから確立されている。

 

 時が江戸に入ると、幕府は情報伝達の安定化・迅速化を図るため伝馬制を発する事になる。

これにより東海道の正式なルートが決まり、各宿に一定数の人馬を配し、料金などの取り決めも行った。

他のルートに比べ早い近道であり、雪で通行不能も少ないとして、鈴鹿峠越えが正式なルートとなった。

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

鈴鹿峠

鈴鹿峠

鈴鹿峠

 

平坦な道に、東海自然歩道道標が建っている。

左方向矢印の先は「片山神社0.4km 坂下1.7km」、右方向は「山女原4.1km 安楽越6.6km 石水渓9.3km」とある。

更に「田村神社跡10m・鏡岩150m」と記され、「高畑山登山口」の表示も見える。 

坂下宿から登り詰めた九十九折りの山道も、最早厳しさは無く、杉木立も途絶え、行く手は明るく開けている。

ようやく西の最大の難所、鈴鹿峠に到達した。


 

 



 

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