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旧道は野村の一里塚の先、公民館のある三叉路を右に取り、布気の「皇舘大神社」を左に見て進む。 皇舘は「こうたち」と読み、又の名を布気神社としても知られている。 この辺りを野尻村と言い、門前町であり上下立場が有った場所だ。 能古(のんこ)という茶店が有ったと伝えられているが、今は神社の森だけの寂しい場所である。
昼寝観音のところで、鬱蒼とした木々の繁る、短いが可成りの急坂の観音坂を下る。 その先で旧国道1号線布気の交差点に出ると、右手に亀山バイパスと東名阪への取り付け道路が近づいてくる。 隣接して併走する関西本線を陸橋で越え、畑の中を暫く行くと、左手から鈴鹿川が寄り添って来る。
この辺り、国道1号線が国道25号線と交差する地点で、近くに東名阪自動車道の亀山ICが造られている。 交通の要衝らしく、トラックステーションが立地し、周りにはビジネスホテルが幾つも建っている。
旧東海道は、気持ちの良い鈴鹿川の土手に出てきた。 視界が一気に開け、遙か前方にはこれから越える鈴鹿山脈等も見え始め、見晴らしが良い。 左には鈴鹿川の河川敷が広がり、その中央をゆったりとした流れが、キラキラト燦めきながら下っている。
ここは「大岡寺(たいこうじ)縄手 土手の間十八丁 左脇関川流。右山陰に大岡寺有」と言われた地だ。 「関川」は「鈴鹿川」の別名で、「縄手」とは「畷」とも書き、真っ直ぐな長い道の事を言う。 当時は右に「六門山四王院太岡寺」が見えたと云うが、今は国道高架の防音壁に隠され、臨むことは出来ない。
鈴鹿川に沿った凡そ半里ほど続く大岡寺縄手もそろそろ終わり、支流・小野川に導かれ右にカーブする。 関西本線の踏切を越え、隣接する国道1号線に出で、それも越えるとすぐに左折して、暫く国道の歩道を歩く。
嘗て丸太欄干の付いた14間の板橋が掛けられていた、小さな小野川橋を渡る。 国道を右に逸れる旧道があり、道路際に「東海道五十三次 関宿」と書かれた大きな看板が見えてくる。 ここが宿場町・関の入口で、車で訪れる観光者向けの駐車場と小公園が設けられていた。
関の小萬のもたれ松
「関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足 関の小万の米かす音は 一里聞こえて二里ひびく 馬はいんだにお主は見えぬ 関の小万がとめたやら 昔恋しい鈴鹿を越えりゃ 関の小万の声がする ♪♪」
小公園の反対側に「関の小萬 もたれ松」の説明板があった。 この場所は「鈴鹿馬子唄」にも唄われた、「関の小萬」所縁の「小萬のもたれ松」が有った場所だ。 今その松は無く、何代目かの若い松が植えられている。
江戸中頃、久留米藩士の妻女が、良人の仇を討とうと志し、旅を続ける途中関宿のとある旅籠に止宿した。 ここで一女・小萬を生むも、その後の肥立ちが悪く病没すが、その後小萬は母の遺言に従い仇討ちを志す。 三年程亀山城下で武術を修行し、天明3(1783)年、見事に仇敵軍大夫を討ち果たした。 亀山通いの小萬が、若者の戯れを避けるために姿を隠し、もたれたと伝わる松が有ったのがこの場所である。
少し上りながら街道を300m程進むと、関宿の東の入口で、伊勢別街道への東の追分けがある。 ここには何本もの道標や、常夜灯(享保十七年の銘入り)が残り、一里塚跡の碑などが集められている。 鳥居は伊勢神宮一の鳥居、神宮の遙拝用で、元々は伊勢神宮内宮の宇治橋の南詰に建てられていたものだ。 式年遷宮祭では、20年ごとに鳥居も新調され、古い鳥居は解体され、それを移築しここに建て替えると言う。
お伊勢参りの旅人は、関東からなら四日市宿を出て、日永の追分けから伊勢路に入る。 関西からの参拝はここから伊勢に向かい、伊勢山田・外宮まで十五里の参宮道(伊勢別街道)を歩く事になる。
因みに参宮道は、次の宿場・楠原へは一里(3.9q)で、その先椋本までも一里、更に窪田まで二里(7.9q)だ。 そこから一里十八丁(5.9q)で津に到り、更に二里(7.9q)で雲出、続いて二里でようやく松阪に到る。 松阪から四里八丁(16.5q)の長丁場を経て小俣へ、更に一里半(5.9q)でようやく門前町の山田に到着する。 昔の旅人なら三泊四日程度の行程である。
伝統的建造物保存地区 関宿の町並
東の入口、伊勢別街道の追分けから先の旧道の両側は、古い町並が凡そ1.8qに渡って続いている。 街道筋の電柱は地中化され、電線の無い、すっきりとした見応えがある旧街道の宿場町が延びている。
東海道47番目の宿場・関の人口は二千人程で、家数は632軒、本陣と脇本陣が各2軒、旅籠が42軒あった。 時代による違いはあるが、宿賃は概ね200文(凡890円)、人足一人56文(凡200円)と伝えられている。 飯盛り女は500文(凡2200円)が相場で、苦竹を削り打ち潰して火縄にしたものが、土産として売られていた。
宿は大きく分けて、四つの町並から構成されている。 東の入口が「木崎」で比較的平入り平屋の低い家並みが続き、次が宿場の中心「中町」で大規模な町屋が多い。 西に続くのが「新所」で大半が小規模な町屋の連がりで、街道の北側に「北裏」と呼ばれる地域がある。 ここには延命寺、瑞光寺、浄安寺、福蔵寺等、1社10ケ寺が甍を構え、寺町を構成している。
多くは江戸から明治にかけて造られた建物で、昭和59(1984)年、伝統的建造物保存地区に指定された。 建屋は400軒余りに及び、内の200棟が保存対象で、「伝統的建造物」の登録票が軒下に貼られている。
宿場の町歩きは、「木崎」から始まり、中町、新所へと続いていくが、町屋の造りには見どころも多い。 家運長久・子孫繁栄を願い、職人が細部の意匠にも拘った、漆喰の彫刻や細工瓦等が随所で見られる。
庇の下に店先を風雨から守る「幕板(まくいた)」が取り付けられた町屋を見かけることもある。 二階屋窓の手摺や格子にも、技を凝らした様々な職人の工夫がある。 弁柄染めの蔀、昔ながらの潜り戸の表戸、連子格子・出格子も多いが、明治以降に付けられた物も多いと言う。
商家の屋根には、瓦屋根の付いた立派の看板が掲げられている。 江戸側は「ひらがな」、京側は「漢字」で書かれ、旅人が方向を間違えないように細やかな心使いがされている。 店先には商品を並べ、旅人が腰を下ろして休息の出来る、上げ下ろしが可能な「ばったり」がある。 玄関の柱等には、牛や馬を繫ぐ環が打ち付けられていて、高い位置は馬、低い位置は牛と使い分けていたらしい。
宿場の守り神である、関神社の参道入口に、「ご馳走場」と書かれた石柱である。 ここは、宿場を行き交う大名を送迎した場所で、宿内には四カ所あったらしい。 芸妓置屋の「開運楼(雲林院)」と「松鶴楼(遊快亭)」は、宿場の入口に位置し大いに繁昌したらしい。
「中町」に入ると丁度この辺りが宿場の中心となる。 川北本陣、伊藤本陣、西尾脇本陣(鶴屋)、萩野脇本陣、問屋場などがあったが、何れも石碑のみである。 橋爪家は、江戸に店を出すほどの豪商で、両替商を営んでいた。 平入りの町並の中にあっては、珍しく妻入りの大きな店舗を構えている。
郵便局の有る辺りは、徳川直轄地の頃陣屋があった所で、藩の番所が置かれていた。 ここには、高札場があり、八枚の高札が掲げられていたが、今見るものは平成に入り復元されたものだ。 その先右側にあるのが天台宗の福蔵寺で、織田信長の三男・信孝の菩提寺である。 境内には18歳の折亀山城下で巡り会った父の敵を見事討ち取った小萬の墓所も有り、市指定史跡である。
中町の外れ、通りの南にある関地蔵院は、天平年間の開創が伝わる古刹である。 昔から近郷の人々のみならず、東海道を旅する人々の信仰を篤く集めてきたと言い、一休禅師とのゆかりも深い。 境内の本堂、鐘楼、愛染堂が国の重要文化財に指定されている。
玉屋、I屋、会津屋は、関で泊まるならここと言われたほどの大旅籠で、旅人のあこがれの宿であった。 玉屋は現在では、「関宿旅籠玉屋歴史資料館」として有料で内部が公開されている。 脇本陣を務めていた鶴屋は、千鳥破風の間口六間の建物が残されている。御用の無い時は一般の旅人も泊めていた。
関地蔵院門前の会津屋は、嘗ては山田屋と言い、宿を代表する旅籠の一つとして知られている。 江戸後期に建てられた旅籠の建物で、今日ではうどんそばの食事処を営んでいる。 山田屋の女将は、行倒れた身重の仇持ちを手厚く看病し、やがて生まれた赤ん坊が「関の小萬」である。 「関の小萬」はここで育てられ、亀山まで剣術修行に通い、後に見事本懐を遂げている。
ここ関宿には、江戸は徳川三代将軍の時代から続く老舗「深川屋」の銘菓「関の戸」がある。 当時と変わらぬ配合・製法で作る和菓子で、赤小豆のこし餡を求肥で包み、阿波和三盆でまぶした餅菓子だ。 また「前田屋製菓」の「志ら玉」も、戦後一時途絶えはしたが、江戸時代から続く宿場の名物である。 上新粉の生地に、北海道産産小豆のこし餡を挟んで、外側には四季をあしらった三色の彩りが添えられている。
百六里庭(眺関亭)
関宿の町並の中程に、「百六里庭(眺関亭)」という小公園・休憩施設がある。 街道に面して建つ建物が、「眺関亭」で、それに付属して建物の奥に設けられたのが「百六里庭」という小公園だ。
公園の名前は、関宿が江戸から106里の位置にある事に由来して名付けられた。 また「眺関亭」は、関宿の町屋の屋根が犇めく街道筋を一望に望むことが出来る事から名付けられた。
「眺関亭」の建物の二階は展望台になっていて、眺めは、関宿の最も特徴的な景観と言われている。 瓦屋根越しの正面には観音山や関富士といった近隣の山々の緑が望まれる。 東は軒の並ぶ関宿の町並が、西は瓦屋根の間に通る東海道と、その突き当りにある地蔵院本堂の大屋根を望む。
「関の山」の語源となった曳山まつり
街道筋には「関の山車会館」が有り、町中でも山車を納める縦長の倉庫を幾つか目にすることがある。 ここ関では毎年7月下旬に、関神社の夏祭り、所謂「関祇園祭」、「曳山まつり」が行なわれている。 神社の御祭神は、天照大御神・伊邪那美命等で、この祭りでは山車曳き、神輿渡御等が行なわれる。 昔は16台もあり大層な賑わいであったが、今は「木崎」「北浦」等から豪華絢爛な山車(だし)4基が出される。
ところが宿場町の道幅は大層狭く、狭いところをギリギリで山車が通る有様であった。 その為、「関では山(山車)が出ると、道が溢れそうになる」と言われるほどの込みようであった。 このことから「、一生懸命やって、やっと出来る」或は、「精一杯」等の事を「関の山」と言う様になった。 元々は誉め言葉だが、今は「多く見積もってもそこまで」「限界」を表す貶し言葉として使われる事が多い。
関まちなみ資料館」は、江戸末期の頃の伝統的な町屋建築と言い、有料で内部が公開されている。 関宿では、このように特徴有る町屋の趣を随所で見ることが出来る。
鈴鹿の関
「昔、此処鈴鹿の関成。故に関と言う」
この地は古代に「伊勢鈴鹿の関」があった事から、「関」と呼ばれるようになった。 伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発(あらち)は、「律令三関」として重要な位置づけにあった。 後に愛発は廃止になり、東海道は近江の逢坂が加わるが、「関」は「三関」の一つとされてきた。
古くは「日本書紀」にも登場する古関も、110年余り続いたものの廃止された。 その建物も郡役所に移築されると、何時しか関跡の存在は忘れ去られ、その所在の場所さえ定かでは無くなった。 関所の存在は間違いないが、その場所となると位置が度々変えられている。 一説には今の関西本線の関駅辺りとも、宿場の出口近くの城山に有ったとも言われている。 今日の研究でも一カ所に特定することは出来ないと言われていた。
ところが旧街道「新所」の観音院西側の道を北上した、観音山南側から、奈良時代の瓦が大量に見つかった。 周辺では高さ1m、幅5m程の土塁状の痕跡が確認され、奈良時代に作られた関跡ではと言われている。 平成18(2006)年の事で、今でも発掘調査が続いているが、この地を「鈴鹿の関跡」とする地図も現われている。
市は、令和元年度までに9回にわたる発掘調査等を行ったところ、新たな築地塀の痕跡も確認された。 それまでの調査結果に基づき、文化庁へ国の史跡指定に向けた申請を行ったそうだ。 令和3年3月26日には、文化庁により国の史跡に指定され、ほぼ当地が関址と比定されることになった。
西の追分け
街道は中町から「新所」に入り、やや上り気味に、古い家並みの続く地区を抜けていく。 ここには、火縄を名物・特産品として扱う火縄屋が数十軒軒を連ねていたという。 「若竹をけづりて、打やわらげ、火縄につくりて売也」と伝えられている。 主に大名には火縄銃用として需要が有り、旅人には道中で使う煙草の火種として人気を博していた。
やがて宿場町が尽き、国道1号線の合流が近づいてくるると、そこは西の追分けである。 「西の追分け休憩所」があり、小公園には谷口長右衛門が建立した題目塔の石標が立っている。 この石碑は元禄4(1691)年に建てられたもので、「ひだりハいが やまとみち」と刻まれ道標ともなっている。
ここは、加太峠を越え奈良に向かう「加太越奈良道」との追分けだ。 明治以降は大和街道と呼ばれたが、古くは「加太越え奈良道」とか「伊賀大和道」などと呼ばれていた。 西に進み、次の宿場・加太までは一里二十三丁(約6.4q)の道程で、その先が国境となる。 伊勢と伊賀を分かつ、標高300m余りの加太峠を越え、伊賀(三重県)を経て大和国(奈良県)に至る道である。
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