|
谷口法悦題目塔
庄野より東海道46番目の宿場・亀山までは二里、凡7.9qの道程である。 JR関西本線や国道1号線と縺れながら、鈴鹿川の支流・椋川に沿って西進する。 西富田の外れで、安楽川により断たれた旧道を少し下流の和泉橋で越え、すぐに堤防道を右折し旧道に戻る。
和泉町から更に井田川町に入ると、この辺り古くは海善寺村と呼ばれた地だ。 井田川駅の手前で線路を越え、その海善寺のある二叉路を左に折れる。 真っ直ぐに進めば、井田川茶臼山古墳、日本武尊御陵があるらしい。
左手に駅を見て、続いて川合町に入り、右カーブで国道1号線を越える。 戦前までこの辺りにも松並木が残っていたらしいが、松根油を採る為、全て切り払われた。 西信寺の角を左折し町中を抜け、この先で椋川に架かる川合椋川橋を渡る。
川合町と和田町の境辺り、古くから「やけ地蔵さん」と呼ばれる地に、「谷口法悦題目塔」が立っている。 谷口法悦は、江戸中期の頃の人物で、京都に住む熱心な法華信者であった。 全国各地を巡り、寺院や街道筋にこのような題目塔を建立したとされている。 ここには、「東海道刑場供養」の標識も立っていて、刑場が有った跡地らしい。 元禄年間に谷口法悦により、刑死者の供養で立てられた供養塔で、正面に「何妙法蓮華経」と刻まれている。
国道に接する手前の和田に古い道標が残されていた。 ここから神戸(二里半)、白子(三里)を経て、亀山領若松港(三里三十四丁)への追分けに建てられたものだ。 元禄3(1690)年の銘があり、東海道の道標としては、三重県内最古のもので、市の文化財に指定されている。
和田の道標を右に折れると、街道は亀山宿を目指し、この地から軽い登りの坂道となる。 この辺りの情景は、広重の東海道五十三次では、亀山の一つとして「和田の坂道」の名で描かれた場所だ。 標高30m程の和田から、この先の亀山本町辺りまで登り、そこは標高70mを越える。
そんな坂の途中に、復元された和田の一里塚がある。 近世までまだ松並木も残っていたらしいが、道路の拡幅工事で全て切り払われ、残る松は一本も無い。 道が広がり、両側には人家も増え、旧道は亀山の中心地に隣接したベットタウンと化している。
熊褒野神社
栄町に入ると、左側に操業が昭和2(1927)年の有名な亀山ローソクの本社工場が有った。 本社は大阪に構えているが、創業の地には、亀山本社工場を設立し、今も関わっている。
その先に日本武尊墓所とされる白鳥陵のある、「熊褒野(のぼの)神社」遙拝の大きな二の鳥居が立っている。 日本武尊は熊褒野で死んだとの伝説があり、当地に古くからあった前方後円墳「王塚」がその墓と言われていた。 当時の内務省により正式に比定され、日本武尊を主祭神として、明治16(1883)年に神社が創建された。 その後周辺は、のぼの公園として整備されている。
神社はここから北に3.5q程離れた、安楽川の左岸近くに建っている。 この鳥居は、亀山駅前に立つ一の鳥居に続くものだ。 亀山駅には神社の最寄り駅として名所案内がされているが、位置的には井田川駅の方が遥かに近い。 井田川駅は昭和に入って設けられた駅だが、亀山駅の開設は明治23(1890)年と古い。 したがって、亀山駅開設時には、白鳥陵が武尊の墓所と比定されていたので、一の鳥居が設けられたらしい。
賑わいの乏しかった亀山宿
東海道は伊勢の国・46番目の宿場町、亀山宿に入ってきた。 本町に入れば宿内となり、大きく左にカーブしながら宿場町の中心へと入り込んでいく。
「熊褒野神社」二の鳥居の先の茶屋町に入ると、「露心庵跡」がある。 天正年間にこの付近で行われた合戦の戦死者を弔う小さなお堂があった場所らしい。 街道は東台町から左にカーブし、突き当った辺りが江戸口門跡で、街道はここを右に曲がる。
その先で左に折れると東町の道筋で、曲がりくねり、緩やかに上り下る細い道が続いている。 城下町らしく幾らか古い家屋も残され、所々に古い石の道標なども見られ、旧街道らしい雰囲気が感じられる。 建物には、市民グループによる古い屋号看板が下げられているが、主要な重要施設は何も現存していない。 東町に本陣、脇本陣の跡があり、大手門の辺りに高札場跡、西町にある西町問屋場跡も案内板で知るのみだ。
亀山宿は人口1,549人、家数567軒、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠21軒とあり、規模的には中程度である。 「城下の市中賑わい無し」と言われた様に、宿場としての賑わいは左程無かったようだ。 その辺りの事情は、先の石薬師や庄野と同じであるが、この宿場ならではの特殊な事情も有ったらしい。
江戸城に登城した大名は、将軍との拝謁の場合、格付けにより定められた控えの間で待つのが仕来りである。 亀山藩城主の幕府格付けは、江戸城「帝鑑之間」詰めとされていた。 これは徳川御三家の「大廊下」、大老・老中格などの「溜之間」、国持ち大名などの「大広間」に次ぐ序列だ。 更に城主クラスの譜代大名などは「雁之間」、それ以下の親藩、譜代大名などは「菊之間」と続く。 その他の外様大名などは、「柳之間」となり、大名の序列が控えの間を見れば分かるように視覚化されていた。
江戸時代、全国には凡そ、300余りの藩が在ったと言われている。 その中でもここ亀山藩は、可成り上位に位付けられ、譜代大名の中でも高位とされた大名であった。
この事から西国大名は、これを憚り、と言うよりは敬遠して、宿泊地としては利用しなかったらしい。 又、庶民にとっても、鈴鹿峠越の身体を休める宿としては少し距離が離れ過ぎているようだ。 伊勢参りの多くは、日永追分けから伊勢参宮道に入り、帰路も脇往還で次の関宿に向かう事が多い。 そんなルートからも外れ、大名達からも毛嫌いされ、賑わいに乏しい宿場町で有ったらしい。
町並で特筆すべきは、旧舘(たち)家住宅で、元は枡屋という宿を代表する呉服商の建物だ。 母屋は明治6年に造られた「出桁造り(梁を建物から突きだしそれで桁を受ける構造)」と呼ばれる形式である。 休日に限り内部は無料で公開されている。
亀山市は江戸と京・大坂を結ぶ旧東海道を、情緒あるふるさと街道「江戸の道」として整備している。 東の井田川町から、西の小野町に到る凡そ11qの道の要所に史跡案内板を立て、休憩所や歴史広場を整備している。
そんな旧街道は、城下町らしく町中を何度も折れ曲がりながら抜けて行く。 ケンペルは、オランダ商館長に随行する江戸参府の折、亀山宿を通過したときの印象を旅日誌に残している。 「約2,000戸の家があり、右側には掘りや土塁や石垣をめぐらした城がある」
亀山は、江戸時代、東海道の要衝地として、徳川譜代大名が支配する六万石の城下町となった。 今日JR亀山駅からお城へは、広い道が通じていて、途中で旧道を横切り、街道を分断している。 嘗ての東海道は、池の側(外堀)を見ながら、東西に一本の道として延びていた。
お城近くの旧道に、災害時の避難場所も兼ね、街道整備の一環として「お城見庭園」が造られている。 東屋が設けられ、休憩が出来るようになっていて、街道歩きのオアシスでもある。 ここからは亀山城の多聞櫓や近くの池などが眺望できる。
嘗て 胡蝶城と呼ばれた優美な亀山城
今の城の北西に当たる若山の地に、文永2(1265)年、関氏が砦を築いたのが始まりとされている。 15世紀の終わり頃には、文献にもその名が見られる様になり、町の成立時期と考えられている。 町のシンボルとも言える亀山城は、16世紀には築かれ、その後、織田信長の伊勢侵攻以降、度々戦場となった。
天正18(1590)年秀吉の時代、今の鈴鹿川を見下ろす地に移され、小田原攻めで功のあった岡本氏が入城した。 その後、関ヶ原の合戦で西軍に与した岡本氏は、破れて当地で自刃した。 伊勢亀山藩六万石の城下町・亀山は、関ヶ原の合戦以降は、東海道の交通の要衝とされてきた。 代々幕府直轄の城持ち譜代大名、関氏、松平氏、三宅氏、本多氏等が入り、最後は石川氏が11代に渡り統治した。
江戸時代に入って堀尾忠晴は、寛永9(1632)年、幕府より「丹波亀山城」の天守解体を命じられた。 ところが何を勘違いしたのか、ここ「伊勢亀山城」の天守を壊してしまったが、これには裏があったようだ。 堀尾は敢えて間違えたように見せかけ、小大名に不釣り合いな華美な天守を解体した、との説が有るらしい。
当の堀尾は翌年34歳の若さで死亡、この時嫡子は無く、養子によりお家存続を願い出るが幕府に認めらなかった。 大名としての堀尾家はこれにより断絶し、天守も再建されることも無く明治を迎えている。 嘗て別名を「胡蝶城」と言い、姿の優美な城であったが、明治の廃城令では、城内の建造物は悉く破壊された。
現在は天守台、石垣や堀、土塁の一部が残るのみで、周辺は公園として整備されている。 正保年間に建てられた本丸東南隅の多門櫓が唯一の遺構として、今日の亀山城の代表的な景観となっている。
街道筋を外れ少し北に入った西丸町に、藩の家老を務めた加藤家(六百石)の屋敷がある。 江戸延享年間以前に建てられた長屋門や海鼠壁の土蔵、稲荷社などが残されている。 武家建築の様式を今に伝える遺構で、市の文化財の指定を受け、内部は郷土資料館として公開されている。
野村の一里塚
「城門を出づれば、坂を下ること急なり」
西町から西丸町を抜けると市ヶ坂町で、亀山藩主石川家の菩提寺の一つ「梅厳寺」の門前に至る。 宿場の西端で、竜川の左岸の崖上に寛文12(1672)年、藩主板倉重常により築かれた京口の御門があった。 石垣を築き、冠木門を構え、傍らには白壁の番所も建ち、通行人を厳しく監視していたという。 東町の江戸口門と共に、亀山城総構えの城門として位置づけられた門である。
門を潜るとその先の街道は、左右に屈曲した京口坂を下り、次の関までは凡そ一里半(凡そ5.9q)である。 かなりの急坂で、坂の下には野村の集落が広がって見えていたと言う。
そこは広重の描く東海道五十三次「亀山 雪晴」として描かれた場所で、南東側からやや俯瞰して描いている。 古松の植わる積雪の急斜面を、雪も治まった朝焼けの中、前泊は関宿であろうか早立ちの大名行列が上っている。 この急坂には、大正3(1914)年に京口坂橋が架けられ、嘗ての道筋はこれにより消滅した。
京口御門を抜けると、街道には、何所の城下町でも見られる馴染みの光景がある。 西の要衝を守るように、照光寺、心光寺、永信寺、慈恩寺、光明院などの寺院群が寺町を構成している。
途中で目にする「森家住宅」の主屋は、国の有形文化財指定を受けた建物である。 切妻桟瓦葺で、妻を漆喰で塗り込め、正面上屋は黒漆喰真壁、下屋に格子を嵌め、堂々とした平入りの建物だ。 その姿は典型的な町屋建築の表構えといい、今は古民家食事処として使われている。
途中にある「内池家」の主屋は、明治天皇お召し替え所と伝わるところだ。 三重県御行幸の折り、伊勢神宮内・外宮参拝後当地に立寄り、陸軍の大坂鎮台を二日間に渡り視察された。 その折り当家でお休みになり、下賜金三円を賜わったと言う。
嘗て京口御門が構えていた京口坂は、今はなだらかに西に向かう下り坂となり、次の宿場関を目指している。 数多くの寺院や、「森家」や「池内家」の旧家の残された道筋は、如何にも旧街道らしい面影を残している。 そんな住宅などを見て800m程進むと、町並の向こう、屋根越しの大きな木が見えてくる。
日本橋から106里12町、三条大橋から17里32町の距離にある「野村の一里塚」である。 嘗て南北両側にあった塚は、大正時代に南側が取り潰されて、北側だけが残されている。 三重県下には12カ所の一里塚が置かれていたが、今に残るのはこの一カ所だけで、国の史跡に指定されている。
地面を鷲掴みするように、巨大で力強い根を張って聳え立つ巨木は、ムクの木である。 塚の多くには榎が植えられるだけに、ムクは全国的に見てもここだけという珍しいものだ。 幹周り6m、高さ20m、樹齢は400年と言う堂々とした大木に成長している。
(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved. |