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鈴鹿山脈は三重と滋賀の県境を構成する山脈で、北は関ヶ原から南は鈴鹿峠辺りまでの範囲とされている。 最高峰は御池岳の1,247m、それに続くのが雨乞岳の1,237mで、千メートル級の山が10座以上連なっている。 昔から伊勢と近江の行き来には重要なルートで、その山々の間には幾つもの峠がある。
江戸に幕府が開かれると、情報伝達の迅速化を図る為、街道の整備を急ぎ、直ちに伝馬制が定められた。 これまでは関ヶ原越えが主流であった東海道のルートが、正式に鈴鹿峠越えに決まるのはこの時期の事である。 急峻だが、行程が一泊二日ほど短縮されることを何よりとしたのだ。
時は江戸から明治に入ると、旧東海道は国道1号線と成り、道幅の狭いこの杖衝坂も主要道の一部となった。 しかし名うての急坂は、歩行者は勿論人力車も苦労したらしく、やがて発達した自動車にとっても難所であった。 昭和に入ると丘陵を削り、北側の中腹に緩やかな新道の建設工事が始まり、今の1号線の「昭和坂」が誕生した。
杖衝坂を登り切り、「采女の一里塚跡」を過ぎると旧道は、再び国道1号線に合流しほぼ西に向け進路をとる。 片側2車線の昭和坂は、幹線道路らしく交通量も多く、傍らを大形のトラックが風を乱しながら通り過ぎている。 旧道はこれまでの低坦地から一段高い丘の上に出たようで、周囲の視界が一層開けてきた。 右手から正面にかけて見える山塊が鈴鹿山脈で、いよいよ西の難所が近づいている。
遙か彼方の山肌に白く細く見える塔は、御在所ロープウェイの6号支柱である。 標高943m地点に立つ支柱で、高さは61m有り、その基礎部分の広さは何と畳み85畳分もあると言う。 昭和39年迄は他の鉄塔と同じ環境に配慮した緑色であったが、白く塗り替えられシンボル的な存在になった。
石薬師宿
西に向かい小谷で国道1号線と別れ、左の旧道に入り、家並みを見ながら800m程歩くと再び国道に合流する。 交通量の激しい国道には横断歩道は無く、地下通路で横断すると、正面は「自由が丘」という大きな団地だ。 国道を歩き団地が切れる辺りで左にカーブすると、嘗て長さ八、九間の土橋が架けられていた浪瀬川を越える。
その先で国道とは分かれ右の旧道に入って行くと、東海道44番目の宿場町、石薬師に入って行く。 宿場内に真言宗の名刹・石薬師寺が有り、古くから門前町として開け、それがそのまま地名となった地である。 しかし宿としては賑わいに欠け、伝馬制に定める人足や馬の数さえ揃えられず、半減が幕府から認められていた。
国道との分岐辺りに、「石薬師宿」と刻まれた石柱が置かれていて、ここが江戸方の入口である。 旅人の安全を願い立てられた延命地蔵堂があり、「これより南 信綱かるた道」と書かれた札も立てられていた。
市中七町、宿内人口991人、家数241軒、本陣3軒、旅籠15軒の小さな宿場町だ。 旅館以外商家は少なく、人口の殆どは農業の従事者であったそうだ。 文化年間の記録では、その7割以上が百姓であったらしいが、それでも旅籠には飯盛り女がいたという。
東の四日市宿は、伊勢の追分けとして賑わい、泊まり客も多かったらしい。 鈴鹿越えを控えた西の関や坂下の宿では、峠の上り下りに際し身体を休める場として利用したらしい。 従ってその間にある石薬師や次の庄野は、泊りの場所としてさほど需要が無かったようだ。
当時庶民の楽しみの伊勢参りは、日永の追分けから伊勢参詣道に入るのが殆どで、東海道のこの宿場は通らない。 お参りを終え、その後京を目指す旅が一般的でもあったが、参詣後も追分けに戻る旅人はいなかった。 そのまま脇往還から、伊勢別街道に入り、関に抜ける人が多かったらしい。
宿内の中程にある一際大きな平屋建ての建物が、小沢本陣跡で、多数の資料が残されている。 今日の建物は、明治に建て替えられたもので、当時は今よりも広い屋敷を構えていた。 赤穂藩主・浅野内匠頭や、伊勢山田奉行の頃の大岡越前守等は、「御休」として利用したらしい。
「これのふぐら良き文庫たれ 故郷のさと人のために若人のために」
ここは歌人・佐々木信綱が生まれた地で、街道筋1.8qの間に、50首の短歌が掲示してある。 生家が残り、「佐々木信綱記念館」、「佐々木信綱資料館」、「石薬師文庫」等所縁の施設が整備されている。
信綱は明治から大正、昭和に渡り歌人、歌学者として、又万葉集の研究に当った人物で、幸綱は彼の孫にあたる。 建物の右手側には、昭和40年に地元の人達で行なわれた「信綱死後2年祭」の折り建てられた記念碑がある。
石薬師文庫の左側にある連子格子の二階建ての家が信綱の生家である。 信綱は一家が松坂に移住するまでの幼少期をこの家で過ごしている。 生家の前には信綱の歌碑があり、その隣には「佐佐木信綱資料館」がある。
又宿の中程には、「天野記念館」と書かれた小さな民家のような建物がある。 説明板によると、タイムレコーダー製造会社の創業者である天野修一氏寄贈とある。 天野は当時の石薬師村で明治23(1890)年に生まれた実業家で、稀代の発明家とも言われた人物である。
高富山瑠璃光院石薬師寺
佐々木信綱記念館から500mほど歩き、国道1号線を跨ぐ瑠璃光橋でこれを越える。 やがて街道は右に曲がる下り坂となり、右手に鬱蒼と茂る深い森が見えてくる。 地名の謂れとなった「高富山瑠璃光院石薬師寺」の裏門で、ここらが宿の外れとなるらしい。 街道に面し山門を構えていて、参勤交代の諸大名が財物を寄進して、道中安全を祈願する寺として知られていた。
この辺りは、嘗てこの寺の山号ともなっている高富と称された村であった。 寺のあらたかな霊験が広く知れ渡ると、寺は俄に有名となりやがて宿場町は門前町としても栄えることになる。 何時しか村名も、寺を賞じて石薬師と改められ、高富は寺の山号として残ることになる。
山岳修験者がこの地の森の中で、地鳴りを伴って出現した霊光を放つ巨石を見付けた。 それをお堂に祀りし、衆生の救済に当たったのが創建と伝えられている。 後に空海が一夜の内に自の爪で彫ったと言う、秘仏の石仏・薬師如来立像が御本尊として安置された。 仏像の多くが木造で有るなか、花崗岩製の石造は大変珍しいと言う。
天正年間に織田軍による兵火で諸堂は悉く焼失したが、今日の本堂は、神戸城主・一柳監物の寄進による再建だ。 境内には、今では本堂を中心に、鐘楼堂、お大師堂、地蔵堂、水子地蔵堂などが連なっている。 豊かな自然に包まれ、静寂でひっそりと佇む庭は、よく手入れされ四季折々の草花、秋の紅葉が美しいという。
広重の「東海道五十三次石薬師 石薬師寺」には、街道に面して建つ山門が、今と変わらぬ姿で描かれている。 背後に見える幾重にも重なる山々は、鈴鹿山脈であろう。 門前には、稲刈りの済んだ広大な田圃で作業する農夫の姿が描かれ、農業従事者が多かった様子が窺える。
石薬師寺の山門を出て東方面に行くと、左側に「蒲冠者範頼之社(御曹司社)」と言う神社があるらしい。 ここからも森の中に、鳥居が僅かに見えているが、地元では「御曹子社」と呼ぶらしい。 範頼は武道、学問に優れていたので、それらの願望成就の神様として祀られてきた。
伝説によると寿永年間(1182〜1184)の源平合戦の頃、源頼朝は平家追討のため、弟の源範頼を西に向かわせた。 範頼は途中、石薬師寺に立ち寄り戦勝を祈願し、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに差したところ芽を出した。 地元の人が「蒲桜」と呼んで愛でる桜の木(山桜の変種)らしく、神社の南約60mのところにある。
石薬師寺宿を出て、国道を跨ぐ橋を渡ると道はなだらかな下り坂になっている。 門前を過ぎる頃には坂が終わり、道筋では古い家を散見することがある。 蒲川の手前で道が二又になっているが、右の道筋へと進んで行くと蒲川橋へとさしかかる。
石薬師の一里塚跡
「くたびれた やつが見付ける 一里塚」(江戸川柳)
街道は旧高富村(旧石薬師村)から旧植野村(現上野町)に入る。 鈴鹿川の支流・蒲川には、嘗て土橋が架けられていて、橋を渡ると、大きな石標と常夜燈が立っている。 当時の道中案内には、この付近では「うなぎ」が捕れ、提供する茶店が描かれている。 ここは石薬師の一里塚があり、榎の木が植えられていたが、昭和34年の伊勢湾台風で倒れてしまった。 江戸日本橋から102番目(約401km)、京都三条大橋からは23番目(約96km)に位置する一里塚だ。 昭和52年(1977)に新たに植えられた榎が、今は大木と成って街道の目印となり、足元には日陰を広げている。
この辺り、国道1号線や関西本線の開通、鈴鹿川の改修等もあり、本来の道筋は消滅した。 嘗ては道なりに、鈴鹿川の流れに沿って街道が付けられていたであろうが、今は様相が違っている。 現在その迂回ルートには、要所に手作りと思われる簡素な道標が立てられ、歩く人々を導いてくれる。
一里塚跡から先は、緩やかな坂道を進み、その先のJR関西本線の線路下のガードを潜る。 潜ると目の前は広々とした畑の農道で、右手の国道1号線に沿うように進む。 幾度も曲がり、畦道を進み、宇名木川を越えた上野町でようやく国道に出て、鈴鹿川に沿って緩やかに登る。 左にカーブしながら、JR加佐登駅前のコンクリート工場の尽きる辺りの交差点・庄野町北で右に折れる。
交差点で右折し、工場に沿って100m程で左折すると、そこが東海道45番目の宿場町・庄野の江戸方入口となる。 石薬師宿からは、25丁(2.7q)と近く、是は三河国の御油と赤坂の間、16丁(1.7q)に次ぐ短さである。 ここは伊勢七宿の中では、最も新しく開かれた宿で、成立に当り鈴鹿川対岸の古庄野から移住を行なった。 当初は、それまでの36戸と合わせても、僅か70戸の集落が形成されたに過ぎなかった。
庄野宿は長さ南北八丁(約900m)で、人口855人、家数211軒、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は15軒あった。 宿場としては極めて小規模で、はなはだ振るわない宿らしいが、その事情は石薬師宿と同じようなものである。 それでも他の宿場と同様、女性が多く、飯盛り女も多かったらしく、相場は他と比べると随分と安いとのこと。 当時の旅行情報誌「旅枕」で知って、それ目当てで長逗留をする客は多かったらしい。
江戸方の入口を入ると宿場は、緩やかにカーブする道の両側に、閑静な町並を見せている。 当時を思わす道幅、街道筋の平入りに統一された建物が、宿場風情を感じさせる町並と成っている。 中には、連子格子の旅籠造りの昔ながらの家も幾らかあり、そんな家並みを見ながら宿内を進む。
趣のある古い商家風の建物は、かつて油問屋を営んでいた、旧小林家の建物(市指定文化財)だ。 今は一般に無料公開されている「庄野宿資料館」で、ここにはガイドも常駐している。 本家の一部を当時の姿に復元したもので、奥行きの長い敷地の中程には、よく手入れされた中庭もある。
ここは戦災を免れた故、宿帳、棟札、着物など、当時の貴重な資料が多数残されている。 中でも珍しいのは、実際に街道に掲げられていた「高札」が五枚も残されていることだ。 壁一面に掛けられた「高札」の幅は、8尺5寸(256p)も有る「欅」の一枚板だ。 流石に長年の風雪に曝され判読できないほどに薄れてはいるが、膠の混ざった墨書は文字が浮き上がって見える。
館内には、今では祝い事の折に作るだけらしい、庄野の名物「焼米俵」なども展示されている。 鼓型に編んだ俵の中に、煎ったあと平たく潰した米が入っていて、保存食、携行食として重宝されたらしい。
広重の「東海道五十三次」の内で、この庄野宿の近辺を描いた「庄野 白雨」は、最高傑作と言われている。 坂を行く駕籠や旅人が、突然白日の激しい夕立(白雨)に見舞われ、慌てふためく姿が秀逸だ。 俄に暗転した街道の様子、雨具の用意に、雨宿り場所を求め、駆け出す姿を前景に描いている。 遠景は、強風に揺れる黒いシルエットの竹藪、斜めにふりつける雨の勢い、人々の動きを見事に描写している。
案内板にその場所は、JR加佐登駅前のコンクリート工場の前辺りとの表示がされていた。 しかし実際にその道を歩いてみると、登り坂ではあるが、描かれているような急坂ではなく何となく違うと感じる。 画に描かれたような「山の中感」は全く無い場所で、むしろ明るく開けた鈴鹿川の河川敷の様な所だ。 第一この辺りの道路沿いには、竹藪を見かけることも無かった。
一説に東海道沿いではなく、宿の北方に鎮座する「加佐登神社」に向かう道では、との考えも有るらしい。 挙げ句は、そもそも広重は現地を見ず、想像で描いている・・等、この絵の描かれた場所には諸説ある。 未だに比定されず、議論も続いていて、このことが画の知名度を一層高め、名画と言わしめる一因ともなっている。
女人堤防の碑と川俣神社
宿場外れに、「従是東神戸領」と書かれた領界石があり、その横に「女人堤防」と書かれた碑が立てられている。 汲川原村は鈴鹿川と北安楽川の合流地点に在るが、完全な堤防も無く昔から何度も川の氾濫に苦しめられていた。 折しも倹約のお触れが出回ってはいたが、それでも幾度となく藩に堤防建設を訴願するが、聞き入れられない。 南岸の城下町・神戸の水害を恐れるからで、強いて訴えれば打ち首の極刑に処すとの触れまで出す有様であった。
度重なる被害を蒙る部落民は、これでは耐え難く、処刑を覚悟で堤防建設を行おうとした。 この時、菊女を先頭とした女性達は、工事に関わった男性達が処刑されれば集落の存続に関わると訴えた。 男達に変わってこの工事は、女達200余名で行い、死出の仕事にすると申し出る。
その後女達は、暗夜を選んで密かに築堤工事を進め、苦心の末、六年の歳月を掛けて堤防を完成させた。 しかしこの事は、何時しか藩主の知るところとなり、女達は捉えられ、断頭の座に着かされることになる。 正に処刑が始まらんとするその刹那、藩からの早馬が刑場に飛び込んできた。 使者は赦罰を言い渡し、一命を助けられると同時に、女達には築堤の功に対して金一封と絹五匹が贈られた。 その堤防は、この碑の立つ前辺りに東西に延びていたという。
庄野宿を出た街道は、川原町の交差点で国道1号線を越え、右に緩く曲がりながら西に向かう。 北を国道が、更にその先にはJR関西本線が通り、少し西方には安楽川と合流した鈴鹿川が流れている。
上り下り立場の有った中富田には、中富田一里塚の跡が残されている。 亀山領の東端に辺り、これを越えれば神戸領で、大きな榎の大木が聳えていたらしい。
隣接した地に「川俣神社(八王子社)」を見るが、同名の神社は庄野宿の西の外れにも有った。 境内には宿の成立以前から自生する、樹齢300年という県指定の天然記念物のスダジイの巨木が聳えていた。 更に街道を西進すると西富田にも、「川俣神社(八王子社)」が有り、これで三社目だ。
ここで旧道は途切れ、少し下流に迂回して安楽川に架かる和泉橋を渡る。 当時は、丸い太い欄干を備えた、幅七十間の板橋が架けられていたらしい。 橋を渡ると和泉町で、町外れの鈴鹿川に近いところにも「川俣神社」がある。 狭い地域に同名の「川俣神社」が四ケ社もあったが、どう言う関連か、謂れかは良く分からなかった。
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