|
日永のなが餅
桑名の町中に「桑名の安永餅」の店が有ったらしいが、気付かず見落としてしまった。 町屋川に架かる町屋橋の東詰、安永の立場にも、「牛の舌餅」の店があったがつい先頃閉店していた。 ここ四日市市内にも、金城軒の「太白永餅」というのがあるらしい。
四日市に入り、三滝橋を渡ると左側に、笹井屋と言う菓子舗が有った。 名物は「なが餅」で、「日永のなが餅」或は、長餅、笹餅などと呼ばれていた。 ここ伊勢の国には昔から、見た目がそっくりながら名前の違う名物が各地に根付いて残されている。
「日永のなが餅」は、天文19(1550)年、笹井屋の初代・彦兵衛が創りだしたものである。 小豆餡が入った、細長く延ばした棒状の餅で、外側は軽く炙り、焼き餅の薄い焦げ色が特徴である。 香ばしさと、北海道産小豆を使って作る甘さを控えた餡との絡みが売りの生菓子だ。 人工着色料、添加物の使用は一切無く、封を開けその日の内に食べて欲しい、と言うのが老舗の言い分である。
実はここに至る前の国道1号線沿いにも支店があり立寄ったのだが、ばら売りはないと言われていた。 しかし、このまま通り過ぎることも出来ず、竹皮風の袋に7個入った一番小さなものを一つ買い求めた。 お茶の接待を受け、店内で頂いたが、甘さ控えめとは言え、流石に一度に7本もは食べられない。
四日市宿
安藤広重は、東海道五十三次の四日市の画として、三重川を描いている。 三重川は御滝川とも言われ、橋の上からは古くは那古浦と呼ばれた四日市の海に注ぐ光景が眺められたという。 この浦では、春夏の間、蜃気楼が立つことが知られていた。
三重川は今日の三滝川で、橋を渡ると右手に「東海道四日市宿資料館」があったが、生憎閉館中であった。 見れば耳鼻咽喉科・福生医院の看板も掲げられた、立派な和洋折衷の戸建て住宅である。 江戸時代、問屋役を務めたのがこの屋の持ち主・福生家で、ここに問屋場があったらしい。 明治には医者として開業、その後廃院となった建物を当主が無償で貸与、地元の有志が再活用し開いた施設らしい。
国道164号線を越えると旧町名「南町」で、現在の「中部」交差点に、文化7(1810)年の道標が立っている。 一般的な道標には、方角が彫り込まれていることが多いが、このものには「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」とある。 丁度この辺りが、旧宿場町の中心で、それは先の桑名宿に匹敵する規模であったという。 宿場人口7,114人、家数1,811軒は、さらに本陣が2軒、脇本陣は1軒、旅籠も98軒有った。
街道が整備された当初は、四日市〜宮への十里の渡しがあっが、何時しか桑名の七里の渡しが主流となった。 その渡し場跡は、安政の大地震で壊滅的な被害を受け、港としての機能を失ったそうだ。 しかし宿場としては、この先にはお伊勢さんへの参詣道の追分けが控えている事もあり、とても賑わったらしい。
四日市は、嘗て高度経済成長期に、「四日市喘息」など公害問題で話題となった町である。 市は、第二次世界大戦では、終戦の年の6月に9回にわたる執拗な空襲を受け、全市の1/3が焼失した。 戦後になると海浜部の開発は更に進み、大規模なコンビナートが形成される事になる。 町は急速な近代化・工業化が進み、町中でも大規模な再開発・区画整理が行なわれ、旧町の面影は失われた。
道標の立つ道を右折、国道1号線を西に渡ると、正面に創建が鎌倉時代初期の「諏訪神社」が見えてくる。 四日市地区の氏神様で、社頭が街道に面していた事も有り、多くの旅人が旅の安全を願ったという。 「東海道分間絵図」によると、宿場の賑わいもこの辺りまでで、その先は松並木が描かれている。 今日諏訪神社の社頭は、賑やかなアーケード商店街「表参道 スワマエ」と成っている。 この道が旧東海道で、この先44番目の宿場、石薬師までは、二里半九丁(約11q)の長丁場となる。
四日市あすなろう鉄道
「乗られますか?もうすぐ発車ですよ!」 四日市駅前のビジネスホテルで泊まった翌朝、旧東海道筋を外れ、近鉄の四日市駅に向かった。 当地には私鉄の「四日市あすなろう鉄道」が走っていて、起点の「あすなろう四日市」駅が有る。 鉄道に乗るのが好きな身には、矢張り気になって、街道を歩き始める前に立ち寄って見たのである。
見れば我慢もならず、折角の機会でもあり、是非乗ってみたい。 しかし、乗ってしまえば東海道完歩の夢は潰える、だが好きな電車は見逃せない。 券売機の前でコインを握りしめ、逡巡する身に、改札の駅員から声が掛かり、急かせてくる。
この鉄道の歴史は意外と古く、前身は明治末期に設立された三重軌道(後の三重鉄道)である。 大正元年に、南浜田―日永間で営業運転を始め、三重鉄道時代には、湯の山温泉への直通運転も行われていた。 その後近鉄が三重鉄道を合併し運営していたが、鉄路の廃止、バス運用の話が持ち上がった。 関係者間で協議が進められた結果、平成26年に新会社が設立され、新たな態勢での鉄道運営が決まった。
あすなろう四日市駅と内部駅を結ぶ内部線と、途中日永駅から分岐して西日野駅に至る八王子線がある。 路線総延長5.7q、9駅で運営され全線が電化されているが、全てが単線だ。 軌間が762mと言うから、特殊鉄道である軽便鉄道の線路幅、ナロゲージの車輌は見逃せない。 床面の一部を透明化し、運転中の車輪や枕木、道床などの様子が眺められるシースルー車輌もあると言う。
この鉄道の内部線は、ほぼ旧東海道に沿って走っている。 結局、大した目算が有ったわけでも無いが、南日永駅まで乗車した。 この間は3q程の距離が有り、歩けば時間にして1時間程は掛かるが、電車なら10分余りと早い。 流石にここまで来て、ふたたび四日市に戻り、この間を歩き直す気にはならない。
「右の森に神明、山王、天満宮の社有り」 「四日市あすなろう鉄道」を南日永駅で下りると、その真ん前に、日永神社が鎮座していた。 天照大御神を御祭神とする神社で、伊勢七福神巡りの道場にもなっている。 古くからの社で、南市場神明社とも南神明社とも呼ばれたが、日永神社と称されるのは明治も後期頃からだ。
境内の正面拝殿の横に、東海道では最古という道標がのこされている。 この先の追分け、伊勢神宮遙拝鳥居の所有ったが、不要になり明暦2(1656)年、僧侶によりここに建てられた。 正面が「大神宮いせおいわけ」側面に「京」と「山田」とあり、裏面には「南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。 お坊さんが建てたので、念仏が刻まれているらしい。
その境内を抜けると、目の前を南北に旧東海道が通っていて、正面が街道に面していた。 民家に沿って、車列の隙間を縫うように更に南に進むと、「史跡 日永の一里塚跡」と書かれた石柱が立っていた。 民家と倉庫の間、幅1mも無い狭い空間に隠されたようで、うっかりすると見過ごしてしまうほど目立たない。 元は五間四方、高さ2.5間の塚が残されていて、右に「エノキ」左に「エノキ」と「マツ」が聳え立っていという。
日永の追分け
一里塚の先に、今日まで唯一残った「東海道名残の一本松」が見えてきた。 嘗て日永村から泊村の間は家屋が一軒も無い道で、街道の両側の低い土手にマツが植えられ縄手と呼ばれていた。 当時の道幅は三間(凡そ5.5m)、この縄手と呼ばれる土手を入れると約5間(9m程)でほぼ今の道幅と一致する。
道標は、以前のままの近鉄と表示されている「あすなろう鉄道」の泊駅前を過ぎる。 暫く行くと、味噌・醤油製造販売の「伊勢蔵」という店があった。 創業は大正3(1914)年で、これまで五代に渡り、伝統の製法を守りながら商いを続けているという。
その先に進むと、「日永郷土史研究会」が運営している、「東海道日永郷土資料館」の建物が左手に見えてきた。 商家・八木家の土蔵付の古民家を資料館として改修し、平成25(2013)年にオープンした施設だ。 特産の「日永足袋」「日永うちわ」を始め、東海道や伊勢街道の歴史などの資料を展示しているという。 生憎この日は休館日(開館は、水・土・日・祝)であった。
資料館の前を抜けると旧東海道は、左から来る国道1号線に合流すると、旧追分村だ。 そのまま道なりに側道を100m程行くと、大きな三叉路となり、その交点に小さな緑地が有る。 名前の通り、ここは「日永の追分」と言われる場所で、東海道と伊勢参宮道との分れ道だ。
神水も湧くというこの地は、四日市と石薬師との中間で、「間の宿」が置かれていた。 茶店が建ち並び、旅人には名物の饅頭が供され、大いに賑わったという。
追分には、昭和50(1975)年に建てられた、伊勢国二ノ鳥居と言われる「神宮遙拝鳥居」が有る。 又、台座も入れれば2m以上は有ろうかという石の道標も建てられ、肉太の字が刻まれている。 「右京大坂道 左いせ参宮道」「すく江戸道」「嘉永二年己酉春二月 桑名魚町尾張文助建之」と見える。 その隣に建つ古めかしい常夜灯にも、正面に「ひたり さんくう道」と刻まれている。
ここに初めて遙拝鳥居を建てたのは、伊勢商人・渡辺六兵衛で、安永3(1774)年の事だそうだ。 東海道を行交う旅人が、この地で伊勢神宮を遙拝できないのは余りにも寂しいと、建てさせた。 六兵衛は須ヶ瀬村(現在の津市)出身で、商いが繁昌し、江戸に進出し商家を構えた人物である。
伊勢参りの弥次・喜多さんは、伊勢参宮道へ進み、一里九丁(凡そ4.9q)先の神戸(かんべ)を目指した。 伊勢神宮のある山田までは、この先神戸、白子(しろこ)、上野、津を経て、その距離およそ16里である。 一方右の東海道は、やや西寄りに旧小古曽村へと向かうが、次の宿場・石薬師までは、1里半以上も残っている。
小古曽から采女
七里の渡しを終え桑名に上陸すると、比較的平坦な地勢に助けられ、街道には難所と言われるところは無かった。 伊勢湾に近い内陸部に当たり、濃尾平野から続く伊勢平野の堆積地帯で、高低差が殆ど感じられない地である。 小古曽東三の交差点で国道1号線に合流し、歩道橋を渡り、暫くして内部川に架かる内部橋を渡る。 日本橋から延びる現在の東海道、国道1号線の道路標識には、401.5qと表示されている。
橋を渡り、国道と交差する旧道を南に入り込むと、采女の集落である。 まだ高くはないが回りは丘陵地帯で、更に行く手には、立ち塞がる西の難所、鈴鹿山脈が見えてきた。 その難所を越えの前に、采女の集落の先で、小さな難所を一つ越さなければ成らない。
「杖つき坂の東にあり。日本武尊御悩の時、三重の郡家より采女出て御介抱し奉る。 (中略)采女の名是より起こる」(東海道名所図会)
明治の中頃、小古曽、北小松、采女、貝塚、並木の五ケ村が合併して内部(うつべ)村が誕生した。 村名は、近くを流れる内部川に因んで名付けられた。 昭和に入ると内部村は四日市市に吸収合併され、昔の村名は地区名として残ることになる。
この辺りをその一つ采女町と言い、古い家が幾らか残り、なんとなく懐かしい風情ある町並が見られる通りだ。 杖衝坂の登り口にある集落で、古くから「采女郷」という名で知られていた。
「采女」とは、古代朝廷に仕え、主に天皇や皇后の食膳の奉仕をした下級の女官をいう。 多くは地方豪族の娘達で、朝廷への服従の証拠として差し出された女性で、一種の人質である。 容姿端麗が絶対条件とは云われているが、才媛であることも必要だったようだ。 この「三重の郡家より采女出て・・・」と書かれた女性は、この地の女性と言われている。
杖衝坂
「杖突坂 采女村にあり官道に属す、伝へ云ふ倭武尊東征の時、桑名郡尾津村より能褒野に到るの時、 剣を杖つき此坂を踰え玉ふ故に名ずく」と古誌で紹介されている。
采女の集落を抜け、国道から300m程進んで突き当りを右折し、更に100m程先を左折する。 道の先はすでに登り坂の様相で、小さな川を越えればそこが杖衝坂の登り口だ。
道は枡形に曲がると、金刀比羅宮の小さなお堂が右にある。 その前を左に折れると、更に勾配を増して右カーブで登り始める道は、久しぶりに体感する急坂だ。 「日本武尊が余りにも急坂で疲れ果て、剣を杖代わりにして登った」(古事記)と伝わるのが、釆女町の杖衝坂だ。
坂の途中に、平成24年に開館した「うつべ町角博物館」があった。 内部川の流域に開けた旧内部村の、縄文の昔から続く文化を紹介する、地域の学習交流施設である。 和風平屋住宅の内部五部屋を改装したもので、街道歩きの休憩場所としても活用されている。
「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」
更に上ると「史跡 杖衝坂」の石柱が立ち、横に「永代常夜灯」や、芭蕉の句碑がある。 芭蕉は故郷の伊賀に帰る途中、この坂を馬に跨り越えようとしたが、余りにも急坂のため鞍ごと落ちてしまった。 それが余程ショックであったのか、芭蕉にしては珍しい季語の無い句を読んでいる。
この場所には、二つの井戸が残されている。 手前の井戸を「大日の井戸」といい、近くの大日堂にお供えする「閼伽水(あかみず)」を組み上げた井戸である。 もう一つは、「弘法の井戸」で、水に困る住民のため弘法大師が杖を指し、掘らせたところ水が湧き出たという。
日本武尊御血塚
古風な家並みの続く坂を登り切ると、左の山裾に小さな祠があり、その奥に「日本武尊御血塚」の碑がある。 日本武尊はこの坂を「小さな井戸の水で疲れを癒やしながら」「剣を杖代わりにして登った」が、ほとほと疲れた。 「吾が足は三重の勾がりの如くして、はなはだ疲れたり」と嘆かれたそうだ。
気が付けば怪我をして足から血がながれ出ていたのでこの場で血を洗い、止血した所と地元には伝えられている。 因みに三重県の県名は、この故事に因むとの説もあるそうだ。
ようやく平坦となった坂の上は、杖つき村立場で、茶店では名物の饅頭を売っていたという。 そんな街道を500m程進むと、やがて右に国道1号線が見えてくる。 合流の少し手前に、江戸から数えて101番目の「采女の一里塚跡」がある。 戦後まで土塁様の塚があったが、昭和40年代に入り、国道拡幅工事等で消滅し、今は案内標識のみである。
(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved. |