「牛の舌餅」発祥の地

 

矢田立場跡で左折すると旧街道は旧大福村に入り、真っ直ぐな道が1.5q程先の員弁川の土手まで続いている。

昭和の頃までは、この辺り「江場の松原」と言われた松並木が残っていたらしい。

今その姿を見ることは無く、日立金属の桑名工場や住宅の建て込んだ町並ばかりが延びている。

 

道なりに進み、旧安永村に入ると西側に、天照大御神を御祭神とする「城南神社」がある。

境内に建つ鳥居は、伊勢神宮の一の鳥居で、遷宮の折に下賜されたものらしい。

更に真宗大谷派の晴雲寺があり、その先で国道258号の高架を潜る。

 

ここには嘗て、安永立場があり、当地発祥の桑名名物「安永餅」が売られていた。

つい最近まで、「玉喜」という茶店が有ったらしく、「牛の舌餅」と称して、旅人に人気を博していた。

粒あんの入った薄くて細長い焼き餅であるが、店はつい先頃販売をやめたらしい。

今は創業以来200年という料理旅館「玉喜亭」として営業を続けていて、ここは藤の花の名所という。

 

「牛の舌餅」発祥の地

「牛の舌餅」発祥の地

「牛の舌餅」発祥の地

 

「牛の舌餅」発祥の地

「牛の舌餅」発祥の地

「牛の舌餅」発祥の地

 

「牛の舌餅」発祥の地

「牛の舌餅」発祥の地

「牛の舌餅」発祥の地

 

街道を更に進むと右角の石垣の上に、道標と大きな常夜灯が見えてくる。

文政元年に寄進された高さが4.3mも有る「伊勢両宮常夜燈」である。

東海道の道標として、また伊勢神宮への祈願を込めて、桑名・岐阜の材木商により寄進された物という。

 

その脇にあるのは、明治初期頃建てられて道標だ。

正面には「從町屋川中央北桑名郡」と有り、両側面に三重県庁と桑名郡役所までの距離が彫り込まれている。

郡境と里程を示す物のようだが、風化が激しいのか、鉄板の補強が何とも痛々しい。

 

 

町屋橋跡

 

「伊勢両宮常夜燈」から更に旧道を西に進むと、突き当りの行き止まりで、その先は「安永第一公園」だ。

公園には「東海道五十三次町屋橋跡」の案内板が立っていて、街道筋に有っては歴史的に意義のある場所である。

 

公園の先はフェンスで仕切られ、その下を員弁川(町屋川)が流れている。

ここは桑名宿の入口、安永立場であると同時に、員弁川の川運の船着き場としても栄えた場所である。

街道を行き交う旅人達や水夫達の休憩場所として、お茶と安永餅で持てなしていた。

 

町屋橋

町屋橋

町屋橋

 

町屋橋

町屋橋

町屋橋

 

 公園の手前の左側、大木が茂る緑の中に、「すし清」という店がひっそりと建っている。

東海道筋の茶店として、安政3(1856)年に創業した歴史を誇る名店である。

かれこれ160年以上にも渡る今でも、川の畔で料理旅館として営業を続けている。

 

玄関前には樹齢260年の「フジの木」があり、毎年満開ともなると藤祭りが行われるという。

丁度ゴールデンウィークの頃らしく、「焼きハマグリ」の旬と重なるそうだ。

「はまぐり懐石」、「松花堂弁当」などで、焼いたり、蒸したり、揚げたりしたものが味わえるらしい。

当時の立場は休憩場所で、原則宿泊は出来なかったから、茶店として料理や名物を提供していたのである。

 

常夜灯の建つ角を曲がって100mほど歩き、国道1号線に出て右折し、員弁川に架けられた町屋橋を渡る。

員弁川は鈴鹿山脈・御池岳に源を発し、南東方向に流れながら伊勢湾に注ぐ延長およそ37qの二級河川である。

この辺りでは町屋川とも呼ばれ、東海道が整備されると、寛永101635)年に橋が架けられた。

「板橋百六拾間、小橋有り」との記録が残されているらしい。

300mの橋と中州の向こう側には、それより短い橋が架けられていたようで、さっきの公園が橋の東詰である。

 

町屋橋

町屋橋

町屋橋

 

町屋橋

町屋橋

町屋橋

 

当時の橋の中程には、馬が行き違い出来るような退避部分が設けられていた。

橋は明治に入り100m程下流に、幅二間(約3.6m)、長さ百二十間半(約220m)の木橋に架け替えられた。

 東海道が国道1号線として整備されると、昭和7(1932)年、現在の位置にコンクリート橋が完成する。

その後、歩行者用の橋が増設され、現在の鋼桁橋に架け替えられるのは、凡そ半世紀の後である。 

将来的には国道は片側2車線の四車線で計画されているが、橋はその半分の片側1車線分だけ架けられている。

 

 橋を渡り町屋橋南図目の交差点を北に、土手道を100m程歩き、ポンプ場の角を南に曲がる。

再び東海道の旧道に戻ると、縄生(なお)の集落に入り込む。

この地の山には長年住みついた三介狐がいて、日々怪を成し、旅人を惑わしたのはこの辺りらしい。

 

 

 

近鉄の伊勢朝日駅を左に見て、その線路を渡り東芝三重工場の前を通り抜ける。

少し前に正午を告げる大きなサイレンが聞こえていたが、この工場のものであったようだ。

お昼を摂りに自宅に帰るのか、制服を着た従業員が三々五々、自転車や徒歩で正門から出て来るところだ。

 

 踏切を超えた少し先にポケットパークのような小さな公園が整備されていた。

東屋があり、石のテーブルと椅子が配置され、旧東海道と書かれた石碑と、観光案内板が立っている。

丁度この辺りからが「小向(おぶけ)立場」が有った場所だ。

 

 道筋の朝日町に、一本の大きなエノキが立っていた。

説明書きによると、東海道の並木として植えられたもので、推定樹齢は300年余りだという。

一般的に並木は、松や杉が植えられることが多いが、一里塚なら兎も角、並木としてのエノキは珍しいようだ。

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

 東芝工場を過ぎると左側に朝日町役場があり、前に浄土真宗本願寺派・浄泉坊がある。

当寺は、徳川家と深い所縁が有り、葵のご紋の使用が許されていたらしい。

参勤交代の大名もこの門前では駕籠から降り、黙礼を捧げ通り過ぎたとの言い伝えが残されている。

 

 JR関西本線の朝日駅前を右に見て、柿の集落を抜ける。

国道1号北勢バイパスを越え、朝明川の袂の常夜灯を見て、朝明橋を渡り、富田の町中に入ってきた。

四日市市の北部にある地区で、古くは三重郡富田町といい、昭和161941)年に四日市市に編入された。

 

桑名から四日市までは、三里八丁(約12.7km)の長丁場で、中ほどにある富田に間の宿が開かれた。

近鉄線とJR線が交差する辺りが今日の町の中心で、間の宿もこの辺りにあったようだ。

 

 

その手は桑名の焼き蛤

 

昔から蛤と言えば、「桑名の焼き蛤」が名物として知られている。

しかしどうやらその本場は、小向から富田にかけたこの辺りらしい。

「東海木曽両道中懐宝図鑑」では、「蛤白魚貝合の貝もここより出る(宮―桑名)」と紹介している。

「東海道名所図会」など、当時の道中記では、桑名の名物としては取り上げてはいなかった。

 

その手は喰わないこと、美味いことを言っても欺されないことを、「その手は桑名の焼き蛤」という。

江戸時代には既に使われていた洒落言葉で、これらから反射的に、蛤と言えば桑名を思い浮べていた。

ところが、「♪桑名の殿さん 時雨で 茶々漬け・・・♪」という唄があるくらいだ。

昔も今も、桑名はどちらかと言えば加工された蛤の佃煮、「時雨蛤」が中心であったらしい。

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

「名物焼き蛤 東富田・おぶけ 両所の茶店に火鉢を軒端に出し、松毬にて蛤を焙り旅客を饗す」

小向(おぶけ)立場には、名物の「焼き蛤」を売る茶店が建ち並んでいたという。

街道の松並木から落ちた松葉や松笠を集め、蛤を焼く為の燃料として利用していたようだ。

焼くには火力が丁度良く、なにより味が良くなるらしい。

 

間の宿・富田の町中にも、「富田の焼き蛤」と言う説明板が掲げられていた。

それによると「焼き蛤」は、元々は小向(おぶけ)から、ここ富田にかけての郷土料理であるという。

あの弥次さん喜多さんも、枯れ松葉や松笠で燻し焼きにした「焼き蛤に酒酌み交わし」ている。

明治維新の折にも、明治天皇がこの地の酒造家・広瀬家で休憩され、ご賞味されたそうだ。

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

「蛤の 焼かれて鳴くや ホトトギス」

江戸時代、芭蕉門下十哲の一人・宝井其角が、中町の旅籠・尾張屋の店先で富田の焼き蛤を詠んだ句である。

その当時の句碑は、今もこの近くの伊勢湾沿岸、富田浜に記念碑として残されているそうだ。

 

歴代の将軍に献上された伊勢湾の恵み、有名な食文化も、近年その生産量は激減した。

一時は絶滅の危機などと言われたが、「蛤」は稚貝の放流などで、少しずつ回復傾向にあるらしい。

それでも桑名産は、獲れる時期も限られていて、そうおいそれと庶民の口には入らない。

今日町中で見かけるのは、佃煮の「しぐれ蛤」が多いようだ。

しかし、所々には、「蛤」「焼きハマグリ」の看板や暖簾を掲げる食事処などもあるが、高級料理である。

 

 

富田の力石

 

 富田の町中を南に向けてすすむと、茂福町のT字路に、「新設用水道碑」が建っていた。

明治の中頃、耕地整理事業による十四川の改修で、町内に流れる水路がなくなり、田に水が入らなくなった。

その対応策として暗渠による水路が造られ、これで生活用水、防火用水として賄った。

後年、国道1号線の開通や、伊勢湾台風時の水害などで暗渠は土砂に埋まり、壊滅した歴史を伝える碑らしい。

 

 茂福の「新設用水道碑」の横に、二つの力石が置かれている。

地区内の御堂建築の折、土台石として各所から沢山の石が奉納された。

その節、休憩中の若者達が、石を持ち上げんと、力を競い合ったそうだ。

これが起源となり、大正の終わり頃まで青年の間で力比べが続けられていたらしい。

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

 石を持ち上げる力比べは、江戸から明治にかけての遊びとして流行っていたという。

ルールはただ重い石を持ち上げるだけで、到ってシンプルで、神社などの祭礼や余興として行われた。

その石は奉納され、残されてきたが、最近ではこうした行事は行われなくなったらしい

 

茂福町の大きい石には32メと刻まれているので、恐らく32貫(120s)の事であろう。

その前の小さな石が子供用で、重さ5貫(19s)と書かれている。

 力石は、富田駅近くの八幡神社の境内にも置かれていて、こちらは重さ百キロと言う。

村一番の力持ちの競い合いは、鎌倉の頃より、豊作の願いと共に、時代を経て継承されてきた。

 

 

かわらずの松

 

当地には、市の無形民俗文化財に指定された「石取祭」と言う夏祭りが残されている。

これは、桑名の春日神社の夏祭りとして伝えられ、町屋川で拾った石を祭車に乗せ神社に奉納するらしい。

 

この辺りでは川石が豊富なのか、信仰の対象など、石に纏わる伝承が方々に残されている。

茂福町の他にも、北村若宮八幡宮にも同じような力石が保存されている。

人々の生活に密着した歴史があり、今では健康長寿の石として、末永く伝承するために保存しているという。

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

 旧街道は相変わらず緩やかに曲がりながら、静かな町並みの中を抜けている。

途中米洗川の袂に、大きな羽津の常夜灯が立っていた。

 

これまでも街道筋や宿場の内外で、幾つもの常夜灯を目にしてきた。

常夜灯の多くは地元の篤志家等から寄付されたものだが、それらはその土地その土地で意味合いが違ってくる。

静岡から愛知にかけては、主に火伏の神として知られる秋葉神社への献灯である。

伊勢路に入るとその多くは、伊勢神宮に至る道に設けられた道標を兼ねた献灯となる。

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

 旧街道が羽津地区に入ると、前方に大きな松の木が一本、早傾きかけた西日を受けシルエットとなり見えてきた。

江戸時代後期に植えられた樹齢約200年という松で、ここに一本だけ残されている。

戦前まではまだ多くの松が並木を成して残っていたらしいが、戦後の経済発展に歩調を合わすように切られた。

昔この地は「川原須(かわらず)」と呼ばれていたらしく、この松も「かわらずの松」と呼ばれている。

 

 古墳時代の古墳跡地に立地している、古墳神社・志氐神社(しでじんじゃ)門前の鳥居を見て進む。

その先で旧街道はいったん途切れ、左にとり国道1号線に迂回する。反対の右にとれば羽津城址があるらしい。

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

間の宿 富田

間の宿 富田

間の宿 富田

 

国道に出ると金場町の交差点に古い道標が残されていた。

角柱の角は風化したのか、欠けて丸みを帯びているが、「桑名 四日市道」等と刻まれているのが読める。

 

多度神社のところで国道を外れ、一部残された旧道に斜めに入り込むが、距離は無くすぐに堤防に突き当たる。

「東海道分間之図(元禄版)」によると、当時この辺りは松並木で、その中に小さな茶店が建っていた。

横には松と榎の植えられた一里塚があり、海蔵川には小さな土橋が架けられていた。

 

 昭和に入り河川が拡幅整備された際、川の中に取り込まれて一里塚は消滅した。

平成132001)年、一里塚跡と定め、公園として整備したのが「三ツ谷の一里塚跡」である。

 

 

海蔵川と三滝川

 

三ツ谷の一里塚跡から土手を上がり、上流に60mほど迂回して国道に架けられた海蔵橋を渡る。

橋を渡り終え、下流方向に土手道を暫く歩き、再び旧道に入り南下する。

この辺り、嘗ては浜一色村と言い、海蔵川とこの先の三滝川に挟まれた砂州地帯である。

今日では下流の海浜は埋め立てられ、広大な四日市コンビナートとして開発されている。

 

国道1号線の西側には「陶栄町」と言う町があり、そこに「萬古商業会館」が有る。

その名の示す通り、この辺りから下流域にかけた一帯は、四日市の地場産業・萬古焼で栄えたところだ。

萬古焼は、紫泥の急須や土鍋、蚊取り線香を立てる蚊遣豚が知られた焼き物で、今でもその工房が有るらしい。

 

海蔵川と三滝川

海蔵川と三滝川

海蔵川と三滝川

 

海蔵川と三滝川

海蔵川と三滝川

海蔵川と三滝川

 

海蔵川と三滝川

海蔵川と三滝川

海蔵川と三滝川

 

海蔵川と三滝川

海蔵川と三滝川

海蔵川と三滝川

 

更にその先に進み、三滝川に架かる三滝橋を渡る。

嘗ては「みたち川のすゑ土橋」と呼ばれ、長さ卅五間の土橋が架けられていた。

 

「すゑ」は「陶」、即ち陶土を意味したもので、昔から萬古焼に敵した土が多かったようだ。

橋は明治になると板橋に、更に大正には鉄構橋(長さ72m、幅6.3m)に架け替えられた。

橋上からは、四日市コンビナートが遠望でき、渡ればようやくに、四日市の宿へと入っていく。

 



 

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