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名古屋の町
名古屋は先の戦災を受け市域の1/4が焦土と化し、跡形もなく燃えて消滅してしまった。 当時人口は60万人足らず、将来の200万人を目標に据え、いち早く先進的な都市計画で復興を図る事になる。 その基盤となったのが防災目的の100m道路で有り、全市を四つの用途別地域に区分する計画であった。
計画が進むにつれ、整然と区画整理された町並を見て、人々はここを緑の乏しい「白い町」と蔑んだ。 広々とした都市計画道路が町中を貫くと、滑走路を造っていると揶揄し、当初は批判の声も多かったと言う。
しかし今日ではこうした幹線道路は、防災のみならず公園としての機能も持つパークウェイと成っている。 計画では市内に点在した279寺の19万基の墓を一カ所に集め、平和公園と言うお墓のある公園を作り上げた。 今では墓苑などとも呼ばれ、一般市民も訪れる桜の名所となっている。 そうした200万都市名古屋の、戦後の都市計画は成功例として、今日では大いに評価されている。
新たな西の押さえ 名古屋城の築城
信長亡き後の清洲城は、紆余曲折を経て関ヶ原の合戦では、東軍の拠点として重用された。 戦で勝利を得、江戸に幕府を開いた徳川家康は、第9子・義直を清洲藩主として尾張を治めさせる事になる。
一方で家康は、西国の大名に対する備えとしての清洲城に、決して満足はしていなかった。 城は平たんな平野部に築かれた平城で、水攻めされればひとたまりも無く、兵糧を欠くことに成りかねない。 加えて多くの兵士が駐屯するにも、この城郭では手狭で、周辺に拡張する余地もない。
中世以降街道が整備され、脇往還・美濃街道の宿場町とは成ったが、東海道筋からは大きく外れていた。 天下統一を狙い西国の押さえとするには、この城は交通の便が悪く、余りにも脆弱であった。 それに何よりも信長・秀吉が活躍したこの場を、払拭したいとの思いもある。
家康はこの清洲城の建て替えを目論見、着目したのが宮(熱田)宿から北に延びる熱田台地であった。 台地北端の北面と西面は、足場の悪い湿地帯で、軟弱な地が一面に広がっている要塞の地である。 その為ここからは見通しが良く、京・大阪を結ぶルートともなっていた関ヶ原方面が一望できた。
敵が攻めにくく、守りやすい標高15m程の洪積台地で、その北端に新たな城を築くことを決意した。 那古野(なごの)と言われる地で、ここには室町時代から今川一族が支配する城が築かれていた。 天文年間には信長も居を構えたが、清須に移った後、その跡を継いだ叔父の信光が死ぬと廃城になっている。 現在の名古屋城の二の丸辺りで、ここが名古屋城の発祥の地と言われている。
ここに南面と東面を強固な石垣で固めた天守を建てる。 更に二の丸、三の丸で取り巻くことで、守り易く攻めにくい強い城の建造を目指したのである。 東海道の防御を固めるために始まった名古屋の築城は、巨大な軍事要塞を造る一大プロジェクトであった。 公儀普請として西国二十家にそのお手伝いが下命される。 恐らく公金だけでは賄えず、お手伝い普請は有力大名の力をそぎ落とす狙いも有ったようだ。
特に守りの要となる石垣は、丁場割り図により細かく作業場が割り振られていたと言う。 その石垣は、全国から集められた巨石を用いた普請で築かれた。 慶長15(1610)年6月から始まり、翌年の9月にはほぼ完成するという突貫工事であった。
慶長17(1612)年に五層五階層塔式の天守が完成した。 その高さ百六十六尺(約50m)で、18階建てのビルに相当し、史上最大の延べ床面積を誇っていた。 使われた檜は2,815本、欅の角材408本、松の角材9,796本、畳はなんと1,759畳に及んでいる。 檜をふんだん使った城は格別な豪華さだったと言う。 大屋根の上には黄金の鯱を頂いたもので、このことから別名「金鯱城」とも言われた。
徳川の威信を注ぎ込んだ、武家風書院造りの豪華絢爛を極めた本丸御殿も造られた。 更に二の丸御殿も三年の歳月をかけて築かれた。 高い石垣と深く広い掘り、堅固で巧妙な縄張り、他の城郭なら天守に匹敵するほどの巨大な隅櫓。 強固に守られた要塞は、近世城郭の完璧な完成形と言われる程のもので有った。
C洲越し
名古屋に新城が完成すると、清洲の町をまるごとそのまま名古屋に引っ越すことが決まった。 武家はもとより町人までが移り住む、世に言う慶長15(1610)年に行われた町ぐるみの「清洲越し」である。
町民は家屋敷から家財道具一切合切を運び出し、これに従う住民を優遇し、城下の中心に住まわせる算段だ。 神社仏閣もこれに従い、人口六万人を誇った清洲の町は、一瞬で寂れ農民だけの寒村に戻ってしまった。 清洲城の建物や石垣迄も解体され、名古屋城築城の建築資材に流用され、清洲には何も無くなってしまった。 因みに名古屋城の西南角に残る隅櫓は「清洲櫓」と呼ばれ、嘗ての清洲城天守閣で唯一の遺構である。
これ程までの大移動だが、どのルートを経たのか未だに定説もなく、解ってはいないらしい。 陸路なら、美濃街道から庄内川を渡れば、城下までは一里半程の距離である。 或は五条川から庄内川を下り、伊勢湾に出て堀川を遡る水路が考えられるが、当時の記録は何も無いという。
町ごと引っ越す大規模なイベントは、労力も資金も統制も必要であったであろう。 そんな中整然と行われた引っ越しで、清洲の町が忽然と消え、名古屋に町が突然と現われた。 時の施政者の指揮命令系統が機能していた筈だが、記録が何も無いとはなんとも不思議な話しである。
堀川に架かる「五條橋」は、嘗ては清洲を流れる五条川に架けられていた橋である。 元の橋の欄干擬宝珠には「慶長七年壬刀六月吉日」との銘が残されている。 「清洲越し」の8年前に架けられたことが知られていて、この擬宝珠は今名古屋城に保管されている。
橋は是まで幾度も改築を繰り返してきたが、明治34(1901)年にも架け替えられている。 現在の橋は昭和13(1938)年に、木造の橋に似せて造られた鉄筋コンクリート造りである。 橋の親柱や高欄は御影石で造られ、道路面にはサイコロ状の石が埋め込まれている。 いま橋の西北詰に擬宝珠のレプリカが嵌め込まれていて、その付近には案内板が建っている。
慶長16(1611)年、徳川家康は、木曽と木曽川を尾張藩の直轄地とした。 木曽美林から切り出される材木を、筏を組んで木曽川を流し、伊勢湾を渡り宮から運河を経て城下に運ぶ。 名古屋城の築城や新たに作られる城下町の建設用材に充てる目論見である。
その為前年には、福島正則に台地の西辺に運河の掘削を命じている。 全国20余りの大名の手伝い普請で掘削人夫を出させ、人海戦術により同年の6月に一年足らずで完成させた。 川には当初上流から五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋が架けられていた。
当時城下には、大きな自然の川は無かったので、運河の掘削には謎も多いという。 当時の技術を考えると零からの掘削では難しく、何らかの川筋をベースに運河に転用したとの説も有るらしい。 これにより熱田(宮)から城下まで、舟運が開通し、建築資材を運ぶ運河として利用されることになる。 長さ約4000間(7.2q)、幅12〜48間(22〜87m)、水深凡1間(1.8m)の「堀川運河」が開通した。
結果、名古屋は木材の一大集積地となった。 お城に近い堀川沿いには材木商を始め米穀、塩、味噌、酒などを商う商家が軒を連ねることになる。 五條橋近辺には、今もその名残の材木商や土蔵などが残っている。
こうして名古屋には、東西52町(5.7q)、南北55町(6.1q)の新しい町が誕生した。 城郭を中心に身分・格式による地域割りが行われ、町人町は城の外堀を隔てた南側に作られた。 その東・西・南の外側を武家地で囲い、さらに外側に多くの寺院を配置したとされている。
町割りされた各通りの幅は三間であった。 宿場町・宮と城下町・名古屋を結ぶメインストリートの本町通りは、他の道路より広い五間幅で造られた。 これにより尾張名古屋城下に、後に言われる62万石の新たな城下町が完成した。 家康の九子・義直が完成した名古屋城に入城したのは、元和2(1616)年のことだ。 それは奇しくも名古屋城下の整備に情熱を傾けた家康が亡くなった年でもあった。
水を呼ぶ鯱
名古屋城と言えば、天守大屋根の上に輝く金の鯱が有名だ。 築城当時は金の純度が80%で、純金にすると200s以上使われ、小判で17,975両分に相当するもので有った。 その燦然と輝く様は、東海道や佐屋道、美濃街道を行く旅人、七里の渡しの舟上からも認められたという。
名古屋城は、明治維新の廃城令を生き延び、昭和5(1930)年には、城郭として初めて国宝に指定された。 しかし先の大戦で戦禍に遭い、昭和20(1945)年あえなく何もかもが焼失してしまう。 幸い鯱の一部は焼け残り、残骸は戦後GHQが接収し、後大蔵省を経由して名古屋市に返還された。 市はその残骸から金を取り出し、市民に見える形にしようと、市旗冠頭と茶釜に加工し保存した。
戦後になり昭和34(1959)年、市民の気運も高まり天守は復元されることになった。 同時に金の鯱も新調され、トラックに乗り賑やかな市中パレードを終えた鯱は大屋根の上に蘇った。 雄は2.62m、雌は2.57m、一対に使用された金は88s、大阪造幣局の手によるものである。
当時再建を請け負った建設会社からは、記念に、目にダイアモンドを埋め込みたいとの申し出があった。 が史実に基づかないと市が断ったとのエピソードも語り伝えられている。
鯱は想像上の動物で、古くから寺院などに飾られている。 お城などの屋根に乗る鯱は、火を見ると水を呼ぶとの言い伝えから飾られるものだ。
天守が復元されたこの年の10月、東海地方は未曾有の大型台風15号に襲われた。 後に「伊勢湾台風」と呼ばれ、死者・行方不明者合わせて5,098人という国内最悪の大災害を引き起こした。 この年巷では、「お城の鯱が水(高潮の被害)を呼んだ」と、密かに囁かれていた。
尾張徳川家の別邸
名古屋城の真東、三キロほど離れた東区徳川町に「徳川園」が有る。 尾張藩二代藩主光友が、元禄8(1695)年隠居所として自ら造営した、敷地面積約13万坪という広大な屋敷跡である。
江戸幕府が大政奉還をした明治以降は、尾張徳川家の子孫の邸宅となっていた。 昭和の初めになって名古屋市に寄付されたのを期に改修整備され、「徳川園」として一般公開された。 更に平成に入り大規模なリニューアルも行われ、新しい日本庭園として生まれ変わった。
舟を浮かべたという、大池を中心とした池泉回遊式の日本式庭園で、典型的な大名庭園だ。 高低差のある地形を生かして造られ、滝から渓谷に流れ落ちた清流が、海に見立てた池に流れる様を表現している。 四季折々、樹木花木が様々な顔を見せ、格好の撮影スポットとして、特に結婚式の前撮りでの利用も多いという。
園内には龍仙湖に臨んで建つ「ガーデンレストラン徳川園」があり、フランス料理やワインが提供されている。 他にも「ガーデンホール」などが有り、地元では結婚披露宴や各種パーテーなどでの利用も多い。 和風の「蘇山荘」は、嘗ての迎賓館で、昼は喫茶、夜はバーとして開放されている。 昭和12(1937)年、市が人口100万人突破を記念して開催した「名古屋汎太平洋平和博覧会」の折りに建てられた。
尾張徳川家は、今日の愛知県西部一帯を支配し、61万9500石の石高を有していた。 徳川御三家の筆頭と言われ、初代藩主は家康の第九子・義直である。 御三家は重要な役割を担っていて、将軍家に跡継ぎがいない時は、将軍後継者を出す資格があった。 しかし残念ながら、尾張徳川家にその機会は巡っては来なかった。
第7代藩主・宗春の時代には、自由で放任的な政策がとられ、城下町に繁栄がもたらされた。 しかし、時は第8代将軍・吉宗が進める質素倹約の時代である。 宗春の施策は、それに真っ向から反するもので、後に吉宗の怒りを買い、隠居謹慎を命じられることになる。
こんなことからテレビや映画では、幕府との権力争いの黒幕として尾張藩が描かれることも多い。 しかし、地元にとっての宗春は、今日の基礎を築いた名君である。 今日名古屋が、「芸どころ」と呼ばれるのは、この施策で芸事が庶民の間に広まったから、と言われている。
館には家康の遺品を中心に、大名家に代々伝わる遺愛品等の「大名道具」約1万件のコレクションが収められている。 中でも良く知られているのが、平安時代の作で現存最古のものと伝わる、国宝「源氏物語絵巻」である。 その他にも国宝は8件にも及び、重要文化財は59件を数え、名品の宝庫である。
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