尾張の中枢・清洲

 

 「清須」は愛知県の北西部に位置する市で、名古屋の中心部からは北に6q程離れている。

五條川流域の沖積平野に開けた町で、周辺は庄内川や新川の下流域に当たる。

地形は平坦で山や丘など高所に乏しく、殆どが土砂の溜まった海抜10m未満の低湿地帯である。

昔から水害の多い土地柄で、近年でも東海豪雨の折には新川の堤防が決壊し、大きな被害が発生している。

 

「キヨス」は一般的には「清須」の字が用いられるが、古くから「清洲」と書かれる事も多く混在している。

平成の大合併では、周辺四町により新しく「清須市」が誕生し、人口6.7万人余りの市となった。

近接する枇杷島町、清洲町、新川町が合併し、後に春日町を編入した。

 

尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

尾張の中枢・清洲

尾張の中枢・清洲

 

時はまさに戦国時代、若き日の織田信長は近世的な城をここに築いた。

生まれ育った那古野城(諸説有るらしい)から移り住み、本拠と定め「清洲城」とした。

近くを流れる五条川を巧みに利用し、内堀・外堀を設け、城下町の外郭の要衝には土塁を巡らせていた。

城を中心に武家屋敷や、町民町、寺社町等の繁華な町並が広がっていたらしい。

 

信長の本拠地と成った清洲には、尾張国の守護所があり、尾張の政治的な中心地であった。

町中を美濃街道が貫き、城下で京・鎌倉街道と合流し、更に中山道にも通じる交通の要衝として繁栄した。

天下布武の礎となった城らしく、信長は凡10年間ここを本拠地として活躍した。

 

尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

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 清洲城は、清洲町の町制制100周年を記念し、平成元(1989)年に、鉄筋コンクリートで造られた。

創建当時の絵図面は残っていないらしく、桃山時代の城郭を参考に創造・復元された物だ。

黒瓦に白い漆喰の壁、最上階の赤い欄干が印象的な城である。

 

これまでも城の跡地は大切に保存され、公園として町民に開放されてきた。

公園は清洲城のある本丸ゾーン、五条川対岸の「清洲古城跡公園」と、北側の「清洲公園」に三分割されている。

「清洲古城跡公園」と「清洲公園」は、東海道本線と東海道新幹線により南北に分断されてしまったからである。

 

尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

尾張の中枢・清洲

尾張の中枢・清洲

 

清洲城天守閣から五条川に架かる大手橋を渡った対岸がその「清須古城跡公園」である。

そこには、ボランティアスタッフが常駐する観光案内所、「清須ふるさとのやかた」が建っている。

地元産のお土産販売や、手作り甲冑の試着が出来るサービス等がある。

 

この建物の横には、当時の石垣が復元展示されている。

五條川の河川工事の折に出土した、本丸南側の石垣で、濃飛蛇紋岩が、殆ど手を加えずに使われていた。

軟弱な基礎を強化するため松材が何本も打ち込まれ、その上の石垣は「野面積み」の技法で積まれていた。

 

尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

 

「清洲古城跡公園」から、JRの線路を潜った先にあるのが、大正10年に開園した「清洲公園」である。

公園内には信長公を祀る小社があり、幕末の「清洲城跡顕彰碑」2基も残されている。

 

芝生広場のある緑豊かな公園で、その中心には信長公像が建てられている。

地元の篤志家から寄付されたもので、27才の折りの桶狭間出陣の勇姿を模した像である。

平成に入ると、地元の企業から濃姫像が寄付され、清洲城内に建てられた。

後に清須市誕生7周年を記念して、信長一人では寂しかろうと、向かい合うこの位置に移したという。

 

尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

尾張の中枢・清洲

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尾張の中枢・清洲

尾張の中枢・清洲

尾張の中枢・清洲

 

 「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり・・・」

 

信長は、自身が好む幸若舞「敦盛」の一説を吟じ、舞い、天下取りの合戦に臨んだと伝えられている。

舞終えると、僅か六騎の股肱の臣を従えただけで急遽城を飛び出し、途中熱田神宮に立寄った。

戦勝を祈願すると同時に、ここで軍備を整え桶狭間に進軍し、悪天候に乗じ巨大な敵今川氏を撃破した。

 

 

小牧・長久手の戦い

 

天下統一を目指した信長であったが、本能寺の変で明智光秀の謀反にあい、敢えなく野望は断ち切られる。

信長の死後、ここで城の相続の話し合いが持たれることになった。

世に言う「清洲会議」である。会議では、信長の次男である織田信雄の相続が決まった。

 

相続した信雄ではあったが、大坂城を築くなど天下人として振る舞う秀吉に、心中穏やかではない。

しかし、単独で秀吉に対抗する力は無く、父の盟友だった家康を頼ることになる。

 

信雄の要請を受け家康は、織田信雄・徳川家康の連合軍で「秀吉包囲網」の形成を企てる。

越中の佐々成政、紀伊の雑賀衆や根来衆、関東の北条氏政、四国の長宗我部元親らが挙ってこれに参戦した。

尾張の北部、小牧山城や犬山城を舞台に、羽柴秀吉軍との間で行なわれた所謂「小牧・長久手の戦い」である。

 

犬山城

犬山城

犬山城

 

犬山城

犬山城

犬山城

 

犬山城

犬山城

犬山城

 

犬山城

犬山城

犬山城

 

犬山城

犬山城

犬山城

 

 そんな中、織田家譜代の家臣だった池田恒興(つねおき)が、秀吉側に付き犬山城を占拠した。

知らせを聞いて家康も出陣、相対する小牧山城を占拠し、羽柴軍に対する供えを強化する。

大坂からは秀吉も大軍を引き連れて到着し、両軍睨みあいの膠着状況になる。

 

その後、こうした状況を打破すべく、池田恒興が秀吉にある作戦を持ち掛ける。

池田、森長可、堀秀政、羽柴秀次の4将が別動隊となり、家康の本拠地・岡崎城を攻撃するというものだ。

甥の秀次に武功を立てさせたいと、秀吉はこの作戦に乗り、約2万の兵をあてがい、ひそかに移動を開始する。

 

小牧山城

小牧山城

小牧山城

 

小牧山城

小牧山城

小牧山城

 

小牧山城

小牧山城

小牧山城

 

小牧山城

小牧山城

小牧山城

 

小牧山城

小牧山城

小牧山城

 

ところがこの動きは、家康方の忍びによって察知されてしまう。

家康は兵を二分し、凡そ9千を率いて4将を攻撃し、結果、池田、森が討ち死にし、秀次隊は潰走した。

この「長久手の戦い」で、4将の連合軍は、壊滅的な打撃を受けることになった。

 

この後、戦況は再び膠着する。

天正121584)年11月、突然秀吉が信雄に和睦を申し入れ、渡りの舟の信雄もこれを受諾する。

是により家康は梯子を外され、戦争を続ける大義名分を失い、撤退を余儀なくされることになる。

同年3月から、凡そ8ヶ月間におよんだ尾張を中心に起きた戦いは、これで終わりを迎えることとなった。

 

 

田県神社・大県神社

 

 犬山城や小牧山城からほど近いところに、一風変わった神社がある。

小牧市にある「田県(たがた)神社」と、犬山市にある「大縣(おおあがた)神社」である。

近年では外国にも広く知れ渡り、特に毎年三月に行われる祭りは、外国人の観光も多いという。

 

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