子を思う 母の心情 裁断橋

 

 熱田伝馬町の姥堂に、「裁断橋跡」の案内板が建てられている。

小田原の陣に参戦し、陣中で病死した堀尾金助とその母の逸話に所縁の地である。

説明によると「十八歳のわが子を亡くした母親は、その菩提を弔うため、この地の橋の架け替えを行った。

そして三十三回忌にあたり、再び橋の架け替えを発願した。

しかしその願いは叶わぬまま、母親は亡くなるが、その養子が意志を継ぎ、新たな橋を完成させた。」

 

その橋の擬宝珠には、子を思う母の心情が刻まれていたと言う。

「ほりをきん助と申す十八になりたる子をたたせてより、またふためとも見ざるかなしさのあまりに、

いまこのはしをかける成り、ははの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ。」

さらに、「後のよの又のちまで、此のかきつけを見る人は、念仏申給へや。」

 

この仮名書き銘文は多くの人々の感動を呼び、小学校の教科書に取り上げられた事もあった。

宮宿の東の外れを流れる精進川に架かる橋は、たちまち全国にその名を知られるようになったと言う。

その川は昭和元年に埋め立てられ、消滅したので橋は、三分の一に縮小しここに移された。

 

裁断橋

裁断橋

裁断橋

 

裁断橋

裁断橋

裁断橋

 

姥堂には「都々逸発祥地」の碑も建てられている。

都々逸は七七七五調を定型とする短詩、元々は三味線を伴奏にお座敷や寄席などで唄われる俗曲だ。

男女の情愛を表現した物が多いそうだ。

 

江戸は寛政121800)年に、宮宿の茶屋・鶏飯屋の女中、お亀とお仲が唄う潮来節の替え歌が始めという。

「ドドイツドドイツ」(「どいつじゃどいつじ」の説も有)と言う、独特の節回しにアレンジして唄った。

これが評判を呼び、広く江戸でも知られるようになり、この地がルーツとされている。

 

 

街道の古い道標

 

 裁断橋を越えると旧東海道は、その先で行き当たりのT字路になっている。

ここは宮宿の伝馬町から左折して神戸町へ向かう通りで、その先の七里の渡しを目指す中心的な場所であった。

目の前を南北に流れる国道247号線に遮られ、旧道が消滅し、今はその面影は全く感じる事が出来ない。

 

そのT字路に寛政21790)年に建てられた、東海道と各方面に向かう追分けを示す道標が残されている。

東は今来た東海道で江戸に向かい、南に取れば宮宿の中心で、「京いせ七里の渡し」だ。

北に向かえば、「なごやきそ道」「みの道」「さやつしま道」である。

 

古い道標

古い道標

古い道標

 

古い道標

古い道標

古い道標

 

名古屋城下に向かう美濃街道は、名古屋の先岐阜県の垂井宿まで行けばそこから中山道である。

木曽を抜け江戸に向かうか、京までなら関ヶ原を抜けるルートが出来ている。

 

「さやつしま道」は、今日の金山辺りから西に向かい、岩塚、万場、神守、佐屋の宿を経る6里の道である。

佐屋から桑名までは3里の木曽三川を下る舟渡しがあった。

船酔いを避ける者や、船内の治安を気にする女性などが、七里の渡しの迂回路として利用した陸路である。

 

古い道標

古い道標

古い道標

 

古い道標

古い道標

古い道標

 

又その地には「ほうろく地蔵」がある。

嘗てこの地には「上知我麻(かみちかま)神社」があった。

桶狭間の合戦の折進軍中の信長は、熱田神宮に戦勝祈願をし、桶狭間に向けて通った道でもある。

神宮で家臣が追いつき軍の揃うのを待ち、東方に上がる狼煙を確認した場所と伝えられている。

 

今この道は、「信長攻略 人生大逆転街道」として道標の整備が進められている。

信長の天下布武に向け、大きく飛躍した武運にあやかり、パワースポットと史跡を巡る道だ。

ルートは揚羽道(出世勝運ルート)、木瓜道(大願豪運ルート)、永楽道(恋愛勝運ルート)の三つがある。

 

古い道標

古い道標

古い道標

 

古い道標

古い道標

古い道標

 

旧東海道は古い道標の立つ三叉路で、その先を国道に遮られて消滅している。

右に折れ国道に出て、片側5車線の国道247号線を、神宮南歩道橋で渡り向こうに越える。

橋の上からは右手に、二町余り先の熱田神宮の濃い緑の森が望まれる。

 

「此の宿大に繁花なり家並みも美々しく 遊女も海道第一にして少しく江戸の風まねぶ」

 

精神川に架かる裁断橋を越えると伝馬町で、直ぐ左手に姥堂があり、ここから宮宿に入って行く。

この「宮」は熱田神宮を省略した言い方で、宿場の発展はこの神社に負うところが大きい。

その為熱田宿とも呼ばれ、熱田神宮の門前町であり宿場町であり、七里の渡しを控えた湊町でもあった。

 

尾張名古屋の城下町は、「ここから北に五十町(1里半)なり」と言われていた。

神宮前を経て、熱田台地(名古屋台地)の北端に築かれた名古屋城まで町並も続いていたと言う。

 


 

 

伝馬町の突当りに源大夫社(現「ほうろく地蔵」)あり、通りには旅篭、料理屋・茶屋や商家等が立ち並んでいた。

源大夫は、ヤマトタケルが東征の折家に泊め、我が娘である宮簀姫を娶らした地主神である。

後に東海道の守護神として、熱田の摂社に祀られることになる。

 

伝馬町を左に折れると神戸町で、町並は七里の渡し場へと続き、その先に熱田神宮の一の鳥居が立っていた。

これは広重の描く五十三次の天保版の宮宿図の通りで、東海道でも最大規模の町と言われている。

本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠の数は248軒を数え、戸数3,000軒、人口は10,000人を超えていた。

 

宿場には名物を商う茶店や土産の店が有り、庶民の泊まる木賃宿や、何軒もの旅籠が軒を連ねていた。

茶店では、暫し足を止め、身体を休め、名物に舌鼓を打ったり土産を漁る。

泊まり客は、留め女に袖を引かれ、浮かれつ旅籠を選び、飯盛り女や遊女に一夜の夢を見る楽しみがあった。

 

通りには飛脚問屋、奉行屋敷が並び、尾州藩の西御殿や東御殿等も威容を誇り建っていた。

突き当りは波止場で、舟会所があり、高札場が設けられていた。

 

宮(熱田)宿

宮(熱田)宿

宮(熱田)宿

 

宮(熱田)宿

宮(熱田)宿

宮(熱田)宿

 

宮(熱田)宿

宮(熱田)宿

宮(熱田)宿

 

宿場町に於ける旅篭は、ただ泊まるだけでは無く、歓楽の場としても知られていた。

飯盛り女の評判や、料金を細かく紹介する旅行案内書も当時は多く出回っていたようだ。

言わば幕府は、宿での売春を黙認していたわけである。

これは旅人だけでは無く、宿場近辺の男達の動向が、宿場経済に少なからず影響を与えていたからと考えられている。

 

時代が江戸から明治に変わると、富国強兵政策を進める政府は、全国の鉄道網の整備を急いだ。

旧街道に沿った鉄路の敷設を考えるが、是は思うようには進展しなかった。

計画を知った沿線の農民達から、強硬な反対の声が多数上がったためである。

 

機関車の音で牛馬が驚き乳の出が悪くなるとか、煙や煤で田畑が汚れるからとの声が上がった。

鉄道が通り駅を作れば、かつての街道筋や宿場町が廃ってしまうとの懸念から、強硬な意見も多かったらしい。

結果、線路と駅は、旧道沿いを捨て、宿場の中心を外し開発のし易い未開の地に設けられることが多かった。

しかし鉄道が開通し、駅が出来、人々の往来が増え、その利便性が衆目に知れ渡る事になる。

当然の結果とは言え、ここを中心に都市機能の集積が進み、後々には町の代表的な場所となる。

 

宮(熱田)宿

宮(熱田)宿

宮(熱田)宿

 

宮(熱田)宿

宮(熱田)宿

宮(熱田)宿

 

 賑わいを見せた宿場は、その反面ひっそりと寂れた町並に変貌し、廃れてしまったところも数多くある。

ビルや住宅等が町並を形成しているが、あれほど数を成した木賃宿や旅篭等の宿泊施設は今では殆ど見当たらない。

多くは戦災を受け、その後の都市計画で消滅し、或は宿泊業から撤退し、転職、廃業をしているからだ。

 

 旧宿場町に当たるこの地には、先の戦災で全て失い当時を思い起こすものは何もない。

本陣も脇本陣の位置も定かには解らず、200軒以上有った旅籠の遺構も、曲尺手や見附も何もかも存在しない。

 

そんな中、旧船着き場に面して建つ、嘗ての料亭「魚半」の建物が残されている。

建築時期こそ明治291896)年と新しいが、江戸当時の町屋の面影を良く残していると言う。

市の有形文化財の指定を受け、現在は老人向けグループホームとして使われている。

 

 

七里の渡し

 

慶長6(1601)年徳川家康は、江戸に幕府を開き、情報伝達の迅速化を目指し、直ちに伝馬制を制定した。

江戸と京の「道筋」を定め、「宿」を整備し、宿には馬36疋を置き運輸伝達に責任を持つことを命じている。

 

 この折発した伝馬朱印状は、写しを含めかなりの物が今日に残されているらしい。

桑名宛の伝馬定に「上口者四日市、下ハ宮へ船路之事」』(「中世の東海道を行く」榎原雅治2008年中央公論新社)

これにより熱田の宮から四日市までの舟渡しが、東海道の正式なルートとして定められた事が明らかになった。

 

その後七里の渡しは、宮宿と桑名宿を結ぶ東海道では唯一の海路・七里の渡しとなった。

渡船場には、大きな常夜灯が立ち、舟番所や浜御殿、本陣、舟奉行所などが軒を連ねていた。

湊には大名向けの豪華な御座船から、庶民の乗る帆掛け船まで、大小様々な渡し船が75艘用意されていた。

 

七里の渡し

七里の渡し

七里の渡し

 

 渡船は夜明けから日没前(午後4時頃という)にかけて運行されていたと言う。

距離が凡七里有りこう呼ばれているが、実際の航路は、潮の干満により大きく異なっていた。

干潮による外回りのコースを取ると、距離は十里にも及んだと言う。

標準的所要時間は4時間だが、潮の流れ風の具合にも作用され、2時間或は7時間も要したとも伝えられている。

 

 嘗ては、「何時でも舟を出しければ」であったが、由井正雪の乱以降は幕府のお触れにより夜間運航は禁止された。

また海の関所、舟番所では桑名へ渡る乗客の名を控えていたと言う。

今日で言う乗船名簿で、これが日本で最初のことでは・・、(「海上交通」愛知県史)と言われている。

 

七里の渡し

七里の渡し

七里の渡し

 

七里の渡し

七里の渡し

七里の渡し

 


その渡し賃は、時代によりかなりの変遷があったが、細かく定められていたようだ。

将軍や公家など高貴な身分の人は無賃、幕府などの公用旅行者は、お定めによる賃銭が決められていた。

一般庶民は、凡その三倍であったそうだ。

 

東海道中膝栗毛では、かの弥次さん喜多さんは、45文の船賃で乗り込んでいる。

時代にもよるが、一文は今の12円程度と言うから、540円ほどの船賃となるが、随分と安いようにも思う。

後には舟賃も上がり200文ほどになったと言うから、是は2500円程で、当時としては結構な額であろう。

 

 「この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ」

 

東海道でも重要な船渡しの場所であり、著名人の行き来も多く、記録も残されているらしい。

熱田の地を度々訪れた松尾芭蕉は、ここに幾つかの俳句を残している。

門人達と七里の渡しから、あゆち潟(「愛知」の地名の語源とされている)を舟で遊んだらしい。

ドイツ人医師シーボルトも再三利用し、その折地元の学生が教えを受けたと言う。

 

七里の渡し

七里の渡し

七里の渡し

 

七里の渡し

七里の渡し

七里の渡し

 

 七里の渡し場跡は、「宮の渡し公園」として整備されている。

運河のような水際はコンクリート壁で固められ、当時の海岸線を想像することは全く難しい。

辺りはすっかり埋め立てられ、海は後退し、その間近まで民家やマンションの建て並ぶ賑やかな町になっている。

 

寛永21625)年に建てられた常夜灯は、その後風水害で破損した。

その後位置を少しずらし再建されたが、それも火事で焼失、何時しか荒廃してしまった。

今目にするものは、昭和30年に復元・再建されたものだ。

この常夜灯に火が灯ると、翌日まで舟は出る事が無かったと言う。

 

 再現された鐘楼も建っている。

かつて熱田神宮の南にある蔵福寺の境内に有ったもので、是は戦災で焼失している。

旅人に舟出を、町人に時を告げたその鐘は、延宝(16764年尾張藩主の命により鋳造されたものだ。

この鐘は、戦災を免れ今も寺に残されているという。

 

七里の渡し

七里の渡し

七里の渡し

 

七里の渡し

七里の渡し

七里の渡し

 

 因みに、江戸時代の一般的な通貨に「両」「分」「朱」の金銀貨単位が有り、更に銅貨としての「文」があった。

一両が四分、一分が四朱で一両は十六朱となり、更に一両は四千文とされていた。

言い換えると一分は千文、一朱は二百五十文になる。

更に銀貨としての「匁」が有り、金一両は銀六十匁とされていた。

当時は相場が立っていて、これらは日常的に変化していたという。(「大江戸生活事情」石川英輔 1997年講談社)

 

当時の通貨が難解な四進法なのは、日常的な野菜等の買い物に「一文銭」「四文銭」が多く使われていたからだ。

ただ高級品や薬などは「銀○匁」の扱で、更に高い物は「○両」表示になっていたと言うから更にややこしい。

 



 

| ホーム | 東海道歩き旅 | このページの先頭 |

 

(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved.

 

 

 

inserted by FC2 system