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復活した? 鎌研の一里塚
池鯉鮒と東海道40番目の宿場・鳴海の宿間は二里半十二町(11.1q)だ。 途中に間の宿・有松が有るので、ここ出れば残りは一里弱(およそ3q)と近くなる。
箱根東坂の中頃にある畑宿も間の宿とされた町で、ここでは名産の寄せ木細工が旅人に持て囃されている。 行き交う旅人に土産を売る状況は、有松の絞り染めと同様であるが、畑宿にはもう一つの顔があった。
江戸を間近に控え、東国に不審者が入り込まないように、監視の役割が課されていたらしい。 徳川御三家の筆頭・尾張名古屋の城下町にも近い有松の役割はどうだったのか。 尾張藩との繋がりの強い土地柄だけに、もしやと思って見たりもするが、そこの所は良く分からない。
町を抜け暫く行くと名古屋高速第二環状道路の高架を潜る。 その下で名鉄名古屋本線の線路を越えると鎌研で、手越川に架かる鎌研橋を渡る。 丁度この辺りが、間の宿・有松の西の入口に当たる場所である。
嘗てはここに82番目の鎌研一里塚があったが、大正時代に払い下げられ民有地となり消滅したという。 近年高架の手前に、「有松一里塚」として復元されたと言う。 真新しい塚が、旧道を挟んで二基築かれ若木が植えられていたらしいが、見落としてしまった。
風光明媚な鳴海潟と鳴海宿
中世以降、東海道の吉田宿(現豊橋)以西のルートは、度々変更されてきた。 尾張・三河の支配者の存在、取分け信長・秀吉・家康らの支配地域の位置的な関係が大きく影響していたのだ。 又、海や山や川の、地勢的な要因も大きかったようだ。
尾張と美濃の境付近を流れる暴れ川、木曽三川の下流域では、当時の渡船や架橋の技術も大きく影響していた。 また鈴鹿山脈の峠越ルートは度々変わっていて、これまでには美濃周りのルートも多用されている。 急峻な鈴鹿峠を越えるより、比較的容易な関ヶ原を抜ける道が好まれていたようだ。 米原・関ヶ原は冬の積雪が多く通行に困難を来すが、現行の東海道ルートに比べると二日ほど行程が短縮される。
峠越もさることながら、今より大きく北に入り込んだ伊勢湾をどうのり越えるかも問題であった。 鎌倉時代、鳴海から笠寺を経て宮宿に至る辺りの伊勢湾は、鳴海潟と呼ばれる遠浅の海が深く入り込んでいた。 干満の差が大きい伊勢湾で、干潮時に出来る広大な干潟は、中世に於ける東海道では重要なルートとなっていた。
有松と共に、「絞り」で知られた鳴海宿の東の入口・平部町の角に、立派な常夜灯が残されている。 文化3(1806)年に設置されたもので、旅人や宿内の安全、火災厄除けなどを秋葉神社に祈願したものだ。
『此所、古は海近く鳴海潟を見渡して往来して、塩の満ちる時は右の方上野という野を行き通いけるとぞ。 浜辺を宵月の浜、又は呼続の浜とも言う。夜寒里、星崎、松風の里、皆並びて浦伝いなる』
「東海木曽両道道中懐宝図鑑」では、鳴海をこのように紹介している。 中世の頃の鳴海一帯は、これより更に北まで深く伊勢湾が入り込み、海に面した湊町として開けていた。 古くから数々の歌にも歌われた、風光明媚な鳴海潟が控える地で、鳴海も宮も潮待ちの宿と呼ばれていた。
昔から伊勢湾は、潮の干満の差が大きい事が知られていて、干潮時にはそこに広大な干潟が形成される。 中世の東海道は、潮の干満を見定めて、人も馬も干潟を渡り近道をしていたようだ。 干潟道は、距離凡50町(約5.5q 1町は109m)と言われ、これは後の東海道より一キロほど短くなっていた。 その為干潟を歩く旅人は鳴海や宮の宿で、干満の時刻を知り、潮待ちをした。
当時はまだまだ、庶民の多くが行き来をする時代では無い。 旅人の多くは公用の武官や、風流を求める文人墨客等で、皆一様に気長に潮の引くのを待っていたようだ。 浜千鳥の群れ飛ぶ姿を見、塩焼きの釜で働く浜子を眺め、潮風を受け、優雅に酒を酌み交わしながらである。
嘗ての鳴海町は、昭和38(1963)年名古屋市と合併し、緑区鳴海町となり、役場は緑区役所となった。 その近くには問屋場が有ったと言うが、無骨な役所があるだけでその痕跡は何も無い。 宿場は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒、戸数は847軒、人口は3,600人余りと伝えられている。 町並の長さは半里に及ぶ程の宿場で、ここも人口比では女性の方が多かったようようだ。
名鉄鳴海駅に至る道路の角・本町に松尾芭蕉ゆかりの誓願寺が有り、この辺りに本陣を務めた家があるらしい。 安政4(1857)年創業の菓子処・菊屋茂富のある角に、当時を窺い知る曲尺手が残されている。 しかし残念ながらその他には、当時を知る伝統的な建造物等は何も残されてはいない。 通りには連子格子の建物も二三見かけるものの、時代的には新しいらしく、旧街道の面影は何所にもない。
街道は作町の辺りで大きく右に回るが、恐らく当時はこの正面に伊勢湾が広がっていたのであろう。 嘗ての伊勢湾は、この辺りまで深く入り込んでいて、ここからは湾岸に沿った道が北に向け伸びていた。
鳴海宿の西の入口、丹下町にも立派な常夜灯が残されている。 寛政4(1792)年の設置と言うから、東入口の物より14年ほど早く建てられている。 こちらも秋葉大権現に、安全と火災厄除を祈願した物だ。 側面に「新馬中」と掘られていて、東入口にはない伝馬の馬方衆の安全を祈願しているところが面白い。
この右、住宅地の奥に見えるのが乙子山であろう。 ここには当地の氏神である、日本武尊を祭神とする成海神社が鎮座している。 鳴海を出れば、尾張の国最後の宿場町・宮(熱田)までは、1里半6町(約6.5q)の距離である。
中世の頃はより海に近い干潟を通っていたらしく、潮位により更に短縮したシーョトカット道もあったようだ。 今日ではすっかり住宅が埋まり、そんな街道のどこからも伊勢湾の海を見ることは出来ない。
北に向いていた東海道は、松ヶ根台の下三王山辺りで、西寄りに進路を変え天白川に架かる天白橋を越える。 嘗ては田畠橋と呼ばれる廿七間の板橋が掛けられていたという。 橋の上からは星崎城が見えたと言うが、城は今日の笠寺小学校辺りにあったらしい。 赤坪の郵便局を過ぎ300mほど行ったY字路に、大木が見えてくる。
市街地の住宅地を抜ける通りの分かれ道の角に、盛土の上に植えられたエノキである。 樹高約7.5m、幹周り約3mと言われるまでに成長し、四方に力強く枝を張り巡らせている。 地表に現われた太い根は、がっちりと塚を掴んでいるようで、強い生命力が伝わってくる。 とは言え、寄る年波には勝てないのか、数本の補助支柱で支えられているが何ともアンバランスで微笑ましい。
江戸から数えて88里目に当たる「笠寺の一里塚」である。 名古屋市内には一里塚が12カ所有ったらしいが、現存するのは唯一ここだけになってしまった。 大正時代には、道の西側にもムクノキが植えられた塚が残っていたらしいが、何時しか消滅したと言う。
玉照姫伝説の笠寺観音
街道はやがて笠寺の門前町に入ると、宮の宿まではあと一里余りを残す事となる。 この辺りを古くは笠寺村と言い、上り下り立場(旅人が休憩する場所)が有ったところだ。 「笠寺の一里塚」から400m程行くと街道の先に緑濃い森の中に建つ、笠寺の山門(仁王門)が見えてくる。
笠寺は、正式には「天林山笠覆(りゅうふく)寺」という真言宗智山派のお寺だ。 天平8(736)年の開基という古刹は、当初は小松寺と称していた。
案内板にはその縁起が、このように書かれている。「ある日、呼続の浜に一本の木が打ち上がった。 その木は夜になると不思議な光を放つことから、村人は霊木として恐れたと言う。 そんな折僧・善光上人は夢のお告げを受け、霊木を削り、十一面観世音菩薩とし、堂を造り本尊として安置した」
それが「小松寺」であるが、建立から百数十年の時が過ぎ、寺は何時しか荒廃する。 そんな折、鳴海に一人の娘が住んでいた。その謂れが続けて書かれている。
「ある雨の日、ずぶ濡れになった観音様を見て可哀想に思った娘は、自分が被っていた笠をとり観音様にかぶせた。 後日鳴海を訪れ、このことを知った中将・藤原兼平公がその優しい心に引かれ、妻として迎えることになった。 この妻は「玉照姫」と呼ばれるようになった。」 この縁により夫婦はこの地の荒れていた「小松寺」にお堂を建て、笠を被った観音様をお祀りした。
一時荒廃した寺は、紆余曲折が有り鎌倉時代には諸堂や塔が建立され、「笠覆寺」として復興した。 その後、寺が更に繁栄をするきっかけに成ったのは、名古屋城を築城した徳川家康が鎮護寺と定めた事による。 家康は、荒子観音(中川区)、甚目寺観音(あま市)、竜泉寺観音(守山区)と当寺の四ケ寺を指定した。 城を中心に鬼門の方角にある寺々で、これが所謂「尾張四観音」である。
街道から外れ、池に架かる石の太鼓橋を渡る。 余り広くは無い池には亀が沢山飼われていて(?・棲んでいて)餌が販売されている。 池の水を汚さないために、餌を販売しているのだと言う。
仁王門を潜ると正面に本堂が建っている、江戸時代に建てられたもので、市の文化財の指定を受けている。 本堂の周りには、「南無十一面観世音菩薩」と書かれた赤い幟旗が幾本も並び立っている。 その横には、「玉照姫・兼平公御夫婦」と書かれた白い幟旗が負けじと立つ、玉照姫所縁のお堂がある。 本堂の軒下には白い幕が掛けられていて、寺紋で有ろうか市女笠が描かれている。
境内には本堂を中心に多宝塔、芭蕉の句碑、宮本武蔵の供養碑、キリシタン灯籠等が古色を見せて佇んでいる。 山門近くに鐘楼があり、そこに吊された梵鐘は、県の文化財に指定された由緒あるものだ。
寺は、「名古屋十名所」の一つで、その記念の石柱が本堂前に誇らしげに立てられている。 因みにこれは、大正時代に地元の新聞社が主催して行った、人気投票で選ばれた市内十の名所である。 熱田神宮や、名古屋城、円頓寺等がランクインし、笠寺は第三位であった。
今では縁結びの御利益が有名な寺として知られている。 又、節分の恵方に当たる年の豆まきは、特に賑やかに、盛大に開催されるという。 名古屋城から見て、その年の神様がいる恵方に一番近い寺にお参りすると、御利益があるとされているからだ。
名古屋には「なごや七福神巡り」というのも有る。 興正寺の寿老人、大須観音の布袋尊、辯寺の天辯才天等で、笠寺はその内恵比寿を祀る寺でもある。 大晦日には、尾張三名鐘の一つと言う鐘が、除夜の鐘として一般にも公開され、鳴り響くという。
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