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境川の継ぎ橋
「うち渡す尾張の国の境橋 これやにかわの継ぎ目なるらん」
境川に架かる境橋を渡ると三河と尾張の国境で、渡り終えると緑地に藤原朝臣光広の歌碑が立っていた。 説明板によると「東海道に伝馬制が設けられて程無い頃、両国の立ち会いの下この川に橋が架けられた」とある。 「川の中州を挟んで東側には土橋が、西側には板橋が架けられた。 橋は度々洪水で流され修復を重ねたが、やがて継ぎ橋は一本の橋となり、明治には欄干付きの橋に改修された」。
幕府は江戸の治安維持の目的で、河川に橋を架けることを厳しく制限していた。 その為、貴人や高官が往来するような場合、橋の無い川には臨時に舟橋が渡されることもあったようだ。 とは言え架橋の禁止は、戦略的に重要な大河に限った事で、小さな川には殆ど橋が架けられていた。
橋脚を立てそこに材木を渡し、その上に丸太を隙間無く並べ、更にその上に土をかぶせる。 こうすると丸太と丸太の間に土が入り込み、踏み固められ歩きやすくなる。 これが土橋で、街道に架かる殆どはこうした簡略な土橋であったようだ。
一方、木橋とか板橋と言われるものも架けられていた。 文字通り板や丸太を何本か渡し、くさびを打って繋ぎ、幅を稼いだだけの粗末な橋だが、有れば良い方である。 橋のない川では飛び石のように配置された石を渡り、それすらない川では足を濡らしながら浅瀬を渡った。 当時の旅人にとっては、土橋や板橋の存在は大層ありがたいものであった。
中京競馬場
境橋を渡り国道1号線を歩き、名鉄名古屋本線の「中京競馬場前駅」にやってきた。 名古屋市の東に隣接する豊明市には、中京競馬場の前身である国営の競馬場が開設された。 昭和28(1953)年8月のことで、第一回の国営競馬もこの年に開催されている。
開業に先立つ一ヶ月前、名古屋市の南の端に、その最寄り駅として名鉄・名古屋本線の新駅が開業した。 この「中京競馬場前」駅で、競馬場の入場門までは徒歩10分ほどの距離があったそうだ。 今日では、駅を出ると競馬場までは屋根付きの遊歩道が設けられている。
この地は桶狭間と言われる地で、嘗ては山間で何も無く、寂しいところで有った。 知多半島の付け根付近、豊明から名古屋市南区にまたがる、緩やかな起伏に富んだ有松丘陵の一画だ。 周辺には、灌漑の水を得るため池や沼地、深田が散見される地域でもある。 今では名古屋市のベッドタウンとして住宅地が広がり、国道1号線が抜けるその駅前も賑やかだ。
そんな地の、この駅より西方200m程離れたところに、愛知電気鉄道の「桶狭間駅」が存在した。 名鉄の社史によるとこの駅の開業は、昭和6(1931)年で、どういう訳かその僅か三年後には廃止されている。 愛知電気鉄道と名岐鉄道が合併し、「名古屋鉄道」と社名を変更する一年前の事だ。
旧東海道は、名鉄「中京競馬場前駅」の手前で国道1号線に合流する。 ガードを抜けると、「桶狭間古戦場 100m」、「桶狭間古戦場まつり」の開催を告げる案内板が見えてくる。 この駅は、有名な古戦場巡りの最寄り駅にもなっている。
桶狭間 古戦場の亡霊
桶狭間という地名は、限られた地の固有名詞ではなく、漠として広がるこの辺り一帯を言うらしい。 その地名を一躍有名にしたのが、「桶狭間の合戦」で、戦いは広い範囲で散発的に行われていたと言う。 上洛を目指す今川義元の大軍を、この地に迎え入れた織田信長がその野望を打ち砕いた戦でもあった。
案内板に従い国道を左折し、坂道を100m程上って行く。 すると左手に、緑も濃い「史跡桶狭間古戦場跡」の石碑が建つ史跡公園が現われた。 歴史の重要な転換点となった「桶狭間の合戦」が行われた、「国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地」である。 今川義元はここで織田信長に襲われ、戦死したと伝えら、その弔いが古くからここでは行われてきた。
一帯は田楽狭間、或は舘狭間とも呼ばれた地であるが、古戦場がどこであったかは異説もあるらしい。 両軍併せて3万人にも及ぶ軍勢が入り乱れ、彼方此方で刃を交わした戦である。 古戦場となると特定の場所だけとは行かず、昔から議論が行われているが、その比定は未だ出来てはいない。 故にここも「古戦場伝説地」となっている。
時は戦乱の世、全国の大名達は国の統一を目指し、しのぎを削っていた。 勢力を得て常に近隣地へ侵攻し領土を拡大し、やがては天下国家の支配をと虎視眈々と狙い野望を燃やしていた。 駿河の今川義元もその一人で、永禄3(1560)年上洛を目指し、遠江・三河の二万五千の大軍を率いて進軍した。
尾張に攻め込んだ義元は、5月19日朝、五千の兵で沓掛城を出て大高城に向けて軍を起こした。 早朝清須城でこの知らせを聞いた尾張の織田信長は、僅か六騎の股肱の臣を率いただけで城を出る。 途中熱田神宮に立ち寄り、戦勝祈願を行う頃には、ようやく軍勢は1000人ほどとなっていた。
尾張方の先方隊300騎は、その頃早くも善照寺砦から出陣し、当日昼頃今川軍と刃を交えている。 しかし多勢に無勢で勝負は明らか、今川軍の勝利に終わる。 田楽狭間で勝利を聞いた義元は、輿から降り松林を本陣として勝利の宴を始めた。
一方、大将ケ根で人数待ち待機をする信長軍は、ようやく3000人ほどに膨らんでいた。 折しも西北の空には暗雲が巻起こり、激しい雷雨となる。 これに乗じて進軍した信長軍は、雨上がりの午後2時、すっかり寛いで緊張感も緩い今川本陣を急襲した。 油断した今川軍も応戦するが、周辺の深田に足を取られ力尽き、逃げることもままならず総崩れとなる。
敢えなく負けた義元は、首を掻かれ信長により首実検されるも、首は後に駿河に返されることになった。 一方首のない胴体は、敗退する今川の家来により駿河に連れ帰える事になる。 しかし時期的にも想像以上に腐敗が早く、仕方なく途中今の豊川市辺りで葬られている。
戦では今川軍には2500人、織田軍には830人程の戦死者が出たとされている。 無念の戦死を遂げた兵士も多かったのであろう。 その後古戦場周辺には、夜な夜な白い衣を着た兵士の亡霊が、この辺りを走り回るとの噂が立つ様になる。
後の世に、供養の七石表が建てられたのは、明和8(1771)年の事である。 一号碑には「今川上総介義元戦死所」と刻まれ、義元の戦死した場所を示している。 二号碑は松井宗信、三号碑以下は義元の五人の武将の戦死した場所とされている。
文化6(1806)年には、「桶狭間弔古碑」が建立されている。 更に嘉永6(1853)年、尾張藩士が塚を築き地蔵尊を建立し手厚い法要を催した。
この「桶狭間古戦場伝説地」には、「義元の墓」と言われる石塔も有る。 明治に入って直ぐの頃、地元の篤志家が墓として建てたものだが、ここに義元の遺体は埋葬されてはいない。 この墓には遺体の代わりに、古戦場を走り回っていた、行き場のない霊が祭られた。 その後古戦場を走り回る白い衣の亡霊は、現われなくなったという。
この日公園では「桶狭間古戦場まつり」と言うイベントが開催中であった。 ボランティアスタッフが詰め、資料や古い写真等を手に、訪れる人々の案内をしていた。 スタッフが見せてくれた一枚には、愛知電気鉄道の簡素な作りの、幻の「桶狭間駅」が写っていた。 昭和16(1941)年に県によって建てられた「古戦場跡の石碑」の写真もあった。 驚くほど何もない荒んだ地で、公園として整備される以前の物らしく、石碑だけが寂しげに立っている。
史跡公園とは道路を隔てた反対側に、高野山から移転した高徳院というお寺がある。 桶狭間の一帯では、近年でも道路や建築の工事などで地面を掘り起こすと、地下から鎧や刀などが出土する。 土地の人々は、こうしたものを高徳院に持ち込んでくると言う。 桶狭間合戦の戦没者やこうしたものを供養すると同時に、当地での布教のためここに寺が出来たそうだ。
絞り商いで繁昌した間の宿・有松
間の宿は宿場間の距離が長い場合や、峠越え川越え等難所に臨む地などに便宜上設けられた休憩の場である。 従って宿とは言え、この地で宿泊は原則は許されてはいなかった。 知立から鳴海の間が2里半12丁(およそ11q)もある事から、有松に間の宿が開かれた。
信長が軍勢を整えたとされる大将ケ根(たいしょうがね)の交差点で国道を離れ、旧道に入り込む。 藍染川に架かる松の根橋を渡ると、その先に落ち着いた平入りの町並が現われる。 名鉄有松駅の南を抜ける旧東海道筋は、駅を中心に東西800m程の間の電柱が地中化され、通りに豪邸が建ち並ぶ。 国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された通りは、車も一方通行に規制されている。
「鳴海より一里ばかり東にあり。細き木綿を風流に絞りて、紅藍に染めて商うなり。この市店十余軒あり。」 このように言われた有松村は、次の鳴海村と共に、400年近い伝統の「絞り」が知られた土地柄だ。 安藤広重の東海道五十三次では、「鳴海 名物有松絞」の画として、鳴海宿ではなくこの有松が描かれている。 街道に有松絞の店が二軒、店先には絞り染めの布地が飾られ、駕籠や馬で街道を行き交う旅人が描かれている。 旅の女性が笠を持ち上げ、欲しげに眺める様子が印象的な画である。
絞りとは、木綿を糸で括って多くは藍で染め、その括り方により様々な模様を描く技法である。 有松は全国一の「絞り染め」の産地で、昭和50(1975)年には、国の伝統的工芸品に指定されている。 「江戸時代の情緒に触れる絞りの産地〜藍染が風に揺れる町 有松〜」として、「日本遺産」にも認定された。
絞りは、今でこそ高級品のイメージが定着している。 だが江戸時代には手ぬぐいや浴衣に加工され、東海道を旅する人々の土産として人気を博していたらし。 十返舎一九の描く、かの弥次さん北さんも二尺五寸の手ぬぐいを当地で買い求めている。
東海道筋とは言え、この辺りは人家も乏しく耕地の少ない地であった。 尾張藩は治安の維持も有り、諸役を免除する条件でこの地への移住を奨励し、産業の開発を進めたと言う。 しかし移り住んだものの、開発の乏しい地では、農業だけでは生きても行けなかったらしい。 そこで副業として工夫されたのが、この絞り染めであった。 ヒントは名古屋城築城普請の手伝いに来ていた豊後の人たちの着衣と伝えられている。
藩は保護のため他所での製造を禁じ、問屋の戸数を限定し、営業の独占権を与える等の庇護をした。 こうして伝統の技術で作られる商品は大層な人気を呼び、町は栄え、商人は財を成すことになる。 それは、「田舎に京の有松」と謳われるほどの繁栄であったと言われている。
有松の絞り商の栄華の歴史は、街道沿いに建つ今日に残された商家群を見ると良く解る。 絞り商は東海道を旅する旅人に、店頭販売を行うため主屋を街道に面して建て、広い間口を解放していた。 その主屋は木造二階建て、切妻桟瓦葺で、平入りを基本としたため、是が統一感のある町並となった。 通りには、卯建の上がる重厚な日本家屋が連なり、見応な家並みが続いている。
有松の町は天明の大火で、悉く茅葺きの町屋を焼失する災難に見舞われた。 藩の援助を受けた復興に際して、建物は火災に強い防火を考慮した建物に建て替えられた。 屋根は桟瓦葺きとし、壁は漆喰等を塗り込んだ塗籠造りに改めた。 隣屋と接する屋根には、延焼防止の卯建を設けて町の再建を果たした。
その代表が、県指定文化財の服部邸(井桁屋)である。 母屋の二階は黒漆喰の塗り籠め造りで虫籠窓をはめ、屋根には瓦葺きの立派な卯建を上げている。 隣接する蔵は土蔵造りで、白漆喰の塗り籠め、腰回りは海鼠壁である。 江戸時代末期から明治元年までに建てられたものらしく、当時の姿を留める、有松を代表する建物群だという。
岡家住宅は、名古屋市指定の有形文化財である。 一階は連子格子と海鼠壁、二階は虫籠窓の塗り籠め造りの建物で、江戸時代末期に建てられたものらしい。 重厚で特徴的な建物は、有松の絞り問屋の建築形態を良く残していると言われている。
他にも小塚家、竹田家、中濱家などの住宅や蔵が有り、黒を基調とした重厚な作りは見応え充分だ。 それらの建物は江戸から明治を経て、昭和の時代に到る間に二階の高さが段々に高くなっているのが特徴という。
通りには白い土蔵造りの「有松山車会館」がある。 毎年10月の「有松天満社秋季大祭」で引かれる、からくり人形を乗せた豪華な山車が一台ずつ展示されている。 また当地では、毎年6月第一土・日曜日に、「有松絞り祭」が開催されている。
絞りの歴史や技術等は町並の中にある「有松鳴海絞り会館」で知ることが出来る。 実物の展示やビデオの上映が有り、二人の職人の「くくり絞り」の実演なども有り、わかりやすく解説している。 体験教室の開催も有り、伝統の逸品から各種雑貨まで展示即売も行われている。
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