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予科練の地
矢作橋を渡り暫く旧街道を歩いた後は、国道1号線に出て単調な歩きを続ける。 左側を走る名鉄の宇頭駅を過ぎた先の尾崎東で、国道1号線を外れ右の旧道へと入りこむ。 道なりに暫く行くと右手に「村社 熊野神社」の緑濃い森が見えてくる。
街道沿いに常夜灯が立ち、並んで「予科練の碑」、「元第一岡崎海軍航空隊配置図」の案内板等が建っていた。 それによると、この地で飛行予科訓練生の即戦力養成を行っていたと言う。 戦局の芳しくない昭和19年2月、戦力の画期的な増強を目論見、海軍はこの地に練習航空隊を設置した。
全国各地から選別し集められた若者・訓練生の数は、およそ六千名に上ったとされている。 日夜の別なく厳しい訓練を受けた結果、各地の航空隊へ実務練習生として派遣されて行ったという。 恐らくその地から、勝ち目のない戦の、特攻隊として玉砕すべく飛び立って行ったのであろう。
現在当地の三菱自動車の工場がある辺りにも、東西に長大な滑走路が貫いていたらしい。 この岡崎から安城、豊田の各市に跨がる航空隊の広大な地も、元々は開墾された田畑等が転用されたものである。 昭和20年戦争に負け、日本はポツタム宣言を受け無条件降伏した。 同隊は直ちに解体され、施設は閉鎖、跡地は元の美田に戻すべく再開発されることになる。
「村社 熊野神社」の境内前には、「鎌倉街道遺跡」、「尾崎の一里塚」などの案内板も建てられている。 鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に63駅を定めた鎌倉街道が設置された。 その街道がこの神社の森を通り抜けていたという。
永安寺の「雲龍の松」
そこから数百mほど西進した宇頭町は、嘗て大浜茶屋村と呼ばれた地で、昔上り下りの立場が有った所だ。 江戸(東京)行幸される明治天皇も、ここで休憩されている。 その先に「本然山 永安寺」と言う寺院があり、境内に見事な松が生えている。
寺は村の庄屋であった柴田助太夫の旧宅跡に、草庵として建立されたものだ。 彼の死後、本人とその妻の戒名から、「永安寺」と名付けられ、曹洞宗のお寺となったのだそうだ。 松は県の天然記念物に指定されていて、樹齢350年の「雲龍の松」である。 幹が垂直に延びず背丈ほどのところから曲がり、地面に沿うように四方に枝を伸ばしている。
助郷制度は、人馬などが伝馬制で定める基準数に満たない場合、周辺の村から不足分を雇い入れる制度である。 大名等の対応で、多くの人馬を必要とする場合、宿場だけでは不足することが有り、こうした場合に課せられた。 賃銀は支払われるが安くて、助郷の村々から見れば、宿場の困窮を転嫁されるだけの制度として甚だ不評であった。
当地の庄屋・助太夫は、こうした農民の窮状を訴え、制度免除を願い出たが、藩は彼を不届きとして死罪とした。 この経緯もあり、後に村の助郷役は免除になり、救済されるようになった。 村では領主が交替する度に、助太夫の一件を説明し、幕末期まで免除を続ける事が出来たという。 農民がそんな庄屋の厚恩に感謝し、建立したのがこの草庵と言われている。
日本のデンマーク
嘗ては、「日本のデンマーク」と言われたところがあった。 岡崎から安城、さらに豊田に跨る岡崎平野一帯は、大正末期から昭和初期にかけて、このように呼ばれていた。 農業や酪農が盛んで、気候風土も似ていることから、農業先進国のデンマークになぞらえた。 その発展のベースになったのが、明治用水の開通による水の供給と大規模な開墾である。
永安寺から先に行くと、左側に明治川神社があり、その角に明治用水の碑が立っている。 神社には明治用水の開設に関わった4人の功労者も祀られている。 用水は西三河地方の農業や工業に必要な水を供給するためで、江戸天明年間に計画された。 その後土地の有力者等に代々引き継がれ、百年近い歳月を掛けて完成したものだ。
これにより約1万町歩の灌漑に成功し、農業の多角化に寄与したと言われている。 この明治用水と安城市の日本のデンマークは、成功事例として小学校か中学校の教科書で習った記憶がある。 今ではその用水は地下に潜り、強化プラスチックの管となりこの道路の下を流れている。
次の宿場・池鯉鮒に向かう旧街道沿いには、まだ所々に松並木が残されている。 愛知県内の街道沿いには、このように松並木の残されているところは、意外に多いように思われる。 そんな並木に導かれ、猿渡川に架かる猿渡川橋を渡る。 その先の来迎寺町の交差点の角に、元禄時代に建てられたという、古い道標が立っている。
カキツバタと来迎寺一里塚
「従是四丁半北 八橋 業平作観音有り」
奈良時代に創建された臨済宗のお寺、在原業平所縁の無量寿寺へ導く、追分けに立てられたものだ。 寺の境内には杜若池を巡る回遊式の庭園が有り、本堂の裏手には、八橋カキツバタ園が広がっているそうだ。 カキツバタは知立市の花として親しまれ、見頃を迎える4月末から5月下旬頃には、毎年「かきつばた祭」が行われる。 街道筋にもそののぼり旗が幾本も立っていた。
ここ八橋村一帯は、昔からカキツバタの群生地として有名であった。 この地を訪れ木陰で食事をした在原業平が、「伊勢物語」の中で、カキツバタの五文字を読み込んだ詩を創った。 それが世に知れ渡り、以来当地はカキツバタの名所となった。
その道路を隔てた反対側に来迎寺公園が有り、来迎寺一里塚跡がある。 一般的な塚は榎が多いが、この塚は昔から松が植えられていたと言い、今もその後継が丈を伸ばしている。 塚の直径は約11m、高さ約3mの土盛りが両側に築かれていた。
国道1号線は、その先で衣浦豊田道路(国道419号線)の高架の下をくぐり抜ける。 それに沿って進む旧街道は、高架の下を横断歩道橋で国道を跨いでいく。
その少し手前に、「農村と都市のふれあう緑あふれる用水の道」「明治用水西井筋緑道」の看板が立っている。 丁度この辺りの道路下に管路化された明治用水が埋められていて、その上部の筋が緑道遊歩道化されているのだ。 管の直径は180pも有り、豊田・安城・知立・刈谷に跨がる全長14.3qの水路らしい。
首夏・馬市
横断歩道橋の先は、「並木八丁」と呼ばれる池鯉鮒宿の東の外れで、見事な松並木が残されていた。 公園風に整備された松並木の緑地には遊歩道が延び、至る所にモニュメントや案内板が飾られている。 この道は、「新日本歩く道百選」に選ばれた「宿場散歩道」を構成する一部となっている。
つい近年までこの付近には1qに及ぶ松並が残されていたらしいが、住宅の建設などで今では450m程に半減した。 追い打ちをかけたのが伊勢湾台風で、多くの大木が根こそぎなぎ倒されてしまったそうだ。 その後若木などを補植し、ようやく今日の姿に甦ったと言う。
「かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく 蝶つばめ 馬市たてしあととめて」(麦人)
丁度この辺りが引馬野と呼ばれる地で、広重の「池鯉鮒 首夏馬市」で描かれた、馬市のあった辺りらしい。 「馬市の碑」と「馬市の句碑」が立てられている。
首夏というのは、初夏のことだ。 調度その頃に当る毎年4月の末から5月初めにかけ、ここでは盛大な馬市が開かれていた。 遠くは甲斐国や信濃国などから、数百頭の馬が集められ、取引されていたという。 この側道を持つ松並木は、馬を繋ぎ、留め置く為でもあったようだ。
「駅中大いに賑わい、諸品の市店をかざりて、近国より馬方馬長集まること多し」 「四方より馬を出し うり買いする也」 馬市が開かれると、このように伝えられる程、馬の売り買いの関係者や出店で賑わいを見せたようだ。
「処方より傾城多く集まり、市立ての人契る」 市には人手を当て込んだ遊女や、それ目当ての人も多く繰り出した。 中にはすっかり遊女に入れ込んで、折角手にした売買の代金をなくす者もいたそうだ。
池鯉鮒宿
「町の右の方に長き池有り 神の池なり、鯉、鮒多し 依って名とす」
松並木を抜け、途中右にカーブする国道1号線と分かれ、左の旧道に入り込む。 その先で名鉄三河線を越えて、西三河では比較的大きく賑やかな知立の町の中心部に入ってきた。 当地は、古来「知立」或は「智立」と書き、江戸時代には「池鯉鮒」になり、今日は「知立」と書かれている。 池鯉鮒の謂れとなった池の所在は、三河の国の二の宮、池鯉鮒大明神(知立神社)で、宿場の西外れにあると言う。
「知立」は、東海道の39番目の宿場町で、三河の国ではここが最後の宿で有る。 宿内には本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は35軒で、戸数は292軒、人口が1,600人余りだ。 馬市が開かれると、大いに賑わったと言うが、宿場の規模としては左程大きくはなく旅籠の数も決して多くはない。
馬市で多くの人が集まるとは言え、年一回一ヶ月間程の開催では一年分を稼ぎ出すとまでは行かなかったようだ。 馬市の会場で馬喰は、馬を繋ぎ止める側道で、手塩にかけた馬と共に別れの日まで野宿でもしていたのであろう。
知立名物と言えば、「大あんまき」が知られている。 江戸の頃からこの辺りでは麦の栽培が盛んで、その小麦粉を溶いて延ばして焼いていた。 それに畑で取れた小豆で作った塩あんを乗せ、二つ折りにして食べていたのが始まりだという。 その後、知立神社の参拝客の休憩時のお茶請けや土産として出していたそうだ。
今ではバリエーションも豊富になった。 黒あん、白あん、カスタード、栗あん、抹茶あんなど多彩で、若い人向けなのか、衣を付け油で揚げたものまである。 近頃では、東海道線豊橋駅の改札口近くに出店も有り、時間にも依るが手に入る。
知立宿への道すがら、街道筋の「大あんまき」を売る店の存在を気にかけてここまでやって来た。 しかし、店を見付けることが出来ず、残念ながら懐かしい味に出会うことは叶わなかった。 国道1号線まで足を延ばせば「大あんまきの藤田屋」の本店が有る。 名鉄知立駅の近くにも売店はあると聞かされていたが、流石にそこまで足を延ばす元気は残っていない。 知立神社の参道にも、「小松屋本家」の店があるらしいが、神社には立ち寄らなかったのでここも見逃してしまった。 ここは明治22(1889)年頃から販売を初め、元祖を名乗っている。
国道を越え逢妻川に行き当たり、「出口池鯉鮒大橋、土橋七間斗」と言われた逢妻橋を渡る。 ここら辺りが知立の出口に当たる場所であろう。 その先が一里山で、かつて一里塚があったが今では場所の特定が出来ていないという。 所々で国道1号線を歩き、今川町の交差点で右の旧道に入り込み、敷島製パンの刈谷工場の前を通り過ぎる。 少し坂を上り境川に架かる「境橋」を渡る。
「うち渡す尾張の国の境橋 これやにわかの 継ぎ目なるらん」(藤原朝臣光廣)
当時は川に中州が有り、それを挟んで東側には土橋が、西側には板橋がかけられていたらしい。 粗末な橋で、洪水の度に流されてしまっていたが、やがてこの継ぎ橋は一続きの土橋に修復されたと言う。 川は今でも刈谷市と豊明市の境になっていて、三河の国はこれで終わり、橋を渡れば尾張の国へと入っていく。 最初の宿場・鳴海へは、二里半十二町(およそ11.1q)の長丁場が待っている。
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