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家康の窮地を救った洞窟 山中八幡宮
赤坂宿の陣屋跡を過ぎ西の見附を出ると、街道は2里9町(およそ8.8q)先の藤川宿へと向かう。 ここから先は、旧東海道、国道1号線、名古屋鉄道名古屋本線、東名高速道路の付かず離れずの関係が続く。 これらの幹線は、山に挟まれた狭い平地に入り乱れ、縺れるように西に向けて進んでいく。
山綱川に架かる舞木橋を渡り、国道1号線に合流する地で「山中八幡宮」を遙拝する。 左手にこんもりとした小高い山・円山が見え、その麓に赤い鳥居が立っている。 社領150石の舞木八幡宮、現在の山中八幡宮で、徳川家康の父・広忠が焼失後再建した家康にも所縁の宮である。
家康は永禄6(1563)年、三河一向一揆の戦いで敗れて逃走中、この神社の洞窟に隠れた。 追っ手の兵がこの前に来ると、突然洞窟から二羽の白鳩が飛び立った。 「人のいるところから鳩は飛ばない」と判断した兵は、中を調べることもなく立ち去り、家康は難を逃れた。 以来この洞窟を「鳩が窟」と呼ぶようになった。
背後の山を含め山中古城の跡で、木立の生い茂る古びた階を上り詰めると社殿があるらしい。 歴史好きには興味津々では有るが、疲れ果てた足には立ち寄る元気も、そんな余裕も全く無い。 由緒書きを読み偲ぶのみである。
赤坂宿を出て単調で退屈な国道の歩道歩きを続けてきた。 「道の駅・藤川宿」の案内板を見かける辺りで、ようやく宿場が近づいて来た。
大きな工場の前を通り、国道を離れ直進して左の旧道に入り込み、少し西進するとY字路に出会う。 左側が緑地帯になっていて、正面に大きな藤川宿の案内板が立っている。 そこで旧道は右に緩くカーブするが、左側には路地のような狭い幅の道が真っ直ぐに伸びている。 どうやらここが藤川宿の入り口らしい。
道路脇の緑地帯は、藤川宿の所謂東の入口に当たる棒鼻で、ここは見附である。 むかしはこの地を「宇治川の里」と呼んだ時期があったらしい。 この辺りでは周りの藤の花が余りにも見事で綺麗なことから、何時しか藤川と呼ばれるようになったのだそうだ。
「棒鼻」は「棒端」とも書き、「ぼうばな」とも「ぼうはな」とも読み、元々は駕籠のかき棒の先端のことだ。 宿場の境界地に「是より○○宿」などと書かれ、立てられた木製の木杭で、榜示杭のことである。 大名行列などは宿場に入る直前に、この場所で先頭(棒先)の隊列を整えたことから、こう呼ばれるようになった。
広重は「藤川 棒鼻ノ図」で、傍示杭の立てられた場所を描いている。 幕府から朝廷に寄進する八朔(旧暦8月)の御馬進献の一行を、正装をした村役人が下座して出迎える様子だ。 広重は「平塚 縄手道」でも傍示杭を描いている。 何れの画も人の背丈を遙かに超えるものが描かれており、可成り丈の長い木杭が立てられていたと考えられている。 幕末の頃には石柱に代えられたものも有ったらしいが、多くが木製のため、現存するものが無いという。 従って、その大きさは浮世絵などから想像するより他ない。
画では傍示杭の前後には柵を巡らした宿囲い土塁、高札も描かれているので、ここが見附の高札場と解る。 この緑地には、傍示杭の横に立つ二本の高札と、柵を巡らした土塁がこの画を元に再現されている。 東海道37番目の宿場・藤川は、この先の曲尺手を通り、宿内へと入っていく。
甦るむらさき麦 藤川宿
クランク状に曲がる道を「曲尺手」と書いて、「かねんて」と呼び、どの宿場内にも何カ所か造られていた。 幕府にとって元々街道は、軍事的な目的のある道で、外敵が宿場に容易に侵入しないための策である。 今なら車の為に可能な限り広く直線でとなるが、当時は全く逆で、狭く何度も曲げ江戸侵攻を防いでいる。
又参勤交代が制度化されて以降は、行き交う大名同士が宿内でかち合わないようにする工夫等とも言われている。 更に街道の距離を意図的に延ばし、人を多く住まわせる効果をも狙ったものとも考えられている。 このように、クランク状の街道には、その様々な目的が推測・憶測を交えて伝えられている。
再現された東の棒鼻の左側に細い道がまっ直ぐに延びていて、そこを直進すると、その先が曲尺手である。 右に折れ更に左に折れて町中に入っていくが、その入口に寛政年間に建立された秋葉山の常夜灯が残されている。 その先は真っ直ぐに宿場町らしい町並の旧街道が続いている。
「藤川のしゅくの 棒ばなみわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」
当時はこの棒鼻から宿内を見わたすと、店先にはうで(ゆで)た蛸の足がぶら下がり売られていたようだ。 「杉のしるし」は酒屋の店先の杉玉のことかと思ったが、杉の木で出来たどうやら榜示杭のことだ。 「蛸の足」は下がる様で、当地の名物である藤の花を暗示しているらしい。
宿場は本陣、脇本陣各1軒、旅籠36軒、戸数300余軒、人口1,200人余りと言う。 規模的には御油や赤坂と同程度の宿場町で、この宿も「遊女」が多く、相場は他の宿と同じ500文であったらしい。
江戸時代の貨幣価値は時代により変るが、一般的には一両は10万円程と言われている。 (判断基準が複雑で、20万円とする説など色々あり、断定は出来ないようだ) 従って銭一文は25円位となり、旅を続ける庶民に取って、藤川宿での飯盛り女の相場は決して安くはない。
この宿場も人口比では、女が100人程男を上回っていて、当時は宿場内に限れば女が多いところはかなり有る。 これは本陣や旅籠の女中、飯盛り女や遊女等、女の働き口が多くあったからであろう。 遊女が多いとされた吉田(豊橋)でも、47:53と人口の半分以上を女が占めていた。
全国の男女比がほぼ同数になるのは幕末以降らしく、八代将軍の吉宗の時代までは、圧倒的に男が多かった。 凡そ3対1程と言うから、この事からも宿内に集まった女の多さが際立っている様子が知れる。 これだと在郷に女は殆どいないことに成り、村に残る若者の女不足・嫁不足は深刻な問題であったようだ。
宿場の遊女宿や、城下町の遊郭が繁盛した背景には、こうした女の少なさが有ったとも言われている。 当時は在郷の男が、宿場等へ女郎買いに出掛けることは、黙認されていたようだ。 しかし身近な女不足を悩む男にとって、それらの場所は決して安くはなく、銭が無ければ訪れることも出来なかった。
そうした悩みを解消し、男達の欲求を満たしたのが「浮世絵(江戸絵)」である。 これまでの絵画の世界は、京都が中心で有った。 何時の頃からか江戸の版元が遊郭の様子や芝居の舞台など、浮世の好色の世界を描いて競って出版するようになった。 これにより浮世絵は、江戸土産としても評判を呼び、瞬く間に全国に流行っていった。
家並みの長さが凡1qにも及ぶ藤川宿は、国道1号線とは切り離され、間に名鉄の名古屋本線が走っている。 従ってこの広い旧道に入り込む車は少なく、散策にはもってこいである。
通りには、往時を偲ばす連子格子を嵌めた町屋造りの民家が何軒か残されている。 殆どは、平入りの二階建ての家屋で、屋根は低く抑えられ、通りに向けて庇を揃えて並び立っている。 通りで一際目立つのが、古いものではなさそうだが、三階建ての白亜の建物だ。 城の櫓を思わす白壁で、「粟生人形店」の店舗は通りでも一際異彩を放っている。 およそ800年も続くという元々は武士の家系らしく、人形作りを始めたのは昭和に入ってかららしい。
町屋の中で代表的な建物が、旧野村家住宅(米屋)である。 幾度か改修の手は加えられているらしいが、構造自体は古く、天保年間の建築らしい。 岡崎市の「景観重要建造物」の指定を受けている。
宿場の中程にあるのが嘗ての脇本陣、橘屋大西喜太夫家である。 明治天皇が休息をされ、昭和に入ると町役場として使われたそうだ。 享保年間に建てたという現存する門を潜って入ると、なかは藤川宿資料館になっている。 管理人は不在で、町民が交代で施錠・解錠の管理を行っていると言い、内部は自由に見学をすることが出来る。
人形店の向かい側に有るのが高札場跡で、更に問屋場跡もあるが何れも案内板のみの遺構である。 この宿場には史跡らしいものは少ないが、通りのあちこちに古い町屋も多く残されている。 通りも静かで、宿場町を思わせる風情を良く伝えている。
むらさき麦と十王堂
「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」
藤川宿の外れに十王堂という小さなお堂があり、平安末期頃広まった信仰らしく十王が祀られている。 十王とは、死者の魂が集う冥土で亡者の罪を裁く10人の裁判官である仏の総称だ。 その内の一人が良く知られた、あの嘘をついた人間の舌を抜くという閻魔王である。
その境内の小さな切妻のお堂の右手に、芭蕉のこの句が残されている。 この近辺の芭蕉句碑では最大級と言われる、人の背丈ほどもある花崗岩の自然石で、寛政五年に立てられた。 その下にも古い小さな碑があるが、同じ句が掘られているのかは良く解らない。
藤川宿に入り込むと、街道筋の彼方此方に紫色の「むらさき麦」と書かれたのぼり旗が立てられていた。 聞けばこの日藤川宿では、「むらさき麦まつり」が開催されているといい、大勢の人が賑やかに行き交っていた。 消防団の規制する通りは歩行者天国で、屋台が出て、フリーマーケットやスタンプラリー等も行われている。
祭りスタッフの婦人方が、「近くには一面の畑も有り、見応えがあるので是非見て帰って」と親切に教えてくれた。 道の駅ではイベントもしているから寄ると言いと、勧められたが、畑をわざわざ見に行く元気はない。 藤川小学校の前にも、僅かではあるがその展示畑が有りこれで充分だ。 特異なむらさき色をした穂を見せていて、よく見ればそれは茎までもが同じ色に染め上がっている。
藤川の松並木
再び十王堂のある街道に戻り、その先で79番目の一里塚跡などを見て更に進む。 境松と言われるところが二股のY字路で、旅人の安全を見守るかのように、観音様(妙見堂)が祀られている。
その前の道路脇には、高さが150pほどの四角柱である吉良道を示す古い道標が立っている。 正面に「西尾 平坂 土呂 吉良道」、右側には「文化十一年甲戌五月吉日」と彫られている。 東海道と吉良道の分岐点・追分けで、左に進めば西尾から平坂 土呂を経て吉良方面に通じる「吉良古道」である。 嘗ては塩の道として、三河湾沿岸の海産物の運搬で賑わったという。
丁度この辺りの北側、名鉄の線路と国道1号線を越えた辺りに、むらさき麦の畑が広がっているようだ。 当地では江戸時代より「むらさき麦」を栽培していたが、何時の頃からか作られなくなり、幻の麦と言われていた。 近年になって、県の農業試験場等の協力の下、試行錯誤を繰り返し、栽培を重ねたそうだ。 結果平成6年に穂先まで紫色の麦の栽培に成功したが、その年は奇しくも芭蕉翁の300回忌の年であったそうだ。 以来それは毎年5月中旬から下旬にかけて、趣のある実りを楽しませ、この地に名物を復活させることになった。
「むらさき麦まつり」のスタッフのご婦人方が、「見事だから・・・」としきりに勧めてくれていた。 しかし、残念ながらその畑を見に寄り道をする元気は残されてはいない。
東海道は追分けを右に取り、その先で名鉄線の踏切を越えると、松並木が始まる。 両側が高さ1〜2m程の土盛りで、そこから見事な黒松が幾本も空を隠すように伸びている。 昭和38年に天然記念物の指定を受けた並木も、今では1km程の間に僅かに90本余りが残るだけだという。
土盛りには石塁が巡らされているが、古いものではなさそうだ。 街道がアスファルト道に変わるか何かの折に、土留めとして造られたものと推察する。 それでも道路に覆い被さるように繁る松の並木は、往時の雰囲気を今に良く伝えている。
松並木はレッドバロン本社工場の辺りで尽き、国道に合流する。 その先でも何度かの国道合流が有り、付いたり離れたりの関係を続けながら、次の宿場岡崎を目指す。 その距離は1里25町(およそ6.7q)である。
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