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悲しすぎる伝説 こだが橋
吉田から35番目の宿場・御油までは、2里半と4町である。 今の距離に直すと、10.3qほどの長丁場で、2時間半から3時間ほどは掛かりそうだ。 ほぼ国道1号線と名鉄本線の線路と併走する道で、この三本は所々で交差をしながら御油に向かう。
東海道は、豊橋魚市場を後に市境を越え、豊川市に入ると豊川放水路に架かる高橋を渡る。 暫く町並を眺めながら行くと、「子だが橋」という小さな橋を越える。
橋とは言へ欄干が有る訳でも無く道なりで、気を付けていないと見過ごしそうな程の川だ。 両側の堤には木や草が伸び放題で、のぞき込んでも川面は殆ど見えない。 流れがあるのか、ないのか分からないような川筋だが、善光寺川という立派の名前が付けられている。 橋の名は「小田橋」と言うが、「子断(こだん)が橋」との別名が有り、ここには切なく悲しい伝説が残されている。
『一千年程前、この地に鎮座する菟足(うたり)神社には人身御供の言い伝えがあった。 春の大祭が行われる初日に、この街道を最初に通る若い娘を生け贄にするというものだ。
ある年の祭礼当日のこと、贄狩りに奉仕する村人の目に、若い娘の姿が入ってきた。 故郷の祭と父母に会う楽しさを胸に秘めて、暁の街道で足早に橋を渡る若い娘の姿である。 よくよく見れば、何と有ろう事か紛れもない我が娘である。
決まりを守れば、我が娘を生き贄としなければならない。 「如何にすべきか」苦しんだあげく、神の威光の尊さに「子だがヤムを得ぬ」と、ついに捉えて神に捧げたという。 以来この橋を「子だが橋」と呼ぶようになった。』
菟足神社は、ガイドブックによると、延喜式にも登場する古い社で、歴史が有らしい。 生け贄伝説のある「風祭り」は、豊川市の無形民俗文化財に指定されている。 あの武蔵坊弁慶が、「あづま下りの折、今橋(後の豊橋)断絶し七日間逗留」し、納経したと伝わる社でも有る。
菟足神社の「風祭り」は、毎年4月の第2土・日曜日に行われている。 古来人身御供が伝承され、後には^を生け贄にしたが、今では12羽の雀を贄に代えて神事を行っているという。
才ノ木南で小坂井バイパス(国道247号)を越え、小坂井の町に入って行く。 才の木の交差点では、右側に五社稲荷社のもので有ろうか、赤い大きな鳥居が見えていた。 前方には菟足神社の森も、黒い塊となって見えている。
JR飯田線を踏切で渡ると、名鉄の伊奈駅の近くに明光寺という浄土宗のお寺があった。 休憩がてら立ち寄って見ると、境内の一画に上部のかけた五輪塔が立っていた。 昔地境争いで、この塔を双方で奪い合った結果、上部は相手方に渡ったのだと言う。 そんな寺の本堂の脇には、おびただしい数の野仏や小さな地蔵石像も祀られていた。
寺の敷地内には、古い民家が有り、「もくせいの花」と言う古民家カフェになっている。 手作りのケーキと豆腐が評判で、モーニングを中心に昼過ぎまで営業している。 ここでは、手作りアクセサリーや雑貨などの手作り市も開かれるという。
この辺りの旧街道には、所々に松が、切り忘れたたように残されている。 何があると言う訳でもないが、古い民家や寺等も多く、緩やかに曲がる余り広くはない道の雰囲気は良い。 如何にも旧街道らしい趣で、長丁場の退屈しのぎには丁度良く、疲れもいやしてくれるようだ。
姫街道の追分
名鉄の国府駅を右奥に見て進むと、小さな森の下に鎮座する神社の白壁が見えてきた。 三河の国の国府で、嘗ては国府大明神と呼ばれた大社神社である。 地名もこの社に由来していて、嘗てはこの辺りが国府の立場跡になるらしい。
丁度この先から街道の道幅は急に狭くなる。 古い家並みと、神社の白壁に沿う道は何となく昔の雰囲気を感じさせる。 その先に有るのが、江戸より76里の御油の一里塚で、使用金庫の敷地の中に立っている。
そこから更に西進すると三叉路の角に、二本の古い道標と供に、大きな秋葉神社の常夜灯が立っている。 県道の拡幅工事で、近年従来の位置から移され整備されたらしく、何れの石碑も基礎だけは真新しい。 道標には「秋葉山三尺坊大権現道」「国幣小社砥鹿神社道 是より二里卅町」などと書かれている。
ここは「御油の追分」と呼ばれる分れ道で、「姫街道」の小さな表示板が置かれている。 このまま街道を直進すれば、音羽川に架かる五井橋を渡り、東海道の35番目の宿場・御油に入っていく。 右に曲がれば、鳳来寺から秋葉山を経由する本坂越え道、見附宿に向かう凡そ60qのいわゆる姫街道となる。
浜名湖を控えた新居の関所では、厳しい女改めが行われていた。 それを避けた公家の奥方や姫君、女中衆が多く使用したのがその名の由来とも言われている。
御油の宿と味噌工場
音羽川に架かる五井橋を渡ると、かつては「五井」とも呼ばれていた小さな宿場「御油」である。 隣の赤坂宿とは指呼の間で、一時はこの隣り合った二つの村で、一つの宿場とした時期もあったらしい。
ここには「五井橋 板橋卅五間」と言われる橋が架けられていたが、今は古びたコンクリート橋だ。 堤の見事な桜並木を見ながら進むと、その先で旧街道は御油の宿内へと入り込むとすぐ、高札場跡がある。
御油は明治以降、国鉄や国道のルートから外れ、戦災での焼失も免れ、大きな災害を蒙った事も無かったという。 従って、嘗ては連子格子や犬矢来の有る江戸時代の面影を色濃く残す町並が見られたらしい。 しかし、流石に今日では新しい住宅に置き換わり、町並からも古の面影が失われつつあるようだ。
橋を渡るとそんな真新しい住宅地の中に「花・ベルツゆかりの地」の案内板が立てられている。 ドイツ人医師ベルツ博士の妻・花の実家、江戸時代の旅籠、荒井熊吉の営む「戸田屋」のあった場所だという。 ベルツは明治政府の招待により来日し、東大医学部の前身東京医学校で教鞭をとり、近代日本の医学普及に貢献した。
それを支えたのが、江戸は神田明神下の生まれ、旅籠の娘として育った日本人妻・花である。 二人の結婚は、国際結婚の先駆けであったそうだ。 戸田家の菩提寺である御油の西明寺には、博士の死後帰国した花が建てたベルツの供養塔もあると言う。
「はや夜に入りて両側より出てくる留め女、いづれも面をかぶりたる如くぬり立てるが袖をひいてうるさければ」
夜の帳が降り始めると、旅籠の前では客を呼び込もうと、激しい客引きが行われていた。 十返舎一九の膝栗毛では、強引に客の荷物を引っ張って客を引く様子をこのように述べている。 又広重の「東海道五十三次之内 御油 旅人留め女」でも、客引きをする女(留女)の姿が軽妙に描かれている。 こう言った留め女や飯炊き女と呼ばれる女性達が多くいたことも、当時の道中案内などでは良く知られていた。
宿場の町並は、茶屋町、横町、仲町、中上町、上五井と続き、人家316軒、人口は1,300人程である。 本陣が3軒あったものの脇本陣は無く、旅籠は宿場の規模にしては割に多い62軒有ったと言う。 姫街道の追分が有り、城下町である吉田の宿での窮屈な泊まりを避け、ここに宿を取る旅人も多かったかららしい。
街道筋を進むと、町中で味噌メーカの大きな工場に突き当り、そこでほぼ直角に曲がり、更にその先で左に折れる。 曲尺手の様な曲がり方で、その先は丁度工場の正門前にあたり、街道が工場を分断している格好だ。 これは「イチビキ」の工場で、木造の工場や白壁の蔵などは、旧町にすっかり馴染んでいるようにも見える。 又、この工場にも歴史があり、それを知ればここに立地する理由に納得出来たりもする。
御油とその次の赤坂宿には、昔から飯盛り女が多い事が知られていた。 鴨長明もその旅日記に、「ごゆ、あかさかは昔より遊女の名高し」と書き残しているという。 当地には茶屋町という地名も残されているようで、茶屋の数も多かったようだ。
「明治の初め頃、大きな旅籠で働く飯盛り女五人が、近くの池に飛び込んで自殺をした。 これを機に宿(大津屋)の主人は、女に稼がせる家業をきっぱりと諦め、味噌の製造に乗り換えた。 主人は、宿中程の東林寺に遊女達の墓を建て、手厚い供養をした」という逸話も残されている。
東林寺は、三河領主の徳川家康が二度も立ち寄ったという由緒有る寺だ。 境内片隅の墓地には、遊女達の雇い主、旅籠・大津屋の主人が建てた、五基の飯盛り女の墓が残されている。 大津屋は、「イチビキ」の前身であり、同社の製品を通信販売する会社として、その名を今に残している。
御油・赤坂の松並木
御油宿を出て西進すれば次の宿場・赤坂へは僅か16町(1.7q) 、東海道の宿場間としては一番短い距離だ。 宿を出るとやがて見事な松並木の道となり、右側は音羽川に沿った「御油松並木公園」になっている。 公園は、豊川市の市制70周年の記念事業として作られたもので、芝生広場に遊具や東屋、藤棚等が配されている。 トイレなども整備されているので、旧街道の松並木道からは、公園への入口が2カ所設けられている。
「御油・赤坂の松並木」は、「日本の名松百選」にも選ばれている。 弥次さん喜多さんが狐に化かされる騒動でもお馴染みの場所だ。
当地の松並木は、江戸時代中期頃には600m程の間に、黒松が650本ほど植えられていたらしい。 一時は激減した事も有ったが、地元の人々の手厚い管理や補植などがなされ、今日では300本程と言われている。 戦時中には、各地の松は燃料として供出を求められ、多くの松が失われた。 しかし当地の松は、国の天然記念物の指定(昭和19年指定)を受けていたお陰で伐採を免れたという。
東海道整備の一環で、家康の命により松の並木は植えられた。 夏は木陰を作り暑さから旅人を守り、冬は寒風を遮り、何よりも遠くから見ても街道と解る。 地図や案内書がさほど普及していない当時では、安心して歩く事が出来る効果は大きかったようだ。
ここは赤坂までの街道の半分近くが松並木で、これぞ東海道の街道と思わせる見事な景観が続いている。 こんな道にアスファルトは相応しくなく、やはり土埃を感じながら地道を歩いてみたい。
松並木が尽き天王川に架かる小さな一の橋を渡ると、丁度この辺りに赤坂宿の東の見附(入口)があったという。 ここまで御油からは30分ほどの距離で、大きな宿場なら東西の見附を挟んだ町並がまだ続いている筈だ。 当時の宿場は、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠62軒、戸数349軒、人口1,300人余りだ。 宿場規模の割には、旅籠の数が多いのが特徴で、その辺りの事情は御油宿と同様だ。
「夏の月 御油よりいでて 赤坂や」
宿場に入ると直ぐ左手に、起源が凡千年前と言う古社で、当初は「弁財天社」と言った関川神社が有る。 境内に入ると石の鳥居があり、その横に、三河産の花崗岩で造られた芭蕉の句碑がある。 「夏の月」と言われる句で、御油宿からでた夏の月が、直ぐに赤坂宿をも照らすさまを詠んだものだ。 境内には推定樹齢800年と言われる、幹周り8m、高さ25m余りの大楠もあり、町の文化財に指定されている。
「やうやく宿に入ければ 宿ごとに遊女あり。立ち並びて旅人をとどむ。」
広重は、比較的風景を描くことが多いが、当地では旅籠内の様子、「赤坂 旅舎招婦ノ図」を描いている。 この画は、先の御油宿の客引きの画に続く連作と言われている。 この連作で描かれた留め女や遊女の姿が、御油・赤坂の知名度アップに一役も二役も買ったと言われているそうだ。
中央に大きな蘇鉄を描き場面を分け、旅籠内の様子を見事に切り分けている。 左は汗を拭きながら風呂から戻る男、座敷では寝そべり寛ぐ旅人の様子や、食膳を運ぶ女、客に呼ばれた按摩等だ。 右の画面では、出番を待つお化粧中の飯盛り女の姿など、旅籠内の様子が細密な描写で描かれている。
この絵に描かれたのとそっくりな蘇鉄が、街道筋からやや奥まった所にある、浄土宗の浄泉寺と言う寺に有る。 山門を潜り境内に入ると、本堂の前にある大きな蘇鉄の木が目に留まる。 これは寺の筋向かいにあった旅籠・清洲屋から移植されたものだと言い、画のモデルかは解らない。 蘇鉄は成長が遅く、比較的長寿と言われていて、この木も大きく葉を広げ青々と茂っている。
宿場内は広い通りが貫き、明るい雰囲気である。 中心的な場所の交差点の両側は、観光客向けに小さな公園風に整備されている。 ベンチを備えた東屋風の休憩所が有り、回りは地元ボランティアに寄る草花で彩られている。 街道筋の本陣、高札場、問屋場跡などの跡地には、立派な案内板や常夜灯が立っている。
しかし残念ながら、四軒有ったとされる本陣は、何れも本物は残っていなくて、遺構を示す案内板のみである。 その内の一軒・松平家は、間口十七間半、奥行き二十八間、畳は四二二畳も有る堂々とした建物であったらしい。 広場にある高札場も復元したものが飾られている。
街道の中程に、昔ながらの連子格子が残る、文化年間に建てられた旅籠「伊右衛門・鯉屋」がある。 間口6間1尺、奥行き7間の母屋が現存しているが、嘗ては間口がもう1間6尺程広かったそうだ。 奥行きは今より3.5倍ほども広い敷地に、母屋、継ぎの間、奥座敷、土蔵などが連なっていたらしい。 しかし、残念ながら奥座敷部分は寺への寄進(法雲寺の庫裏として現存している)や、火災などで失われたという。
ここは、平成27(2015)年まで現役の旅館として稼働していた。 江戸時代の建物が残っていて、今日まで営業を続けていた貴重な旅館も、数年前にその業を止めている。 その最終日には、「かつて泊まったことがあるという大阪の男性も泊まりに来て、別れを惜しんだ」という。
中に入ると右手が土間で、その先にのれんが掛かり、通路が奥に延びている。 建物を支える太い柱、黒光りするほど磨き込まれた床板、急勾配で段間の高い階段などは、ほぼ往時の儘だという。 関川神社にある句は、芭蕉がこの宿の二階に泊まった折のものらしい。
「大橋屋」から西に50m程行くと、無料の茶店風休憩施設、旅籠をイメージした「赤坂宿よらまいかん」がある。 「よらまいか」とは、土地の言葉で、「寄っていこうよ」との意味で、平成14年にオープンした公共の施設だ。 二階には宿場を描いた浮世絵が展示されていて、駐車場、トイレ、自動販売機などが用意されている。 近隣地には、赤坂宿資料館(市の生涯学習施設)などもある。
ここには広重の描く世界を念頭に、厳密な時代考証の結果「大橋屋」や「よらまいかん」等が復元整備されている。 また街道筋には僅かながら格子戸の古い町屋も残されている。 そんな場所に立てば、弥次産喜多さんが闊歩した、当時の町へと引き込まれそうな気がしてくる。 御油から赤坂にかけた街道は、規模こそ小さいが、街道歩きの楽しさ醍醐味が味わえる場所でもある。
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