|
豊橋入り
東海道は二川宿を出ると、次の吉田(今日の豊橋市)まで一里半一町(凡6.1q)である。 多くは、国道1号線に沿って進み、豊橋の中心市街地を目指す道だ。
豊橋の市街地に入り、瓦町の交差点の向こう側に、一際目立つ寺院が目に付いた。 調べると、臨済宗妙心寺派の禅寺「寿泉寺」で、竜宮城の様な山門と、その奥に覗く三重塔が一際目を引いている。 寄ってみたいところだが、足の肉刺が潰れ痛くて横断歩道を渡るのも億劫だ。 前の宿を出て以来、痛さをこらえて早く宿に入りたい一心で、只ひたすら前を向いて歩き続けてきた。
豊橋市は中世には今橋とも呼ばれ、それ以来の城下町ある。 江戸時代には宿場も置かれ吉田と言い、現在の地名に変わったのは、明治2年の事だ。
東八丁の交差点の北東方向の広場に、家の高さ程もある大きな石造りの秋葉常夜灯が見える。 東海地方では、火防の神として「秋葉山本宮・秋葉神社(浜松市)」への信仰が特に篤い。 これまで街道の主要な場所で、数多くの常夜灯を目にしてきたが、ここに立つのは立派でかなり大きな方である。
交差点の灯籠の立つ反対側には、復元された惣門の模型が建っていて、ここが吉田宿の東の入口である。 門は東海道を跨ぐように、南向きで建てられていて、近くには番所や駒寄場もあったらしい。 明け六つ(午前六時)から、暮れ四つ(午後十時)の間で通行が許可されていたと言う。
「吉田通れば二階からまねく、しかも鹿の子のふり袖が・・・」
吉田宿は、このように唄われる程の繁昌ぶりを見せていたらしい。 三河湾に面し、三河国・渥美郡に有り、東海道34番目の宿場町は、松平伊豆の守・七万石の城下町でも有った。 町並には旅篭や茶屋が続いていて、戸数1,293軒、人口5,000人余で、旅篭も多く65軒と伝えられている。 街道を行き来する旅人を、おおっぴらに手招きする私娼も多かったらしい。
比較的大きな宿場町で、その賑わいは浜松に並ぶものと称され、それを裏付けるかのように町並が広がっていた。 街道筋を中心とした、「表町十二町」だけではなく、その裏にも「裏町十二町」と言われる町並が続いていた。 清洲屋と江戸屋と言う本陣が有り、そのほかにも脇本陣が1軒あったと言う。
東八町で宿内に入ると、宿場特有の幾つかの角を曲がりながら鍛冶町を抜ける。 当時のこの辺りは、「宿内に鍛冶どもあまたにて、相打つ音左右に響きて」と言う有様が伝えられている。 鍛冶屋が建ち並んで槌を打つ音があちらこちらから聞こえていたらしいが、今日それを目にすることは無い。 戦後に整理されたという広々とした通りで、町の名だけが当時の繁栄を伝えている。
同市には、豊橋鉄道が運行する「しでん」の愛称で呼ばれている私鉄の路面電車が走っている。 豊橋駅前から中心部を経由して、東部の住宅地とを結んでいる。 嘗てはどこの町中でも見られた路面電車は、随分と減ってしまい目にすることが稀である。 今では17都市の19路線しか運行されていない貴重な公共交通機関でも有る。
戦災を受けた市街地は焼け野原となり、嘗ての宿場町としての遺構は殆ど失われ、何も残されていない。 戦後には都市計画により区画は整然と整理され、道路は広げられ、直線的な交差点が至る所に出現した。 戦災を受けたとは言え、これにより旧街道の痕跡は悉く消滅し、昔を偲ぶ物は何も無くなってしまった。
路面電車が通る宿場町は、豊橋駅前の賑わいに代表されるように、今では大都会の様相だ。 お城を見なければ城下町・宿場町とは思えない程に、往時の面影は失われている。 旧街道筋にも、真新しいマンションビルを始め、事務所や商店、飲食店などが建ち並んでいる。
鍛冶町を抜けると曲尺手町で、道路の緑地に史跡曲尺手門の石碑が立てられ、京へは52里と書かれている。 地名は残されているが、曲尺手の痕跡は道路が広すぎて良く解らない。 昔は丁度この辺りに曲尺手が有り、当時は街道のすぐ北側まで吉田城が迫っていて曲尺手門があったらしい。 今はかなり後退し、街道から城を見ることは出来ないが、一帯は「吉田城址・豊橋公園」となっている。
「東海道ルネッサンス」とは、「東海道の宿駅制度制定400周年」に当り、行政が中心の地域づくりの活動である。 「東海道のルーツである東海道五十三次が、宿場町や旧街道を中心に地域の活性化と発展に寄与した歴史をたどる。 その面影や文化を遺産として伝え、新しい時代に向かおう」というものらしい。 主に静岡から愛知に掛けての活動らしく、これまでの道々で、この掲示板や道標などを目にしてきた。 「豊かさとゆとり」の感じられる道作りを希求しているようだ。
実際に街道歩きを楽しんでみると、何と言っても全ルートを通じた、安全に歩ける歩道が望まれる。 更に四国の遍路道のように、所々にトイレを備えた休憩の出来る場所、木陰やベンチがあればありがたい。
ところで、街道歩きで常々疑問に思うのは、昔の人はトイレをどうしていたのか?である。 それに付いては「東海道 人と文化の万華鏡」(中西進 2003年7月 ウェッジ)が、こんな旅行記を紹介している。 鎖国期に来日し、長崎から江戸参府に加わったスウェーデン生まれの植物学者・ツュンベリーの日記である。
「各家庭に不可欠な私的な小屋は、日本の村では住居に隣接して道路に向けて建てられている。 その下方は開いているので、通りすがりの旅人は表から、大きな壷の中に小水をする」
民家の厠が、街道を行く旅人にも開放されていた様子が窺い知れるが、悪臭には相当閉口したらしい。 「鼻に詰め物をしても、ふんだんに香水を使っても無駄、眼を強く刺激し高齢者は目を真っ赤に、目やにを出している」 アンモニア臭に苦しめられる様子をこのように書き綴っている。
道中の食事
昔の人は、旅に「干し飯」を持参していた。 炊いたご飯を軽く水に晒し、天日で乾かした物で、作り方にもよるが、1年位は持つらしい。 軽くて嵩張らないので、戦での非常食として使われる程だから、旅人も重宝したようだ。 時に歩きながら固いのをボリボリと食べ、木賃宿泊まりならお湯を沸かし、戻せばおかゆが出来上がるから安上がりだ。
街道歩きで困るのは、昼飯時の店探しで、大きな町中なら兎も角、道中や宿内では店が無いところも少なくない。 コンビニや食事処やレストラン等でも有れば良いが、そうそう丁度良いタイミングで現れてはくれない。
旧街道近くに創業140年(明治9年の創業)の暖簾を掲げる「みたらし団子」(餅菓子処 大正軒)の店があった。 たまり醤油の焦げる良い匂いが漂っていて、一本欲しいところだが、店内には数人が順番待ちをしている。 行列の絶えない有名店らしいが、行列に並ぶのはどうも好きになれない。
本陣が有った場所に立つ「鰻の丸よ」は、創業が百余年前と言う、地元の老舗有名店である。 その店先に、「べっぴん 語源発祥の店」と書かれた看板が貼られていた。 明治初期、三河田原藩家老・渡辺崋山の息子、渡辺小華の発案により、ある看板を掲げ商ったところ大好評を得た。
「すこぶる別品」 その後この言葉が全国に広がり、極上品を「べっぴん」と呼ぶようになった。 明治中期には美しい女性を「べっぴんさん」と呼ぶようになり、今日美人さんのことは「別嬪」と表記する。 最も「別品」と言う言葉自体は江戸時代から有り、歌舞伎や文豪達の文章の中などではよく使われていたらしい。
また本町にある菜飯田楽の店「きく宗」も、創業が文政年間と言う老舗だ。 凡そ200年余に渡って道行く人々に愛された食べ物で、古くからこの地に伝わる名物でもある。 これは、豆腐に秘伝の味噌を付けて焼いた田楽と、細かく刻んだ大根葉を混ぜた菜飯とともに食べる料理である。
そう言えば東の惣門前にあった、「八町もちや」も戦後に開業した店らしいが、早々に売り切れてしまうらしい。 街道筋には昔から茶屋や旅篭が軒を連ねていたと言うだけに、今日でも市内には老舗の店が多い。 このように特に大きな都市なら駅にでも行けば名店街も有り、食事処探しには困らない。
豊川に掛かる豊橋
呉服町を抜けると、宿場の中心の札木町で、お城の大手門が近かった。 その先の松葉公園の辺りで、上伝馬町を抜けるが、この辺りに西の惣門(宿場の西口)があったらしい。 更に湊町を抜け、そこを出ると旧東海道は、「昔は今橋と云し」と伝わる、豊川に架かる「豊橋」を渡る。 中世の頃は「今橋」、江戸時代は「吉田」と呼ばれ、明治維新に「豊橋」となる、当地の地名の由来となった橋だ。
当時「吉田大橋」と呼ばれ、是より下流70m程の処に架かり、その長さは200間(凡216m)と伝えられている。 昔から「東海道に大きな橋四つあり」と言われていて、その一つがこの橋である。 「むさしに六ごうの橋、やはぎの橋、おうみのせたのから橋」と並び称されていた。
橋の南詰め辺りに今日まで「船町」や「湊町」と言う地名が残されている。 旧吉田大橋の近くには吉田湊という川湊がり、嘗ては川崎や勢州(伊勢の国)・白子への船便があったようだ。 陸路の五十三次に注目が集まるが、街道筋の要所には幾つかの湊も有り、舟便も結構発達していたらしい。 しかしその船賃ともなると、目の玉が飛び出るほど高かったようだ。 懐の寂しい庶民にとっては、とても気楽に乗れるものでは無く、陸路をひたすら歩くより仕方なかった。
途中、旧東海道沿いの下地交差点の近くに、聖眼寺と言う真宗高田派の寺院があった。 徳川家康との所縁が深い寺らしいが、松尾芭蕉の松葉塚が有名なようだ。 翁没後50周年を記念して建てられた句碑が残されている。
「松葉を焚て 手ぬきひあぶる 寒さ哉」
豊川の沖積地の比較的高いところに開けた集落、「瓜郷遺跡」の案内板を目にした。 道筋からは120m程しか離れてはいないが、痛い足にはこれとて負担、ここは立ち寄らず先を急ぐ。 弥生時代の中期から後期にかけて、農耕、漁撈、狩猟などの生活をした集落の跡らしい。 当時の海岸線は、かなりのところまで入り込んでいたのが知れる。
街道を進むと豊川放水路に架かる「高橋」の手前に「豊橋魚市場」があった。 周りには包丁や、鰹節など出汁の専門店、一般消費者向けの「おさかなセンター」などが軒を並べる一画もある。 魚河岸と書かれているし、瓜郷遺跡の事も有り、渥美湾の海岸線がこの辺りまで迫っていたのかと思ったりする。 大小の漁舟が、ここに横付けしていたのであろうか?等と想像してみたが、どうやら違っていた。 吉田城下の魚市場は、元々は、宿場の中心札木に近い魚町にあったらしい。
因みに今日の海岸線は、ここより3qほども先にある。 この魚市場は、魚河岸というわけではなく、昭和になって新たに設けられた施設らしい。
(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved. |