境川を超え、三州へ

 

 東海道32番目の白須賀宿を出ると、次の二川へはその距離凡1里17丁(約5.7q)である。

起伏も小さく、ゆっくり歩いて1時間半も見ておけば充分な距離だ。

遠州灘には背を向けて、これからは内陸部に向かうことになる。

 

宿場を出て暫く歩くと、白須賀宿の加宿である「境宿」の小さな集落を抜ける。

加宿とは、規模の小さな宿場の補完的な役割を果たす宿で、隣接する村に定められている。

伝馬制では宿場が用意すべき人馬の数を定めていて、その不足を補うのが主な目的である。

 

境川

境川

境川

 

更にその先で県道173号線に合流し、暫くはそこを歩くと、やがて前方に小さな川が見えてくる。

うっかりしていると見逃しそうな、川幅が数メートル程の小さく目立たない川だ。

護岸された人の背丈ほどの堤が有り、狭い幅の用水路が掘られていて、その底を静かに水が流れている。

 

この川を境川と言い、名前の通り遠州と三州を分ける川で、今日では愛知県が管理している。

今でもここが静岡県と愛知県の県境になっていて、道路にも愛知県豊橋市を示す大きな標識が立てられている。

振り返れば東に向かう道路には、静岡県湖西市の標示も見える。

 

境川

境川

境川

 

境川

境川

境川

 

 嘗ては土橋か木橋でも架けられていたのであろうか、今では橋と言うより広々とした道路の一部である。

車なら何も知らないうちに行き過ぎてしまう、そんな境川橋を確認しながらゆっくりと渡る。

橋の脇にはガードレールに隠れるように、三角柱の県境を示す杭が立てられていた。

昔から国境は争いが絶えないものだが、川なら一目瞭然で解りやすく、川が境になっているところは結構多い。

 


 

見事な松並木 一里山 猿ケ馬場

 

「両方の並松見物なり 二川までの間家無し」

 

県道173号線を暫く歩き、その先で国道1号線と合流する一里山東交差点付近のことである。

かつて街道の左右は、広重が描く画の通り人家とて無い、「猿ヶ馬場」と呼ばれる地であった。

小松の生えるばかりの原山で、見事な松の並木が続いていたらしい。

 

しかし人々が歩かない今日では不要の長物と化し、国道1号線の開通か拡幅工事で全て伐採されたのであろう。

広々とした鋪装道に変った街道では、昔からの松の並木は姿を消し、一本の生き残りもなくなってしまった。

そんな一里山には、「宿場制定400年記念 七本松植樹」の案内板が立っていた。

その傍らには、近年植えられたらしい何本かの松が見られたが、その復興の情熱も既に冷めてしまったらしい。

生い茂った蔓草や雑草が、その記念碑さえ覆い隠そうとしている。

 

一里山

一里山

一里山

 

一里山

一里山

一里山

 

この日は晩春とは言え気温が上がり、全国300以上の観測地点で夏日を記録したと夕方のニュースが伝えていた。

こんな日のアスファルト道は照り返しもあり真に暑いし、何よりも日陰がないのが辛い。

こんな夏の強い日差し、冬なら冷たい北風を防いで、旅人を守ってくれる役割を担ったのがこの街道の並木である。

 

暫く進むとこんもりとした一里山八幡宮の森の中に一里塚が残されていた。

東西11m、南北14m、高さ3m、旧東海道の面影を残す堂々たる遺構である。

この先、ここからしばらくは暑い日差しの照り付ける国道に付けられた歩道を歩く事になる。

 

一里山

一里山

一里山

 

一里山

一里山

一里山

 

この辺りの国道1号線は、中央分離帯で仕切られた、片側二車線の道で、流石に多くの車が行き交っている。

心なし乗用車や小型の商用車が多いのは、大型のトラックなどは近くを通る高速を利用するからであろう。

そんな国道の歩道は単調で、所々で民家や事務所、工場らしき建物を目にする事もあるが、沿道には殆ど何もない。

両側は赤土の畑で、植えられているのはネギで有ろうか?緩やかな丘陵が一面に広がっている。

 

この日は殊の外気温が上がり、日陰のないアスファルトの道は、暑くてたまらない。

かつては見事な松並木であったらしいが、今はその名残は欠片もない道を4q程歩いて来た。

途中道路の向こう側に、「コオロギ 生産者直売」の看板が掛かった人家があった。

生産販売にどんな需要があるものなのか興味も湧いたが、道路の向こう側では渡ることも出来ない。

 

三ツ坂や源吾坂と言う坂があったが、潮見坂で上った台地を、二川に向けて緩やかに下っているようだ。

ここら辺りまで来ると、民家の隙間から目標としていた新幹線の線路も見えてきた。

一里山からは、僅かなトイレ休憩をしただけで歩き続け、すでに1時間半が経過していた。

 

一里山

一里山

一里山

 

一里山

一里山

一里山

 

一里山

一里山

一里山

 

 目標としていた新幹線の高架橋が、ようやく右手すぐに近づき、国道に接してきた。

シンフォニアテクノロジーと言う会社の前で、左にカーブする国道1号線を離れ、右に折れる。

 

新幹線高架の暗いトンネルを潜り、その先で梅田川に架かる筋違橋を渡る。

さらに道なりに進み、東海道線の踏切を越えたところで直ぐに左折、線路に沿って進む。

やがて左程広くはない道の両側に、民家の建ち並ぶ町並が現われると、ここが二川宿の東入口に当る場所である。

 

 

二川宿

 

二川宿は東海道33番目の宿場町である。

本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は38軒、家数300軒で、人口は1,400人余と言うから、さほど大きな宿場ではない。

当初は二川村と、隣の大岩村の二ケ村が協業して宿業務を行っていたらしい。

その後に当地に移転した二川が主となり、大岩は加宿扱いとされている。

 

宿場の入口近くの町屋の前に、一里塚跡を示す石碑が、コンクリート床に建てられていた。

塚の前の建物は、「二川宿案内所」の看板を掲げているが、この日は休館日らしく、生憎入口の戸を閉ざしている。

二川宿まちづくりの会の会員が運営する宿場町のPR活動の拠点だ。

元々は、「川口や」という屋号の旅籠らしく、今の建物は大正期のもと言う。

折角の建物も車庫が造られ、アルミ戸や戸袋等に大きく手が加えられていて、歴史的価値を下げているのが残念だ。

 

二川宿

二川宿

二川宿

 

二川宿

二川宿

二川宿

 

二川宿

二川宿

二川宿

 

当地は宿場町ではあるが、宿駅業務以外さしたる産業もなく、住民の殆どが農業の従事者であったと言う。

東海道筋とはいえ、その賑わいは街道に面した部分に限られていたようだ。

その外側には田畑が広がり、北側一帯には多くの神社や寺院が配されていたらしい。

 

今日でも、二川宿の通りに人や車の動きは少なく、時折観光らしい人を僅かに見かける程度である。

そんな道路(街道)は、殆ど拡幅されることもなく、道幅はほとんど往時のままだと言う。

街道に沿って建つ間口が狭くて奥が長い町割りも、ほぼ江戸当時のものと変わらないらしい。

 

二川宿

二川宿

二川宿

 

二川宿

二川宿

二川宿

 

二川宿

二川宿

二川宿

 

二川宿

二川宿

二川宿

 

ここでは町を上げて「町づくり会」を作り、町並の景観形成活動を続けている。

「二川宿」「大岩町東」「大岩町中」の三町が、それぞれ三つの協定を基に協働で町づくりを進めているという。

協定に基づいて、景観に調和した建築や既存建物の改修改築を進めている。

建物の形や色、門や塀、付随した設備、自動販売機にまで色彩や、設置の基準を細かく取り決めている。

約束を守るよう努めると同時に、敷地のちょっとした空間にも、小物や草花を飾ることまでを申し合わせている。

 

 

旅篭と木賃宿

 

 宿場の中心に「豊橋市二川宿本陣資料館」がある。

明治に入るまで本陣を務めた馬場家の屋敷を昭和63年から3年余を掛け整備し、一般公開したものだ。

母屋を始め、玄関棟、書院棟、土蔵などが江戸時代の姿に復元されている。

こうした本陣、脇本陣は、大名や公家、幕府公用の役人などが利用した。

 

その東に隣接した「せいめいや」は、公用でない武士や一般の庶民が泊まる旅籠である。

この宿は本陣に入りきらない場合の予備の収容先も兼ねていたようだ。

 

二川宿

二川宿

二川宿

 

二川宿

二川宿

二川宿

 

一般的に宿場の旅篭は、朝と夜に一汁三菜を基本とした食事の提供が有り、現在の旅館のルーツと言われている。

ここには飯盛り女と言われる私娼によるサービスが受けられる宿も有り、これは当時の旅人の楽しみでも有った。

当時の旅の案内書にも、こうした宿の料金が五百文とか、三百文とか書かれている。

何日もかけて歩く旅では、旅篭泊りだけでも当然庶民の懐具合では、毎日ともなると賄いきれない。

 

 そこで野宿を回避するだけの安宿として持て囃されたのが、木賃宿である。

これは、食事は出ない、相部屋が当たり前、寝具の提供もない安宿のことをいう。

食事の提供がないので、旅人は自身で食事の調達を行っていた。

例えば持参した乾飯(携帯食)を戻したり米を炊いたりして、それに簡単な副菜を添え食事を済ませていたようだ。

この場合は自身で米を炊くか、宿に炊いて貰う事となり、その燃料である薪代を払っていたのでこの名が付いた。


 

 

かしわ餅

 

 「レモン柏餅を一つ」

「すみません、土日の限定販売です。日持ちがしないものですから」と申し訳なさそうに、若い女子店員が言う。

『江戸時代の浮世絵に描かれた名物「かしわ餅」と、現在の名物「レモンかしわ餅」を紹介!』

と書かれた表の立て看板に引かれ、試してみたくて訪ねてみた。

 

安藤広重の「東海道五十三次之内 二川 猿ケ馬場」は、境川の手前の猿ケ馬場と呼ばれる丘陵地を描いたものだ。

そこには昔からこの地の名物言う「かしわ餅」を売る茶店が描かれている。

 

二川宿

二川宿

二川宿

 

二川宿

二川宿

二川宿

 

二川宿

二川宿

二川宿

 

ここは江戸から明治、大正期に建てられた田村家の邸宅で、味噌等を商ってきた「東駒屋」の中にある店である。

市の指定を受けた文化財で、復元修復され平成27年に一般公開された建物群だ。

脇門を構えた母屋、離れ座敷、茶室、土蔵等がウナギの寝床のような間口の狭い、奥に長い土地に配されている。

 

 ここの「レモンかしわ餅」は、二川を訪れる人に喜んで食べてもらえる食べ物をと言う趣旨で開発された。

近くの農園が無農薬で栽培した「初恋レモン」を使い、皮ごと練り込んだ餡を、砂糖を入れない餅で包んだものだ。

さっぱりとした甘酸っぱい味に、初恋を感じてもらおうとのことらしい。

宿場に店を構える「中原屋」が作り、「蔵カフェ こまや」でしか食べられない。

 

 帰り際に製造元の中原屋にも立ち寄ってみた。

幾つかのガイドブックで紹介されていた、「本陣饅頭」が目当てである。

「まだ載っているのですね、もう何年も前に作るのをやめたのですよ」と女将が申し訳なさそうに言った。

 

二川宿

二川宿

二川宿


 

その江戸時代の商家・東駒屋の前辺りに、曲尺手が残されている。

地図で確認すると、直角に2回折れるのではなく、菱形に近い広場のような形をしている。

これは直角では車が回れないため、近年になって角を削り広げたからと思われる。

もう一カ所本陣資料館の先にも、曲尺手と思われる箇所があるが、形は崩れていてそれとは直ぐに解らない。

 



 

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