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元白須賀
浜名旧街道には、当時のこの辺りの情景を、豊かな感性で詠んだ歌が二三残されている。 「風渡る 浜名の橋の夕しほに さされてのぼる あまの釣船」(藤原為家) 「わがためや 浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで」(阿佛尼)
「立場立場と 水飲め水飲めと 鮒や金魚じゃあるまいに」
その先には、代々地元の加藤家が務めた立場跡が残されていて、ここでは旅人に湯茶の接待をしていた。 参勤交代の殿様も例外ではなく、休憩する度に水を飲まされウンザリだ、と詠んだこんな戯れ歌も残されている。 殿様も、大事をとって立場毎に休憩を取ることに、些か苛立ちを覚えていたのであろう。
さらに「明治天皇御野立所址」などを見て先に進む。 江戸幕府が崩壊し、時は明治に移り新政府の成立に向け、明治天皇は岩倉具視らを従え、京を旅立った。 東海道を江戸(東京)に向うのだが、街道筋には至る所にこのような、天皇が休憩された場所も残されている。 こちらも事情は同じようなもので、所々で休み休みの、ゆったりとした道中であったらしい。
右手に「火鎮神社」を見る辺りが、白須賀の新町で、更に元町(本宿)へと続く。 かつて「元白須賀」と呼ばれた200戸ほどの村で、元々の「白須賀宿」があった場所である。
32番目の宿場・白須賀は、古くは「白菅」とも書かれ、真砂が集まるところから「州賀」の字が当てられていた。 宿場は、遠州灘に面した海岸にあり、白い灘が広がっている地として、「白須賀」と呼ばれるようになった。 新居からは1里にも満たない距離に置かれていたようだ。
宿場は宝永4(1707)年の地震による大津波で、「あらいの浜よりしらすがの宿おし流す」大被害に遭い壊滅した。 その後宿場はこの先の潮見坂を上った高台に移され、元の宿場は立場として残されている。 今日ここには一里塚跡や、高札場跡なども残されている。 人も車も少ない静かな通りで、家並みの中には当時の面影を残す住宅もあり、旧町の雰囲気を良く伝えている。 旧白須賀の宿場を抜けると旧街道は、右手に蔵法寺を見てその先で右に直角に曲がり、潮見坂の上りに取りかかる。
「遠州七十五里の大灘」と言われた遠州灘を望む地である。 西国から江戸へ向かう旅人が、ここで初めて太平洋の大海原を眼にし、この壮大な眺めに度肝を抜かれたと言う。 この辺り一帯は高師山の急峻な海食崖で、大海原と、遙かに富士山を見通す、東海道でも屈指の景勝の地であった。 江戸(東京)に下る明治天皇もここでは休憩をされ、初めて太平洋を眺めたのだそうだ。
その急な崖を上り下りする坂が「潮見坂」と呼ばれ、この急坂の名勝は既に中世の頃より知られていた。 街道の登り口の標高は10m余、ここから600m程の間に、標高76mまで上る坂は厳しい。 これまで遠江路は比較的平坦地が多かっただけに、久々に味わう急坂である。
「ここまで来て、世界中で非常に高く美しい山、富士山が初めて見えた」 オランダ商館付きの医師として、江戸参府に同行したケンペルも、日記にこう書き残している。 ここは富士山を遠望し、「浜辺の千鳥の声 微かに聞こえ来る」処として、数々の紀行文等でも紹介されている。
急坂を喘ぎながら上り、所々で歩を止め、白波押し寄せる遠州灘を振り返って見る。 絶景が・・・の筈であるが、道に覆い被さる木立は深く、バイパス道路のコンクリート壁等に隠された視界は悪い。 嘗ての景勝の地には、富士の姿は無く、木立の隙間から遠州灘が、僅かに見られるのみである。
「いやぁ〜、キツかったです。疲れました〜ぁ」
やっとの思いで潮見坂を登り切り、汗を拭きながら、街道脇に建つ施設を訪ねてみた。 「距離は600mほどしかないのですがね。キツいですね、私は六年間毎日朝晩上り下りして通学しましたよ」と言う。 坂を登り切った左側にある「おんやど白須賀」で、受付に座る男性がそう答えながら迎え入れてくれた。
白須賀宿の入口にある無料休憩所「おんやど白須賀」は、東海道宿駅開設400年を記念して開館した。 宿場の資料館、案内所、旅行者などの休憩所を兼ねた、白須賀宿歴史拠点施設である。 内部では宿場の概要や移転した経緯、津波の被害の様子などがジオラマやパネルで分かりやすく解説されている。 中でも津波の痕跡の残る地層は、災害は繰り返すことを警告しているようで、興味深い資料である。
館への入り際、建物の周りにピンクのかわいい花を付けた作物が植えてあるのが目に付いた。 件の男性に問うと、「ジャガイモの花」だと教えてくれた。 浜松の三方原台地では、ジャガイモの生産が盛んで、三方原馬鈴薯(男爵いも)というブランドで人気だという。 粘土質の赤土が美味しい芋を育てるらしく、この地も同じ土質で芋が出来、同じ名前で出荷しているのだそうだ。
改めて周囲を眺め回してみると、周辺には赤土の台地が広がっている。 昔の旅のガイドブックでは、「人家の壁の色赤く見ゆるは、手もて赤土を塗れるなり」とこの町を紹介している。 嘗てはこの土を、民家の壁に練り込んでいたようだが、今日目にすることは殆ど無い。
白須賀宿
「おんやど白須賀」を後に、街道を行くと、「潮見坂公園」が有り、石碑が何本も立てられている。 しかしここに公園は無く、敷地には小・中学校が建てられているが、嘗て旧街道は敷地の中を通り抜けていた。 この辺りは明治天皇行幸の折の休憩地で、木立越しで望む遠州灘は、遠江八景の一つ「潮見晴嵐」となっている。
ここから暫く進むと、宿場の中心的な場所となる。 宝永4(1707)年、大地震の津波の被害を受け、潮見坂下の地からこの坂上の台地に移され新たな宿場が開かれた。 やがて人口2,704人、家数613軒、本陣と脇本陣は各1軒で、旅籠は27軒を有する中規模の宿場町となった。 遺構は殆ど残されてはいないが、平入りの低い家並みの道筋には、連子格子の嵌った古い民家も幾らかある。 その内の一つが、昔の旅籠屋の跡・川原氏宅で、建物は湖西市の文化財に指定されている。
宿場の中程に、直角に二回曲げられた道、「曲尺手(かねんて)」が残されている。 敵の容易な侵入を阻む軍事的な目的と、それ以外にも、敢えて先の見通しを悪くする重要な役割もあった。
武家諸法度により参勤交代が制度化され、2年毎に江戸に参府し、1年経って国元に帰る事が義務付けられた。 参勤予定は、細かに決められていたが、全国250余の大名が、街道を行列組んで動くわけであるから大変である。 当然宿場では他の行列とかち合わないか、事前の調査・調整は欠かせず、綿密な予定が組まれていたようだ。
しかし周到な準備でも、天候や自然の異変で予定は狂い、時に行列同士が、街道や宿場で出会うことも有る。 こうした場合、格下の大名は道を譲り、駕籠から降りて挨拶をするのが仕来りとされていた。 如何に仕来りとは言え、主君を駕籠から下ろす事は、行列を支配する供頭には取り返しの付かない大失態である。 そこで道中で出会わないか斥候を先行させ、宿場が近づけば「曲尺手」の先を下見させていたという。 もしもの場合は、近隣の寺院や土豪の屋敷に休憩と称して緊急に立ち寄っていたらしい。
大名の参勤交代は、軍役としての参府で、その為巨費が消え藩財政を圧迫し、藩の体力を削ぐことに成功した。 大名達には難儀であったが、その反面活発に動くことで、日本社会の均質化、地方文化の向上には役立った。 大行列の大名が行き来することで、何よりも街道の整備が格段に進んだのは、最大の恩恵でもあった。
潮見坂の下に有った白須賀の宿場が、大津波で壊滅的な被害に遭い、高師山と呼ばれる丘陵の上に移転した。 津波の心配は無くなったが、何も無い台地上を吹く冬の西風は強く、今度は度々の大火に悩まされる事になる。 当時は藁葺きの家屋が多く、延焼により火災を大きくしていたようだ。
その為宿内では屋根を瓦で葺き、屋根の両側に延焼防止の卯建を上げる事を推奨した。 また、宿内には何カ所かの「火除地」と呼ばれる広場を設け、この地には火に強い槙の木を植えていたそうだ。 槙の木は関東南部より西の各地に自生する常緑針葉樹で、病害虫が比較的少なく、潮風にも強い。 その為、古くから風よけ、火除けの垣根や庭木として利用されている。
境川
「人真似に 我も喰わなん 白須賀の さるか馬場の このかしわ餅」
街道は暫く行くと「夏目甕麿邸跡 加納諸平生誕地」、古い庚申堂を右に見て、やがて旧国道1号線と合流する。 この辺りが、小さな松の生い茂る「猿ヶ馬場」と呼ばれる原山の地で、境宿・立場のあったところだ。 当時から、「猿馬場の茶店に柏餅を名物とす」或は、「あずきを包みし餅 裏表柏葉にて包みたるもの」等と言われる 名物・かしわ餅が知られた地である。
国道1号線に出て、その歩道を300m程行くとやがて農業用水のような小さな川を越える。 うっかりしていると見落として、そのまま通り過ぎてしまいそうな程目立たない川だ。 是が遠江の国と三河の国を隔てる境川で、昔は「板橋八間」と言われる橋が架けられていた。 国を分ける川は、どこでも一様に「境川」と呼ばれていたようだ。
今でもこれが静岡県と愛知県の県境で、川は向こう岸の愛知県が管理をしている。 国道には橋を挟んで「静岡県湖西市」と、「愛知県豊橋市」を示す大きな道路表示板が向き合う形で立っている。 歩道脇の白いガードレールの向こうの草むらには、県境を示す古びた三角柱が隠れるように埋め込まれている。
この小さな境川を越えれば、旧東海道は三河の国へと入っていく。 白須賀から三河国の最初の宿場二川までは、1里17丁(5.8q)の道のりだ。 暫くは単調な国道1号線の歩道を歩く事になる。
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