|
今切りの渡し
地震により陸路が崩壊した東海道は、壊滅した橋本宿に変わり、浜名湖西岸に新たに新居の宿を設けた。 そして東岸の舞阪から次の宿場・新居までの間は、海上一里と言われる「今切の渡し」が行われるようになる。 所要時間は、潮の満ち引きの影響もあるが、およそ1〜1.5時間であったと考えられている。
朝の一番方は午前四時頃の出発、夕方は対岸の関所が日暮れには締まるので、日没前の午後四時が最終だ。 舟は新居の関所の管理で、120艘を所有し、船頭・水夫は360人いたといわれている。 舟一艘借り切りは約百文、乗り合いは一人四銭で、年代と共に高くなっていったと伝えられている。
今日では、陸路を結ぶ永代橋が架かり、新居の宿を目指し歩けば6q弱の道のりで、時間にして1時間半程だ。 車なら15分とかからない距離で、JRなら舞阪〜新居町の間には、途中に弁天島駅があるが、僅か6分ほどの所要だ。 地元の観光協会では、舟渡を想定したクルーズを用意していて、現在の渡しは、何れも早くて安全で便利が良い。
当時の渡し賃は、結構高かったようだが、それよりも心配の種は、やはり身の安全の確保であったようだ。 名にしおう遠州灘の荒波の打ち寄せる中を行く渡し船である、実際に渡船中の事故も度々起こっていたらしい。 事は人命に関わり、事故防止、安全確保のために、海上には数万本もの波よけの杭が打ち込まれていたと言う。 渡し舟はその杭の間を、守られるように進んでいたようだ。
安全対策はされてはいたが、それでも東海道を旅する者、特に女性達は、この今切の渡しを避けたと言う。 調べの厳しい新居関所を避けると共に、今切れという語に不吉を感じていたとも言われている。 又一節には、転覆の危険を避けるのは勿論、舟上に於けるいたずら等の身の危険を避ける意味もあったようだ。
海路を避けた旅人は、浜名湖の北西の本坂峠を越える「本坂越道」、所謂「姫街道」を行くことになる。 道中には厳しい峠越えや、関所もあったようだが、それでもこの道を通る旅人は多かったと言う。 多くは公家の奥方や姫君、お女中衆だが、船酔いの心配のある人や、一般の男も普通に通行はしていたそうだ。
新居の関所
「サァサァ、お関所前でござる。傘を取ってひざをなおさつしゃりませ。」
舟中で蛇使いの蛇が逃げ出し、喜多さんが脇差しで押さえ海に投げ込むが、脇差しも海に落ちて大騒ぎ。 ところが脇差しは海にプカリと浮かび、竹光と知れて二人は大恥を掻いてしまう始末だ。 こんな大騒動を繰り広げた、弥次さん喜多さんたちと乗客に、関所到着を前に船頭が窘める下りだ。
舞阪湊から渡舟で運ばれた旅人も、ようやく安堵の胸を撫で下ろすのは、行く手に新居湊の常夜灯が見える頃だ。 海上凡そ一里の今切の渡し舟は、暫くにして関所の柵内に着岸する。 ここは厳しいお調べで知られる「新居の関所」である。 上陸した旅人は笠を外し、居住いを正し、厳めしいお役人さんの容赦の無いお調べを受ける事になる。
新居の関所は、慶長5(1600)年に創設されたと伝えられている。 それは箱根に関所が設けられるよりも、20年も前のことである。 江戸に幕府を開いた徳川家康が、東海道の中でもこの地を如何に重要視していたかが窺い知れる。
それだけに代々この関所は権威を持ち、厳しいお取り調べが知られていた。 「入り鉄砲」は勿論のこと、「出女」のみならず、「入女」のお調べも殊の外厳しかったようだ。 ここではたとえ武士でも、いちいち輿から降り挨拶をして通らなければならなかったと伝えられている。
海抜2m程の地にある関所は、度々地震による津波や高潮により被害を受けたと言う。 そのたびに移転を繰り返し、二度目は柏原の辺りに、最後にJR新居駅の西側の現在地に移転している。 それは、開所から100年ほども後の宝永5(1708)年の事である。 ここには安政年間に立てられた建物が残されていて、隣接地の新居関所資料館と共に一般に公開されている。 関所の建物が現存するのは、全国でもここだけで、特別史跡の指定を受けている。
今切りの渡しの舟を降り、関所の取り調べをどうにか切り抜けて、大御門を出れば枡形広場が有った。 そこは高札場にもなっていて、定めを書いた高札が立っていえる。そこを抜ければようやく新居の宿である。 今日なら舞阪宿を出て北に向かい、弁天橋、中浜名橋、西浜名橋を渡ると、JRの新居町駅までは凡5qである。 更に700m西進すると関所に至り、そこから先に続くのが旧宿場町の町並だ。
新居関所を出て、宿内を西に進むと疋田弥五郎本陣跡が有り、かつての旅篭・紀伊國屋もある 紀伊國屋は、元禄年間創業の当地では最大級の旅篭である。 何年か前に訪れた時は、内部が公開されていて入館した記憶があったが、この日は表戸が閉じられていた。 時間的にも早かったが、玄関先に「休館中」の札が掛かっていたので、公開を中止しているのであろうが?
関所近くには、改めを受けた女達の髪を結い直す、髪結いの店も多く立地していたらしい。 関所の女改めは殊の外厳しく、身体の隅々を、また髪をほどいて中まで調べていたと言うから徹底している。
旧街道は泉町の交差点で直角に左に折れると、この辺りが宿場の中心地らしく、落ち着いた町並が延びている。 その角に立つのが、建坪百九十六坪を誇る「飯田武兵衛本陣跡」で、さらに「疋田八郎兵衛本陣跡」がある。 「馬寄跡」は、助郷制度で寄せ集められた人馬のたまり場だと言い、先に秋葉の常夜灯、一里塚跡等の遺構が続く。
「あらいの駅に支度ととのえ、名物のかばやきに腹ふくらし休みゐたる」
新居はかつては「荒井」とも「荒堰」とも呼ばれていた。 広重の「東海道五十三次之の図」でも、当地を描いた渡舟ノ図には「荒井」と書かれている。 本陣は3軒、旅籠の数26軒、戸数は797軒あり、人口3,474人と言うから、さほど大きな宿場町ではない。
多くの旅人は、関所を無事に通り抜け宿場に入ると、名物や酒などで無事越えられたことを祝った。 あの弥次さん喜多さんも、関所を抜けると、名物のウナギの蒲焼きを、うらやましいことにたらふく食べたという。 当時は、浜名湖で天然のウナギが水揚げされていたのであろうが、当地の名物は今も昔も変わりが無いようだ。
浜名旧街道
その先で街道は、右に左に短く曲がりながら、宿の西境「西棒鼻跡」に至る。 棒鼻(棒端)は、駕籠かき棒の先端を意味するが、境界地に立つのが杭棒であり、こう呼ばれるようになった。 この傍示杭の多くには、「是より〇〇宿」などと書かれていた。
広重の描く東海道五十三次の図では、「藤川 棒鼻ノ図」として描かれているのが知られている。 新居の西の棒鼻は、街道を曲尺手に曲げ、更に両側から土塁を突き出し枡形にしていたと言う。 一度に大勢の人が通行できないようにする工夫で有る。
旧街道は国道42号線に出て、浜名と言う地を通過する。 昔は橋本と呼ばれた地で、新居に隣接した加宿(かしゅく)として指定されたところでもある。 加宿とは、伝馬制で定める人馬などが、その宿場で調達できない場合、それを補う役割を担った宿のことだ。 ここが「津波で消えた橋本宿」かと思ったが、格段の説明も書かれてはいないので、真意のほどはわからない。
当時浜名湖から流れ出る浜名川には、浜名大橋が架かっていたが、その位置も定かにはわかっていないようだ。 現在でもこの近くには浜名川も流れているし、流れそのものも変わり、旧浜名川と言われるものもあるらしい。 そうした場所からは橋柱と思われる跡が何か所か発見されていて、度々架け替えられたのではとも言われている。
旧東海道は、橋本西の教恩寺の前で国道42号線と別れ、浜名旧街道に入り西に向かう。 国道から離れ500m程行くと、室町将軍・足利義教が紅葉狩りをした「紅葉寺」と呼ばれる寺がある。 街道からは、山に向かって登る石段を見通すだけであるが、今は荒れた跡地となっているようだ。 「苔むした石段の上のそれは跡形もなく廃寺になっていた」(「東海道中膝栗毛を旅しょう」田辺聖子 2016年)。
所々に松並木を残す緩やかなアップダウンを繰り返す道は、車も少なく多くは歩道が整備されていて快適だ。 右手は急傾斜な山の斜面が迫り出し、その裾の窮屈そうな場所に民家が三々五々集落を形成し建て込んでいる。 左手には国道42号と、その向こうに国道1号潮見バイパスが併走する。 その奥は砂丘が延びる遠州灘だが、松の防風林の濃い緑の帯が見えるだけで、残念ながら海は見えない。
(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved. |