浜松宿

 

 馬込橋を渡ると新町で、国道152号線でいよいよ、人口約80万人を擁する浜松市内の宿内へと入って行く。

左手に駅前のビル群を見て、遠州鉄道のガードを潜り直進すると、浜松の中心的な場所、連尺である。

周辺一帯には市役所、市立美術館などがあり、多くの商業施設や飲食店、事務所やオフィスなどが軒を連ねている。

右に曲がれば浜松城・浜松城公園が有るが、東海道はその交差点で左に折れる。


 

浜松宿

浜松宿

浜松宿

 

浜松宿

浜松宿

浜松宿

 

浜松宿

浜松宿

浜松宿

 

町中に入り、連尺に向かう田町の交差点辺りから、その先の通りにかけて随分と賑わっていた。

カラフルなパラソルが立ち、ハンドメイド雑貨の店や、飲食物を提供する店が歩道に立ち並んでいる。

恒例のイベントが開かれていて、出店をのぞき込む人々で歩道は混み合い、歩くのもままならない有様だ。

所々の店先には、椅子も置かれ休憩スペースとなっているが、どこも満席で休めそうにない。

 

浜松宿

浜松宿

浜松宿

 

浜松宿

浜松宿

浜松宿

 

 ここは家康の出世城とも言われる浜松城の城下町であると同時に、東海道29番目の宿場町である。

宿内の人口も6,000人近くいて、当地には本陣が6軒、旅籠はなんと94軒もあり、かなりの規模の宿場であった。

連尺を左に曲がると伝馬町の広々とした通りであるが、町の多くは戦災で焼失し、今日に残るものは何も無い。

道筋には高札場跡、杉浦本陣跡、川口本陣跡、佐藤本陣跡などと書かれたサインが立ち、それで偲ぶのみだ。

 

 

 

 旧街道はその先の成子の交差点で西に向け折れて、今日の動脈、東海道本線や東海道新幹線を越える。

その先で若林一里塚跡見て、次の宿場・舞阪を目指すその距離は、2里半12町(11.1q)と長丁場である。

 

 旧東海道は国道257号線と重なった道で、若林の曲がり角に、「若林二つ御堂」と言われる小さなお堂がある。

名前の通り、道を隔て向かい合うように二つのお堂が建っている。

向こう側に渡りたいところだが、近くに横断歩道も無く、車も激しく行き交う道なので渡れない。

 

二つ御堂

二つ御堂

二つ御堂

 

二つ御堂

二つ御堂

二つ御堂

 

今から850年程前のこと、奥州平泉藤原氏の三代目・秀衡公と、その愛妾の物語が語り伝えられている。

秀衡公が京で大病を患ったと聞いた公の愛妾は、お見舞いに向かう途中この地にやって来た。

ここで行き違った旅人から、秀衡公の訃報を知らされ、愛妾はそれを悼んで北のお堂(阿弥陀如来堂)を建てた。

供養を続ける毎日であったが、気落ちしたのかこの地でついに亡くなってしまう。

 

一方病気が回復した秀衡公は、東国へ下る事に成り、その数日後この地にやってきた。

土地の人から、嘆き悲しみの中で死んでいった愛妾の事を聞かされることになる。

公は感謝を込め、道路の反対側に北のお堂と向き合うように薬師如来堂を建立し、お墓を建てて供養したと言う。

 

二つ御堂

二つ御堂

二つ御堂

 

二つ御堂

二つ御堂

二つ御堂

 

二つ御堂

二つ御堂

二つ御堂

 

 街道の所々に、忘れられてように一本、また一本と松の木が残されている。

更に西進すると、諏訪神社と熊野神社があり、その先の商店の駐車場の隅に古びた「領界石」が建っている。

石には「從是東浜松領」と刻まれていて、堀江領との境界を示す石で、ここまでが浜松領であったことが解る。

その先には旧堀江領の境界を示す石柱も残されている。

 

JRの高塚駅前を過ぎ国道と分かれ、右の旧道に入った可美地区には、「麦飯長者跡」のサインが有った。

街道を行き交う人々には、誰彼の区別もなく湯茶を接待し、空腹の人には麦飯を振舞っていたと言う。

この篤志家を、人々は何時しか「麦飯長者」と敬うようになり、この話しは城下にも知られることとなった。

長者はその褒美で姓を許され、村役人・庄屋を任されるようになり、代々小野田五郎兵衛を名乗るようになった。

その施しは明治維新まで続いたのだそうだ。

 

二つ御堂

二つ御堂

二つ御堂

 

二つ御堂

二つ御堂

二つ御堂

 

二つ御堂

二つ御堂

二つ御堂

 

篠原と言う、かつて立場が置かれた地に入ってきた。

立場とは幕府の伝馬制が定められた折、宿場と宿場の間に、旅人や人夫の休憩場所として設けられた施設である。

その距離が長い場合は、複数の立場が設けられる事もあり、多くは茶屋が湯茶、名物、火種等を提供していた。

 

こうした茶屋の名物は、人気を保ち引き継がれ、残されている場合も多いようだ。

今日、街道筋に残るお菓子屋さんに立ち寄ると、その店の歴史が、意外と古い事を知らされるのも少なくない。

そういったお店には、昔からの名物が、形を変えながらも残されている。

 

二つ御堂

二つ御堂

二つ御堂

 

二つ御堂

二つ御堂

二つ御堂

 

茶屋は、宿場の中にも幾らか設けられていて、宿泊しない旅人の休憩場所ともなっていた。

この篠原には、主に大名など身分の高い人たちが休憩する「立場本陣」が有った。

又、「浅田屋」という茶店もあったが、こちらは庶民向けで、ここにも身分による使い分けが行われている。

 

 篠原立場本陣跡、篠原一里塚跡、坪井村高札場跡や、馬郡村高札場跡などを確認しながら西進する。

JR舞阪駅近くの交差点の角に、奈良の春日大明神より勧進したと伝わる「春日神社」があった。

それを過ぎると、やがて前方に見事な松並木が見えてくる。

 

 

舞阪の松並木

 

 やがて道路幅が急に狭まり、有名な舞阪の松並木道に入ってきた。

松並木は、慶長91604)年、徳川幕府の命により、街道の整備が始まり、黒松が植えられたのが始まりである。

当地には馬群村の領界から舞阪宿の入口(東の見付)まで、8町40間(凡そ920m)の間に1,420本の立木があった。

 

 その主なルートは、大正91920)年に「国道路線第一号」となった。

今で言う国道1号線であるが、是により道路の整備も進み、結果多くの松が切り倒された。

その後も台風で倒れ、病害虫や自然枯で朽ち、更に道路の拡幅などで伐採が進み減少していった。

 

 そうした環境の変化に耐え、生き残ったのが舞阪の松並木で、700m程の間に、330本程が残されている。

中には自然発芽したのか、植樹なのか、幾らかの若木も見受けられ、往時の姿がよく維持されているという。

 

舞阪の松並木

舞阪の松並木

舞阪の松並木

 

舞阪の松並木

舞阪の松並木

舞阪の松並木

 

舞阪の松並木

舞阪の松並木

舞阪の松並木

 

松並木の中に、「舞阪橋跡」の案内が有った。

ここには舞阪宿で唯一と言う、長さ7尺、横三間の「舞阪橋」と呼ばれる土橋が架かっていたらしい。

土橋は定期的な修繕が必要で、保全に手間暇が掛かり、やがて板橋に掛け替えをしたと伝えている。

 

又「旧東海道五十三次銅板」、「十二支の石造」などのモニュメント、木造の常夜灯や記念の石碑なども多い。

松並木を抜けると旧東海道は、左から来る国道1号線と交差する。

その手前の三角地が小公園になっていて、トイレが設けられ、よく手入れされた花壇等がある。

 

舞阪の松並木

舞阪の松並木

舞阪の松並木

 

舞阪の松並木

舞阪の松並木

舞阪の松並木

 

公園の中央に、遠州七不思議の一つである「浪小僧」の像が立っている。

『昔漁師の網に真っ黒な小僧がかかった。漁師は気味悪がって小僧を殺そうとすると、小僧はこう言った。

「助けてくれたら天気が変わり、海が荒れる時、海底で太鼓を叩き漁師に教える」と言うので海に返してやった。

それ以来天気が変わる時、海鳴りがするようになり、漁師達はその方角から天気を知るようになったと言う。』

 

 

舞阪宿

 

 新町で国道を横切り直進すると、舞阪宿の宿場通りへと入っていく。

どうやら町の名産「しらす」を蒸し上げるものなのか、どこからともなく鼻腔をくすぐる良い匂いが漂ってくる。

街道筋やそこを少し奥に入った所々に、名産の「しらす」、特産の「ぶち海苔」の看板を掲げる店が構えている。

 

遠州灘は、植物性プランクトンが生まれ易く、それを餌とする動物性プランクトンの発生も多くなる環境にある。

結果、黒潮に乗ってやって来るシラスが、群れとなってその餌を求め遠州灘に集まり、それを漁獲する。

水揚げされたシラスは、セリにかけられ、地元の加工場でその日の内に処理される、それが旨さの秘訣という。

 

舞阪宿

舞阪宿

舞阪宿

 

舞阪宿

舞阪宿

舞阪宿

 

 「前坂とも書す。いにしえは舞沢、或は舞沢松原と言ふ」

 

南には太平洋の遠州灘が広がり、北には浜名湖が控える舞阪宿は、東海道30番目の宿場である。

予てより浜名湖を舟で渡る渡船場があり、その中心は、浜名湖岸の西町にあったと言う。

「荒井よりの渡船、舞阪に着岸す」と古文に記録が残されていて、宿場の西の外れが新居に渡る渡船場であった。

東見付から800m程の町並は、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒、戸数265軒、人口1,204人という規模である。

 

舞阪宿

舞阪宿

舞阪宿

 

舞阪宿

舞阪宿

舞阪宿

 

舞阪宿

舞阪宿

舞阪宿

 

舞阪宿

舞阪宿

舞阪宿

 

 宿場通りに入ると、東の入口である見付跡には石垣があり、新町や仲町には秋葉神社常夜灯が立っている。

日本橋から68里(およそ267q)の一里塚跡が有り、南側は消滅し、北側の塚が僅かに残っている。

更に進むと、仲町の常夜灯が有り、伝左衛門本陣跡、徳右衛門本陣跡、問屋場跡等が続いている。

 

宿場の中程に、天保91838)年に建った旧脇本陣「茗荷屋」の、上段の間がある書院棟一棟が残されている。

大正時代には役場として利用されていた建物を、解体し修理・復元したもので、無料公開されている。

 

旧脇本陣「茗荷屋」

旧脇本陣「茗荷屋」

旧脇本陣「茗荷屋」

 

旧脇本陣「茗荷屋」

旧脇本陣「茗荷屋」

旧脇本陣「茗荷屋」

 

旧脇本陣「茗荷屋」

旧脇本陣「茗荷屋」

旧脇本陣「茗荷屋」

 

建物は間口五間、奥行き十五軒と言う細長い造りで、是は東海道に唯一現存する脇本陣の遺構である。

入口の板の間に立つと、中間の坪庭を挟んで手前に二間、奥には上段の間に至る三間続きが良く解る。

坪庭と一番奥の縁側からは明るい日差しが入り込み、遠州灘から吹く風が各間の上を爽やかに通り抜けている。

 

旧脇本陣「茗荷屋」

旧脇本陣「茗荷屋」

旧脇本陣「茗荷屋」

 

旧脇本陣「茗荷屋」

旧脇本陣「茗荷屋」

旧脇本陣「茗荷屋」

 

旧脇本陣「茗荷屋」

旧脇本陣「茗荷屋」

旧脇本陣「茗荷屋」

 

 脇本陣を出て、左に折れ西進すると宿場外れに常夜灯の立つ辻があり、目の前に浜名湖と魚市場が見えてくる。

ここら辺りが、明暦31657)年から4年余りかけて構築された、史跡「北雁木」と言われる場所だ。

 

「雁木」とは、階段状の船着き場の事で、東西15間、南北20間の石畳が、街道から水際まで敷かれている。

この宿場の西側には、荷物中心の南雁木、一般の旅人用の中雁木、とこの北雁木の合計3カ所が設けられていた。

現存する北雁木は、主に大名や幕府の公用人が利用したと言う。

 

 

幻の橋本宿

 

 「南は大洋にして三州地より豆州下田まで海里七十五里、是を遠州灘といふ」(東海道名所図会)

 

「昔舞沢のほとより 浜名の橋までに続きて みどりの松生連なり、水うみ塩海を隔てて中に一筋の大路あり」

当時、浜名湖は閉じた淡水湖で、太平洋との間には「並木敷」と呼ばれる、美しい松並木の道が伸びていた。

舞阪から次の宿場に至る地は、遠州灘や浜名湖畔の風光明媚なところとして人気で、旅人を引きつけていたと言う。

 

舞阪宿を出ると街道は、浜名湖に向かい西進し、その先で湖から流れ出る浜名川に架かる浜名大橋を渡る。

それは枕草子にも名が出てくる古い橋で、長さはおよそ170mあったらしい。

橋を渡れば暫くして東海道31番目の宿場・橋本(新居宿の前身)である。

 

幻の橋本宿

幻の橋本宿

幻の橋本宿

 

幻の橋本宿

幻の橋本宿

幻の橋本宿

 

幻の橋本宿

幻の橋本宿

幻の橋本宿

 

幻の橋本宿

幻の橋本宿

幻の橋本宿

 

幻の橋本宿

幻の橋本宿

幻の橋本宿

 

 ところが室町時代、明応7(1498)年8月28日、御前崎沖の南海トラフ沿いで大地震が発生した。

大地を激しく揺らし、巨大な津波を起こし、太平洋沿岸の各地を襲い、当地も大きな被害を受けることになる。

「一里余ノ波シトナリ」、松並木の街道は、大地が割れ、脆くも崩れ、「是ヲ今切ト号ス」大被害が発生した。

浜名湖は外海と繋がり汽水湖となり、橋本宿は消滅し廃止され、新たに対岸に新居宿が開かれた。

こうして橋本宿は、今では幻の宿場町となり、次の宿場までは、今切の渡し船が運航されるようになった。

 

 今切の北雁木から浜名湖を望めば、遙か先に国道1号線バイパスに架かる浜名大橋の大きなアーチが見える。

北を見れば、国道1号線と東海道本線、東海道新幹線が一つの束になって、この今切れを橋で渡っている。

この地はまさに、太平洋岸の東西を結ぶ大動脈である。

 



 

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