見附宿・行人坂

 

 江戸は文化年間、日向の国、佐土原の修験者(山伏)が、広い範囲を旅して廻る回国者として旅立った。

名は野田成亮(しげすけ)と言い、修験者としての院号を泉光院と名乗っていた。

長い時間をかけ国(この場合律令制度による国内の諸国)を回る事を回国、その旅人を回国者と言った。

 

野田泉光院の回国の旅は6年2ヶ月にも及び、その間に歩いた距離は、2万qを遙かに超すと言う。

托鉢の旅で、夜は善根宿や知人宅での泊まりを重ね、ほぼほぼ無銭旅行に近かったようだ。

従者を連れたその旅の期間中、毎日「日本九峰修行日記」と題する日記を綴っている。

(「大江戸泉光院旅日記」 石川英輔 1997年5月 講談社)

 

見附領・行人坂

見附領・行人坂

見附領・行人坂

 

見附領・行人坂

見附領・行人坂

見附領・行人坂

 

見附領・行人坂

見附領・行人坂

見附領・行人坂

 


 東海道は見附宿に入り、「行人坂」にやって来た。

行人とは山伏のことで、昔はこの辺りに多く住んでいて、村の祭りなど社会奉仕に携わっていたらしい。

この町は昔から、寺院や神社が多く点在しているのが特徴で、その為行人も多かった。

こうした行人が方々に住み、疫病退散や豊作祈願など、庶民農民の為のご祈祷を気軽に行っていたようだ。

 

野田泉光院は旅の途次、度々各地の修験者(山伏)を訪ねている。

その日記によれば、予め所在を知った上での訪問と思えるふしが多々ある。

このことから、地方の余り名も知られていないような村々にも、一人や二人の修験者が住んでいたことが解る。

 

その先の秋葉灯籠の建つこの辺りの地名を富士見町と言う。

京から上る旅人は、ここに来て初めて富士山を見付けたことから、「見付」「富士見町」と言うらしい。

 


 

見付宿

 

 宿に入る前の行人坂の辺りに、「遠州鈴ヶ森」と言う刑場跡があったようだが、うっかり見落としてしまった。

稀代の盗賊、白浪五人男の首領、日本左衛門(本名、浜島庄兵衛)が処刑されたのがこの場所らしい。

彼らは遠江の国を本拠として、街道筋を荒らし回った窃盗団である。

手配された後、逃げ切れないと知り奉行所に自首した後市中を引き回しの上処刑されている。

(他にも江戸伝馬町の刑場で処刑されたという説もあるらしい)

 

見付宿

見付宿

見付宿

 

見付宿

見付宿

見付宿

 

 宿場を一望する愛宕山(阿多古山)に鎮座する愛宕神社のある辺りに阿多古山一里塚がある。

ここが東の見付で、そこには木戸風のモニュメントが置かれている。

見付の宿場は、古くは「うみつけのみち」が転化したと言われている。

本陣が2軒、脇本陣は1軒、旅籠の数は56軒もあり、宿内の人口も4,000人を数えていた。

 

しかし今日旧街道には、当時を思い起こすものは何も残されていな。

賑やかな町並の銀行のある辺りが問屋場跡、その向かい側に脇本陣・本陣跡等があるがサインで知るのみである。

そんな中、明治八年に建てられた現存最古の小学校が残されている。

五階建ての塔を持つ白亜の旧見付学校が緑の森の中美しい姿を見せている。教育資料館として使われているらしい。

玄関の柱はエンタシス様式を取り入れたモダンな建物らしいが、通りから眺めるだけだ。

 

見付宿

見付宿

見付宿

 

見付宿

見付宿

見付宿

 

 町中に「町並案内処」を掲げたお菓子屋さんがあり、「名物 あわもち」の幟旗に引かれ立ち寄ってみた。

当地には、矢奈比賣(やなひめ)神社(見付天神)が鎮座していて、鎌倉時代より続く祭礼が行われている。

ここでは、人身御供が行われていて、その年に取れた粟で餅を作り、共に神前に備えていたという。

その後習慣は無くなり、餅だけを奉納するようになり、それをお土産として売り出したのが「粟餅」だ。

 

 粟と餅米で作った餅をこし餡で包んだ、丁度伊勢名物の「赤福」のような餅である。

やや歯ごたえのあるお餅に、きめの細かいあっさり餡が絡み殊の外美味しく渋いお茶には良く馴染む。

この店では、国産の粟が減少する中、通年販売に拘っているらしい。

 

見付宿

見付宿

見付宿

 

店を出て、教えられた店の前を進み、その先の広い通りを左折し南進する。

その角の道標には「遠州見付宿 これより姫街道 三州御油宿まで」と書かれている。

ここを直進すると所謂姫街道で、ここは東海道と姫街道の追分けに当たる場所である。

 

見付宿

見付宿

見付宿

 

見付宿

見付宿

見付宿

 

姫街道は正式には「本坂越道」という。

追分けを真っ直ぐ進み天竜川を越え、浜名湖の北を迂回し三州三河の御油宿まで、凡そ60キロで結ぶ街道だ。

途中に本坂越えの難所が有り、気賀の関所も待っているが、本街道に比べるとお調べは緩かったと言われている。

その為、本街道浜名湖の舟渡しを嫌い、新居の関所のお調べを避けた大名家のお姫様などが行列を組んで通行した。

それがこの街道の別名の起こりと言われている。

 


 

天竜川の渡し

 

次ぎの宿場、浜松までは4里7丁(16.4q)の長丁場で、途中天竜川を越えていく。

西坂町の交差路で、真っ直ぐに延びる細い道を行くと、一里近くで天竜川河畔の池田という古駅の地に出る。

嘗ては、そこで天竜川を渡しで越えていた。

しかし東海道はここでほぼ直角に左に曲がり、JR磐田駅を目指し南進した後西に折れ、天竜川を目指している。

直進した方が距離的には近いようだが、渡し場の位置が時代により多少南北にずれたことによるものらしい。

 

天竜川の渡し

天竜川の渡し

天竜川の渡し

 

天竜川の渡し

天竜川の渡し

天竜川の渡し

 

見付の中心部から南に1.6qほど下った東海道は、JR磐田の駅近くの東町で進路を西に変える。

その後単調な県道261号線を3qほど行き、森下の交差点で左の旧道へと入る。

所々に残る松の木の中に、宮之一色一里塚跡や若宮八幡宮の森を見て西進する。

その先が長森で立場が有り、名物の「長森かうやく(膏薬)」がお土産品として人気を博していた。

 

天竜川の渡し

天竜川の渡し

天竜川の渡し

 

天竜川の渡し

天竜川の渡し

天竜川の渡し

 

この先が渡し場かと思ったが、どうもそうでは無くもう少し上流らしい。

堤防下の道を右折し、その先で旧国道を横切り、住宅地に残る常夜灯を見て左に折れる。

再び正面に堤防を見て、それを登ると東岸には立派な渡し場跡の石碑が立てられていた。

当時の天竜川の渡しは、今の旧国道1号線に架かる天竜川橋より少し上流にある、池田と言う地で行われていた。

 

天竜川の渡し

天竜川の渡し

天竜川の渡し

 

天竜川の渡し

天竜川の渡し

天竜川の渡し

 

天竜川の渡し

天竜川の渡し

天竜川の渡し

 

「天竜川 川幅十町許 一ノ瀬、二ノ瀬の二流となる 舟渡也」

 

天竜川は、信州の諏訪湖を源流とし、太平洋の天竜灘(遠州灘)に流れ出る一級河川である。

流れも速く、深みもある事からここでは古くから舟渡しが行われていた。

下流域の川には大きな中州が出来ており、川の流れは見付側を小天竜、浜松側を大天竜と呼んでいた。

この中州が舟を乗り換える場で、その様子は広重描く「東海道五十三次之内 見付 天竜川図」でも見て取れる。

 

その渡しの舟賃は、「武士には舟賃なし 商人百姓には銭六文をとる」と言われていた。

武士が一番偉いとされる江戸期、その優遇に比べ、ここでも身分による扱いの違いがあり、庶民には負担であった。

その船賃も時代による変遷があり、十六文との記録も残されている。

 

天竜川の渡し

天竜川の渡し

天竜川の渡し

 

天竜川の渡し

天竜川の渡し

天竜川の渡し

 

天竜川の渡し

天竜川の渡し

天竜川の渡し

 

渡船は明治まで続き、ここに舟橋が架けられるのは、明治7(1874)年の事である。

その後木橋に架け替えられているが、その場所が石碑の立つ当りらしい。

堤防道を1キロ程下流に戻り、国道に出て右折し、1933年に旧国道1号線に完成した919.5mのトラス橋を渡る。

橋からは浜松駅前のランドマークが望まれるが、浜松宿まではまだ2里半も残っている。


 

 

中の町

 

天竜川を渡り終え左に折れると中の町で、ここには立場(休憩施設)が有り、船橋・木橋跡が残されている。

明治元年に天皇東幸の際、急遽架橋が行われる事になり、急場凌ぎで二日間だけ仮設の舟橋が架けられたところだ。

その少し先には、「舟橋」を架けた、浅野茂平の業績を称える立派の石碑が立っている。

 

「舟橋」とは、小舟を並列に並べ結び付け、川幅一杯に渡し、その上に平板を乗せた仮設の橋だ。

このままだと下流側に流され、湾曲してしまうので、色々な対策が打たれている。

水中に杭を打つ、舟に重りを結びつけて沈める、又太綱を両岸に渡し縛り付ける等様々な工夫をしていた。

 

中の町

中の町

中の町

 

中の町

中の町

中の町

 

 当時は将軍や朝鮮通信使が通る場合、急遽舟橋が造られていたが、これを大名が渡ることは固く禁じていた。

東京と神奈川を隔てる六郷川では、将軍家に献上される象を渡すために、舟橋が架けられたという説も有る。

維新の折にも同様な橋が架けられた記録が方々に残されているらしい。

 

 越中富山では慶長年間に神通川に「舟橋」を架けたという記録が残されている。

その様子は、広重の「六十余州名所図会」でも詳細に描かれている。

又江戸時代、全国を歩いた修験者の野田泉光院も、その様子を日記に「当所舟橋日本第一也」と書き残している。

当初は32舟を並べその上に板を渡しただけのものであったが、橋から落ちて亡くなる人も多かったらしい。

その後舟を68艘に増やし、2条の鉄鎖で繋ぎ 7枚の板を並べ、120m余りの川を渡っていた。

橋は明治に入っても暫く使われていたらしい。

 

中の町

中の町

中の町

 

中の町

中の町

中の町

 

天竜川の西岸は、富田・一色に船着き場が有ったと言われている。

舟を下りた旅人は少し南下して六所神社のある辺りで右に折れ、東海道に戻り西岸の「中の町」を通り抜けていく。

「中の町」は天竜川舟渡の西側の拠点でも有り、また姫街道(本坂道、鳳来寺道)追分の交通の要衝でもある。

天竜川を下ってきた筏の陸揚げ地として、さらに製材業の町としても賑わっていた。

この川では150年前から続く花火の打ち上げが、夏の風物詩となっている。

 

 東海道五十三次の宿場の中間は、27番目の袋井宿で、「ど真ん中宿場」をうたっている。

また袋井宿の東に有る仲道寺は、「東海道ど真ん中」を名乗っている。

本堂普請の折り江戸と京都の人足がその距離を歩測したところ、この位置で両者が出会った事からだ。

しかし距離的にはこの地が、京からも、江戸からも丁度六十里の地点にある。

東海道の丁度真ん中にあることから、「中の町」と呼ばれるようになった。

 

中の町

中の町

中の町

 

中の町

中の町

中の町

 

中の町

中の町

中の町

 

中の町

中の町

中の町

 

中の町を後に、浜松宿を目指す。

安間川に架かる安間橋を渡り、浜松バイパスを越え既に市街地に入っているのに、中々宿場の中心に行き着かない。

やはり宿場間4里7丁(16.5q)の道のりは、うんざりするほどの長距離である。

 

 街道筋には、中の町村長を務めた歌人で、嵐山光三郎が薫陶を受けたという「石垣清一郎」の生家があった。

東入口の「東橋跡」、明治末から昭和の初めに浜松から中の町間を走った「軽便鉄道軌道跡」等のサインもある。

金原明善は、明治時代の実業家で、天竜川流域の植林事業に貢献したと良い、その生家も街道筋には残されていた。

 

中の町

中の町

中の町

 

中の町

中の町

中の町

 

中の町

中の町

中の町

 

中の町

中の町

中の町

 

 所々に松並木の残る道を進み、六車神社を見て、子安の交差点の先で琵琶橋を渡る。

街道筋の建物の上には、駅前のランドマークタワーが見え隠れし、中心地が近いことは間違いない。

しかしそのタワーが、歩けど歩けど中々近づいては来ない。

天神町から相生町を抜け、馬込の一里塚を過ぎると、やがて馬込川に架かる馬込橋が見えてくる。

橋を渡ればそこは新町で、この辺りが東の木戸跡、東海道はいよいよ浜松の宿内へと入っていく。

 



 

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