|
東海道のど真ん中
東海道は江戸と京の間に53の宿場が置かれていた。 袋井宿はその27番目で、東からも西から数えても丁度真ん中、どまん中である。 先ほど通り過ぎてきた学校正門にも「東海道五十三次どまんなか東小学校」と書かれた木札がかけられていた。 ここでは役場も商工会も小学校や中学校等までが、枕詞として「ど真ん中」を頭に付けて名乗っていると言う。 町中にはそのものズバリの「どまん中」という店まであると言うから、その徹底ぶりには驚かされる。
右に市役所を見て天橋(あまばし)を渡ると、ここが袋井宿の東の入り口に当たる場所だ。 その橋の袂に立つ大きな案内板を見て町中を進むと、秋葉山常夜灯が有る。 一般的な常夜灯は石造の灯籠型が多い中、ここの物は珍しい木造の屋形造りである。
四本の柱で支えた大きな屋根には瓦が葺かれ鬼瓦が置かれて居る。 屋根を支える木組みも見事で、柱間には彫刻が見事な欄間や、格子の嵌った連子窓になった凝った造りだ。 同市にはこのような木造と、石造りの常夜灯が14基残されているのだそうだ。
「四方を丘に囲まれた中に田圃が開け、その中に田畑を潤す大きな井泉があり、袋の如し」 その昔、袋井の町はこのように言われた地で、このことから「袋井」と呼ばれるようになった。 今でもこの辺りの平野では、米麦を始め、温室メロンや茶の栽培が盛んらしい。 東海道はそのど真ん中、袋井の宿に入ってきた。
東海道どまん中茶屋
天橋を渡ると「東海道どまん中茶屋」の暖簾を飾り、「御休處」を掲げる茶店風の建物が有った。 東海道宿駅制度開設400周年記念事業の一環で造られた施設で、平成22(2010)年には10周年を迎えている。 これは広重が描いた「東海道五十三次 袋井出茶屋ノ図」をモチーフにして建てられた。 宿場を訪れる観光客の案内所・休憩所であり、市民の憩いの場ともなっている。
立ち寄ってみると、ボランティアスタッフが詰めていて、お茶でもてなしてくれる。 「広重の絵を忠実に再現しているンです」と、指さす道標には1羽の鳥がとまっていた。 言われて広重の絵と見比べると、画面の右端には高札にとまる小鳥がこれと同じように描かれている。 茶店の前に植えられ大きなエノキも、広重の画を模したものだと言う。
「程なく袋井の宿に入るに、両側の茶店賑しく、往来の旅人おのおの酒のみ、食事などしてゐたりけるを・・」
袋井宿に入った弥二さん喜多さんの第一印象である。 宿場は東西が5町15間(約572m)で、その間の人口は843人、家数195軒と言う規模だ。 意外と小規模ながら、ここには旅籠が50軒あり、飯盛り女も他の宿場と同じようにいたという。 本陣も田代・中大田・西大田の3軒も有ったというから、宿場の規模の割には多い方である。
広重の描く、「袋井 出茶屋ノ図」でもわかる通り、茶店は随分と賑わっていた様子だ。 当時の旅人も「東海道どまん中宿場」に興味を引かれていたのであろうか。 お国への土産話にと興味を引き、旅籠泊りや茶店で休むなどで、より多くの利用があったようだ。
旧街道沿いにある東本陣跡(公園)を見て進む。 原野谷川に架かる静橋の袂、JRの駅辺りから延びる道との交差点角には、袋井宿場公園が有った。 袋井宿の中心的な場所で、大木戸をイメージした物なのか瓦葺きの門や、常夜灯、東屋などが設けられている。
「東海道どまん中茶屋」で休ませて頂いた後、丁度昼時でも有り、「手頃な食事の出来る店は?」と尋ねてみる。 すると、すぐ前に美味しい魚の割烹や、その少し先にウナギの店があると教えてくれた。 さすがに昼から贅沢も出来ず、再び街道を歩き始め道中で手頃な店を捜すことにしたが、なかなか見付からない。
それでもしばらく歩いて、通りに有った小さなカフェを見付け、昼食を取りに入る。 入口に書かれていた、本日の軽食セットを注文し、「東海道を歩いている」と女主人に話す。 「じゃァ、元気が出るように野菜一杯にしときますね」と、気持ちの良い返事が返ってきた。 カウンター席に腰を下ろすと、卵ふわふわのオムライスと、一杯に盛られた野菜を出してくれた。 女主人と殊の外話が弾み、途中から何人かの常連客も加わって思わぬ長居をしてしまった。
更に県道を越え街道を進むと、その先に西の入り口に当たる御幸橋がある。 「從是 袋井宿」の榜示杭が立ち、石造りの秋葉灯籠があり、高札場に高札が復元されている。
説明によると、かつては水害に見舞われることも度々で、宿場の周りには土塁(土手)を多く見かけたらしい。 しかし今日の袋井宿の町並みの中にそれは、何の変哲もなくごく普通の通りである。 この宿場内には、当時を偲ばせる歴史的な建造物などは何も残されてはいない。 しかし、「東海道ど真ん中宿場」を謳うだけに、所縁の場所には幾つかの公園等よく整備されていた。
少し先に進むと、左側に建つモダンな木造の白い建物が目についた。 説明に依れば「旧澤野医院」の建物で、市の指定文化財に指定され「澤野医院記念館」として公開されている。
間口が10.5間は、街道筋では取分け大きな建物だという。 表の建物からは全体を窺い知ることは出来ないが、奥行きが29間もあり敷地は広大だ。 この地で代々医者として開業していたのが当家である。 江戸末期から昭和にかけて使われてきた病棟や居宅、渡り廊下などが残され、庭園もあると言う。 古い建物は幕末から明治の初期にかけて建てられたものらしい。
木原畷
袋井から次の宿場見附までは凡そ一里半、6キロの行程で、時間にして1時間半ほどだ。 宿内を出た街道は川井で一旦県道に合流し、暫くして松橋を過ぎると右の旧道にとり、木原の集落に入り込む。 木原には江戸から数えて六十一里目の一里塚が、住宅地の中にある。 本来はこの場所から60m東に有ったが現存せず、新たにこの地に原寸大で復元されたものである。
集落中程の右側に、嘗ては熊野権現祠と言われ隆盛した許弥(こね)神社がある。 その社前には、「古戦場 木原畷」と「徳川家康公腰掛石」の碑が立てられている。 家康と信玄が戦った三方原の合戦の前哨戦の地として知られる「木原畷の戦い」の場所らしい。 徳川勢は信玄からの追撃を受けるが、殿の本田忠勝などの奮戦もあり、浜松城に無事帰還できたという。
よく知らないがここは、武田勝頼の斥候笹田源吾に由来する「木原大念仏」の発祥の地でもあるそうだ。 源吾がこの地で討ち取られると疫病が流行り、祟りではと言われるようになった。 そこで、村人が慰霊のため墓の前で踊りをしたのがその起源だという。
ひなびた風情の残る木原の旧道を抜け、再び県道に出て道なりに進む。 やがて国道1号線が右から近づき、太田川を越える三ヶ野橋が見えてくる。
古の街道
三ヶ野橋を渡ると、正面に三ヶ野台と言われる小高い山が見えてくる。 国道1号線は、この小山を避けるように直ぐに右におおきくカーブし、離れていく。 一方、旧東海道は真っ直ぐにこの小高い山を目指す上り道となる。
ここには僅かながら松並木の残された道が延びている。 途中を左に取ると、「鎌倉時代の古道」と案内があるが、ルートが判然としないので迂闊には行かれない。 さらに暫く行くと道は山越えの様相を呈し、急な上りに転じ、その上り口に「明治の道」の石碑が建っていた。 この道が旧東海道に変わり明治になって整備された道らしく、国道1号線が開通する以前の道と言うことになる。
この三ケ野台に上る道は、さほど距離は無いが、思いのほかに勾配がきつく、歩きには結構辛かった。 坂の途中には「江戸の道」を示す路標が、山の中に切り開かれた細い道へと導いていた。 古の「左坂の上、みかのの権現宮あり」と言われる古宮を経由する道のようだ。 地図で確認すると更に高台にある大日堂を目指しているようだ。
ハイカーが歩ける道なのか、入口に道路図などの案内板でもあれば良いのにと思う。 このまま緑のトンネルと銘打った明治の道を上れば、標高40m余り、三ケ野台の上である。 起伏のない台地上に住宅街が広がる中に道が延びている。 丁度この辺りが東の木戸跡であり、嘗ての立場跡(峠の茶屋)である。
「鎌倉の古道」も「江戸の道」にも興味は引かれたが、流石に様子の分からない古道に踏み入る訳にはいかない。 この草深い時期にうっかり踏み込んで、蛇蝎(だかつ)の如き嫌う、あの長いものに遭遇するのも御免蒙りたい。 四国八十八カ所の遍路道では、山道や田畑の畦道など草の茂る道で時々出会している。 あれだけは大の苦手で、今思い出すだけでもぞっとする。
(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved. |