掛川新町の七曲がり

 

旧道はやがて掛川の新町にさしかかる。

昔はこの辺りに掘り割りがあり、橋を渡ると江戸方の見付けに当たるご門が有った。

ここからが有名な「掛川新町の七曲がり」である。

今日ではそのまま直進すれば、300m程の距離で宿場の中心の連尺に至る。


 

新町の七曲がり

新町の七曲がり

新町の七曲がり

 

新町の七曲がり

新町の七曲がり

新町の七曲がり

 

しかし当時のこの七曲がりは、宿内で七度も角を折れた後に連尺に出る。

大凡の目算でまず左に折れ100m、右に120m、左に50m、右に150m、右に70m、左に100m、右に80mである。

昔はこの道一筋であるから、旅人は迷うこともなかったのであろう。

このように何度も折れ曲がりながら進むと、終点には木戸と番所があり、そこは高札場となっていた。

 

新町の七曲がり

新町の七曲がり

新町の七曲がり

 

新町の七曲がり

新町の七曲がり

新町の七曲がり

 

当時街道が通り抜ける宿場では、容易に敵を侵入させないための様々な方策が取られていた。

宿場の出入り口には土塁を築き、門を設け番所を置くなど、見附と言われる場所を設けた。

道路は敢えて部分的に道幅を狭くする箇所を設け、更に道を鈎の手に幾つも折れ曲げる枡形などにした。

これは大群が一気に宿内になだれ込まない工夫で、しいては江戸の治安維持の役割も果たしていた。

 

 

掛川宿 

 

 掛川新町の七曲がりを抜け、宿場の中心連尺にやってきた。

通りの両側はアーケードの商店街だが、車道に車の流れはあるものの、歩道に買い物に歩く人の姿は殆ど無い。

どの地方都市も疲弊しているのか、嘗ての宿場の中心はどこも同じような状況を見せている。

 

当時この宿場の人口は3,443人、家数は960軒、本陣が2軒あり、旅籠は30軒あったと言う。

連尺の道の右側に沢野屋本陣跡があり、その先の中町の左側に淺羽屋本陣跡が有る。

しかし何れも案内表示のみで、古いものは何も残されていない。

 

掛川宿

掛川宿

掛川宿

 

掛川宿

掛川宿

掛川宿

 

中町の交差点にある銀行の壁に、山内一豊とその妻千代の浮彫刻が飾られている。

若き一豊が名馬を欲しがったところ、夫人は密かに蓄えていた貯金を静かに夫の前に差し出した。

この金で名馬を手に入れれ夫は願いを叶え、武士の妻の鑑とされる逸話に纏わるものだ。

この地は、戦国時代に山内一豊が城主として10年間治めた場所である。

一豊は城の整備を進め、天守閣や大手門の建設をし、城下町の整備、大井川の治水工事等に力を注いだという。

 

掛川宿

掛川宿

掛川宿

 

掛川宿

掛川宿

掛川宿

 

街道は、右手の高台に聳える3層の掛川城を望ながら、西進する。

天守は江戸時代に起きた東海地震で倒壊し、以後再建されることもなかった。

平成に入り漸くのこと、地元企業などの募金により本格的な木造で再建されたという。

城は小高い龍頭山に築かれた平山上で、街道のいたるところから天守を望むことがでる掛川のシンボルだ。

 

掛川宿

掛川宿

掛川宿

 

掛川宿

掛川宿

掛川宿

 

中町の円満寺の前には、復元された城の「蕗の門」が建っている。

廃城後に寺が買い取り、町中に引き合うよう柱を切り詰め山門として再建したものだという。

次の宿場袋井へは、二里十六町、9.6qの道程が待っている。

 

 

 

宿内を抜け常夜灯の立つ角を右折し、下俣川を渡ると街道は北に進路を変える。

この辺りの地名を「十九首」と言い、このおどろおどろしい地名は、「じゅうくしゅ」と読む。

道路脇に「十九首塚50m」の案内があり、それに従って右折し細い道に入ってみる。

 

 住宅や公民館が建ち並ぶ静かな通りに入り込み直進すると、どうやら突き当たりが逆川の堤防らしい。

その手前に右に折れる狭い道があり、その先が平将門の首級を祀る史跡公園になっていた。

そこには将門の五輪塔を中心に、卒塔婆風の石柱18基が周りを取り囲む大きな塚があった。

 

十九首塚

十九首塚

十九首塚

 

十九首塚

十九首塚

十九首塚

 

十九首塚

十九首塚

十九首塚

 

『反乱に失敗した将門は、藤原秀郷らによって捉えられ滅ぼされた。

秀郷は将門をはじめ一門十九人の首を持って京に上る途中、この掛川で京から下る検視の勅使と出会った。

そこで、近くの東光寺で首を洗い、橋に架けて検視を受けることになった。

その後秀郷は、逆臣と言えど名門の将門の屍に鞭打つのは礼に非ずと、この地に埋葬し懇ろに弔った。』

 

時代と共に19の塚は散らばり、何時しか姿を消し、終には将門の墓らしきものが残るのみの有様であった。

そこで昭和の中頃なると、当地では発掘調査が行われた。

すると1200年以上前と思われる、古い刀、陶片等が出土したと言い、その一画を整備したのがこの史跡公園だ。

 

 今ではこの塚を地区の守り神として、毎年盛大な供養祭を行っていると言う。

先ほど渡った下俣川は別名を血洗川と言うが、今では開発により小さな水路となっている。

首実検が橋の欄干に架けて行われたことから、「懸川(掛川)」の地名が起こったとも伝えられている。

 

 

善光寺・仲道寺

 

十九首を後に倉真川に架かる大池橋を渡ると、秋葉街道の追分でもある鳥居町である。

火防の神として121516日の火祭りで知られる秋葉山へは、直進でここから9里余り(約35q)の道のりだ。

嘗てはここには見上げるような大鳥居と常夜灯が建てられていた。

その様子は、広重の「東海道五十三次 掛川」の天保版にも描かれている。

 

仲道寺

仲道寺

仲道寺

 

仲道寺

仲道寺

仲道寺

 

仲道寺

仲道寺

仲道寺

 

東海道はその手前で左に折れ、暫くして天竜浜名湖鉄道の西掛川駅の横に出る。

線路下のガードを潜ると、やがて江戸から数えて59番目の大池一里塚跡だ。

この先の所々には、見事な松並木が今も残されている。

 

 「掛川宿より袋井宿迄之間 往還通並木」と、古文書は当時の様子を伝えている。

ここら辺りの街道は、松並木が続き旅人はこれを辿れば自ずと次の宿場に向かうことが出来たようだ。

是は当地に限った事では無く、どの宿間でもほぼ同じで、言わば松並木は今で言うナビゲーターのようなものだ。

次の宿場までの道標となり、その間の距離の目安となるのが一里塚であった。

 

仲道寺

仲道寺

仲道寺

 

仲道寺

仲道寺

仲道寺

 

仲道寺

仲道寺

仲道寺

 

沢田で、国道1号線や東名高速道路の下をくぐり抜け、その先で垂木川に架かる善光寺橋を渡る。

前方右側に善光寺の大きな森が見えてきた。

坂の上田村麻呂は東征の折、この地で難病にかかる兵士が続出し、悪病退散の祈願をした。

その願いが叶い、お礼に建立したのがこの善光寺で、以来寺は疫病退散の祈願寺として有名になったそうだ。

 

江戸時代に入りその後火災で本堂を失い、普請の際に江戸と京都の人足達がその距離を測歩した。

すると寺前で両者が出会ったと言い、以後東海道の中間地点、真ん中である事から「仲道寺」と言うようになった。

門前には「東海道眞中」と彫られた石柱や看板が立っている。

現在の測量技術に依れば、正確には天竜川の西辺りが中間地点らしい。

 

仲道寺

仲道寺

仲道寺

 

仲道寺

仲道寺

仲道寺

 

 街道の並木は、古くは天平年間に、諸国の駅路に果樹を植えたのが始まりとされている。

天下布武を目指した織田信長は、道路整備にも力を注ぎ「路辺の左右に松と柳植え置く」と言う指示を出した。

それを引き継いだ江戸幕府は、街道の左右に松を植え、一里塚を設け、維持管理すべしとのお触れを度々発令した。

幕府は主要道の整備に威信をかけ、並々ならぬ熱意を注いでいたのだ。

 

旅人を夏の強い日差しから、また冬の冷たい北風から守るのが並木である。

何らかの理由で街道筋を離れても、並木を見付ければ容易に元の街道に戻ることが出来る。

木を植えれば、道を根張りで固める事も出来たので、頻りに推奨したようだ。

 

そんな松並木も明治維新以降、近代化の名の下、道路の拡張などで切り払われた。

また松食い虫などの病害虫被害で多くは消滅し、或は大風水害などで倒木した。

様々な理由で減ってしまったが、中には当時を思い起こさせる様な見事な並木が残されていたりもする。

 

仲道寺

仲道寺

仲道寺

 

仲道寺

仲道寺

仲道寺

 

 仲道寺を過ぎると旧街道には、所々に見事な松並木が残されていた。

かつてのこの辺りは、松茸の産地でもあったらしく、途中に「椎の木茶屋」の言う看板を掲げた食事処もあった。

その昔原野谷川を渡る同心橋の袂に大きな椎の木が有り、それに因んだ屋号という。

掛川藩主の御休息処として建てられ、その後下附され茶屋として店を開き、明治天皇も御休息されたという。

 

 

間の宿・原川から立場・名栗へ

 

『当地に三ツ池という池が有り、池端で草刈りをしていると、どこからか呼ぶ声が聞こえてきた。

見れば泥の中から仏様が顔を出されている。それからというものこの仏様に日々お参りするようになった。

そんな雨の降る日、村人は自分の笠を仏様に被せて帰ったといい、以後村人は「笠佛」と呼ぶようになった。』

(金西寺の薬師瑠璃光如来縁起)

 

仲道寺

仲道寺

仲道寺

 

間の宿・原川

間の宿・原川

間の宿・原川

 

 その後村人達は苦心して泥の中から仏様を掘りだし、街道脇の金西寺にお祀りした。

この原川薬師の阿弥陀仏に供える、薬師餅を提供する茶店や甘酒屋がこの辺りには並んでいたと言う。

 

掛川領の西の境に当たる原川は、46軒程の戸数があり、門前町として、又間の宿として賑わいを見せていた。

今街道筋にはその賑わいは無く、静かな佇まいを見せている。

その先で国道1号線の下を地下道で抜け、越えたところで国道に出て同心橋を渡り、名栗の里に入ってきた。

 

間の宿・原川

間の宿・原川

間の宿・原川

 

間の宿・原川

間の宿・原川

間の宿・原川

 

ここからは袋井市に入り、次の宿場・袋井へは、33丁(約3.6q)程を残している。

下を流れるのが原野谷川であるが、「椎の木茶屋」の屋号となった、椎の木の大木は、今は見当たらない。

橋の袂には小さな「名栗花茣蓙公園」が有り、祠が祀られている。

名栗は立場で、花茣蓙が名物として知られていて、それを売る店が街道筋には軒を連ねていたという。

 

間の宿・原川

間の宿・原川

間の宿・原川

 

間の宿・原川

間の宿・原川

間の宿・原川

 

間の宿・原川

間の宿・原川

間の宿・原川

 

 名栗から久津部にかかるこの辺り一帯は、昔は花茣蓙の一大生産地であったと言う。

街道筋には見事な松並木が、よく手入れされた状態で残されている。

 

松並木が途切れると、赤い大鳥居が見えてくる。

扁額には冨士浅間宮とあり、北西に800m先に鎮座する同宮の入り口を示すものだ。

さらにその先にあるのが、日蓮聖人の両親の墓があると言う「妙日寺」、久津部一里塚跡が続く。

 



 

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