|
七曲がりの急坂下り
小夜の中山を抜ける街道から茶畑が尽きると、道筋に人家(と言っても廃屋も有るようだ)が戻ってくる。 この辺りの地名を沓掛と言うらしく、道幅は急に狭くなり、かなりの勾配で下る道が見えてきた。 地名は、峠の急な坂道の取り掛かりで、草鞋や馬の沓を山の神に捧げ、旅の安全を祈願した慣習から付いたらしい。 そこは、「七曲がりの急坂」と言われる坂である。
国土地理院の提供する地図で調べてみると、僅か50mほどの間に110mから91mまで標高を下げている。 その先では多少緩やかとはいえ、100mほどの間に20mほど下っている。 前半の部分は正に梯子を下るような坂、或は転げ落ちるように下る坂、とも言えるほどの急坂である。 因みに大松の集落から1号線の高架下まで、1.4qの間に100m余り標高を下げて下る道だ。
「最後の坂はきついよ、俺らの車でもきついンだから」 ここに来て小夜の中山の峠前で声をかけてくれた、茶畑の男性の言葉を俄かに思い出した。 地元の茶農家の軽トラックは、日ごろから慣れた道で通っているが、それでもかなりきついと言っていた。 まして不慣れな観光客である。 急カーブ、急勾配を繰り返す昼なお暗い羊腸の小径は、狭い下り道の連続で、通らない方が無難である。
金谷から菊川坂に至る石畳道の上り下り、その先の小夜の中山の難路を抜けてきた。 最後に「七曲がりの急坂」を、10分ほどかけて慎重に下る。 すると突然木立が途切れ、目の前が開け、国道1号線の高架道路が見えてくる。 その下を大きく迂回しながら潜れば、長く続いた急坂もようやく平坦道に戻り、やがて次の宿場・日坂である。
日坂(にっさか)の宿
宿場の入り口に常夜灯が立っている。 常夜灯とは、街道等で夜道の安全のため、一晩中灯りとして灯しておく灯籠等の事、言わば街灯である。 街道の道中や追分けに、また集落の中、宿場の出入口、特定の神社の参詣道等に設けられている。 多くは、石柱や、自然石・加工石を組み合わせ出来ていて、ローソクや菜種油を燃やし明かりをとる。 それらは土地の篤志家や、神社への信仰心から建立されるもので、多くは燃料も含めての寄進であったそうだ。
東海道が成立し、暫くすると庶民も挙って旅に出て街道を歩く様になった。 とは言え灯りの乏しい当時は、日の出と共に出発し、日没までには旅籠に入る事が当たり前と言われていた。 しかし何らかの事情で、日暮れて尚心許ない提灯の灯りでの歩きを余儀なくさせられることもあった。 そんな折、月の輝く夜ならば兎も角、暗夜にやっと見付ける仄かな灯りは、どんなにか心強く思った事であろうか。 それが宿場の入口に建てられたものなら一入である。
穏やかな家並みを見せる、東海道25番目の「日坂(にっさか)宿」入口に立つのは、「秋葉常夜灯」である。 駿河も遠江も、火防の神の秋葉信仰が強い土地柄らしく、至る所にお灯明を捧げる灯籠が建てられている。 ここには安政年間に献じられた灯籠が建っていたが老朽し、平成になってそのレプリカに建て代えられている。 こうした東海道の街道筋には、かなりな年代物が残されていて、これまでにも何基も見てきた。
秋葉灯籠の先の幼稚園のある辺りが、宿場の中心の本陣・扇屋の跡地である。 敷地320坪、建坪220坪の建物も幕末の頃の火災で焼失、その後再建されたものの明治維新を迎え、廃業している。 明治に入ると跡地に小学校が開設されたが、今は無く復元された本陣の門が建ち、芝生広場の公園になっている。 明治天皇も休憩されたという、脇本陣「黒田屋」は、ここより西に少し行ったところにあるが今は跡地のみだ。
日坂は、元々は西坂とも新坂とも言われ、小夜の中山の西の登り口に開けた宿場町である。 東の見附を抜ければ、直ぐに急坂が待ち構えていたのであろう。 宿場の東見附から西見附までの間はおよそ6町半(700m)と言う。 本陣、脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠の数は33軒、宿内の人口は750人だからさほど大きな宿場ではない。
難所を控えた宿場にしては些か規模が小さいようにも思われる。 峠越を控えた旅人が英気を養い、下り終えた旅人が安堵の休息をしたであろう割には、旅籠の数が少ないようだ。 大井川が川留めともなると、この宿にも影響が及び、大層な賑わいを見せたというから尚更である。
東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんは、雨の中、小夜の中山の峠を下った。 この宿場に入ると有る旅篭の前で相客に巫子(いちこ:霊魂を呼び寄せる口寄せの女性)がいる事を知る。 それが目当てで、思いもよらず早々と宿泊を決め宿に入り込んだ。 その後の二人の行動は、口寄せでいたぶられ、深夜に夜這いをかけ猥雑なドタバタの馴染みの光景を繰り返す。
幕府などの公の文書や品物などを、次の宿場に取り次ぐ業務を飛脚といった。 飛脚を担う仕事を問屋と言い、それを司る役所が問屋場である。 幕府公用の旅行者や大名などが利用する人馬を用意して、必要に応じ次の宿場まで運ぶ重要な役割も担っていた。
その為幕府は交通量の増加に伴い、慶長6(1601)年以来、「伝馬制」により事細かな取り決めをしていた。 一宿につき人足100人、馬100匹の設置を義務付けていたが、この宿は取り決め通り置かれていたと言う。 ここには一カ所置かれ、問屋、年寄り、請払、帳附、馬指、人足割、人足割下役などがその業務に当たっていた。
宿場内には格子戸など古い面影を残す家も幾らか残されている。 西外れ近くには、江戸末期に建てられたという問屋場・藤文とかえで屋(旅篭?)の建物が残されている。 江戸末期から明治の始めにかけて造られた建物だ。 藤文は間口が五間、奥行き4間、総畳数38畳で、かえで屋は間口二間半、奥行き四間半、総畳数は16畳だという。
更に西に向かうと、同年代に建てられた萬屋が有る。 間口4間半、総畳み数39畳の旅籠は、主に庶民が利用したと言う。 復元修理時の調査では、二階部分は4間あり、食事の提供が無かった宿と思われている。
その向かい側に建つ川坂屋は、宿場の最も西に建つ旅籠だ。 当時の面影を良く残した間口6間、奥行き十三間、総畳数64.5畳堂々たるの建物である。 江戸から棟梁を招いて、この時代には禁制材であった檜を使い造られた建物らしい。 品格もあることから、主に上級武士や公家などが利用したと考えられている。
宿場の西の外れにも、秋葉の常夜灯が建っていた。 宿場では度々火災が起きており、昔から根強い秋葉の火防信仰があり、三カ所に常夜灯が立てられた。 道路は、火災時の延焼防止の観点からやや広めに通していた。
小さな宿場である日坂宿には、大木戸は無かったが小さな門が設けられていたと言う。 横を流れる逆川には、古宮橋と呼ばれる幅も狭く粗末な木橋がかけられ、非常時には簡単に落とす事が出来た。 お城で言えば丁度お堀のような役割を果たしていた川の流れは、大木戸の役割をも果たしていたようだ。 この場所が京方の見附に当り、下木戸と呼ばれる高札場が有り、今は復元された高札が掲げられている。
派手さはないが落ち着きが有り、古の面影をそこかしこに感じさせる良い宿場町で有った。 そんな日坂宿を後に、旧道を西に進み古宮と言う地にやってきた。 中程に古民家があり、その前に「賜硯堂 成瀬大域 出生の地」の石柱が立っている。
当地で生まれ42歳の折に上京し、書を学び、後に宮内省に奉職した書家で、ここが生家らしい。 明治天皇に書を献上し、お褒めの言葉と古い硯を賜わったと言う。 その硯と彼の書は、寄贈先の掛川市二の丸美術館に展示されている。
更に進むと県道と合流する辺りの左側に、遠江の国の一宮が深い森の中に鎮座していた。 「事任(ことのまま)八幡宮」(古くは己等乃麻知(ことのまち)神社と言い、創建時期は不明らしい。 誉田(こんだ)八幡宮とも呼ばれ、本宮は東海道を挟んだ右側の本宮山の中にあり、両地は赤い橋で結ばれている。 本宮までは271段の階段を登るが、境内には古木神木なども多く、今ではパワースポットとしても知られている。
公式ホームページによると、平安時代に書かれた枕草子や、鴨長明の「方丈記」などにも登場すると言う。 同社には大同2(807)年、坂の上田村麻呂が勅命を奉じて、社を再興したとの伝えがある。 そのことからも、創建はそれよりもかなり前となり、相当な古社とわかる。
左200mほど奥に道の駅「掛川」があり、それを望んで暫く県道を淡々と歩く。 掛川バイパスを越え、県道415号(旧国道1号線)の八坂橋の歩道橋にやって来た。 日本橋から223.3qの地点を示す距離札がガードレールに掲げられていた。
右にカーブする県道を外れ、左の旧道に入り、そこから5分ほど歩くと、57番目の伊達方一里塚がある。 幕府は街道を整備する伝馬制を制定した後、江戸日本橋を起点に、主な街道の一里ごとに塚を築くよう命じた。 旅人が行程の目安とし、休憩場所としても利用できるよう木陰を提供する木を植えた。 又この場所が、街道を行き来する人馬料金の区切りの目安ともした。
今日では一里は大凡3.92qとされているので、この地点は日本橋から223.4qとなる。 先ほどの場所から5分程歩いてきたから、この間に300m進んだとすれば、この一里塚は223.7qの地点となる。 単純な比較で論じるのは早計かも知れないが、現在の距離と大差がない。 当時の土木技術は、思っているより格段に優れたものを持っていたのかも知れないと思えてくる。
元村橋で左の旧道に取り、成滝集落を越え、嘗て土橋が架けられていた逆川の馬喰橋を渡る。 弥次さん喜多さんがこの地に着いたとき、前日の雨で橋が落ちていて、徒渡しを余儀なくされた。 ここで、京上りの犬市・猿市と言う二人の座頭に遭遇する。 股引を取り、裾をまくり上げ、相方をおぶって渡ろうとする二人を目にすると、思わぬ行動をとる。 相手の盲目を良い事に、ちゃっかり背中に負ぶさり渡ろうとするも、途中で気付かれ川に落とされてしまった。
橋を渡ると右側に、創業以来200年以上続き、今日で8代目という「もちや」がある。 掛川宿入口にあり、馬を引いて行き交う旅人相手に茶店を営み、名物の「振り袖餅」が売られていた。 創業当時は五文で買えたので、「五文餅」とも呼ばれたと言う。
近くにある観世音菩薩の参詣土産として売り出した細長い餅だ。 何時しか評判を呼び、形が振り袖に似ていることからこう呼ばれるようになった。 中に粒餡を入れ、柔らかなお餅で包んだもので、外側にはきな粉か片栗粉がまぶしてある。
日坂には昔から「葛の粉にてつくり、豆の粉をまぶして旅人にすすむる」と言われる「わらび餅」があった。 今でも手造りに拘る山本屋商店と言う店があり、ワラビ粉で造り、中に餡が入った餅が売られている。 街道歩きは、こうした昔ながらの名物に出会う事も楽しみの一つである。
名物・振り袖餅の店の道路を隔てた反対側に、葛川一里塚がある。 嘗ては松が植えられていたと言うが、今は小公園風に整備された緑地に、石碑が一本立つのみだ。 街道はそのまま掛川の町中へと入っていき、やがて新町に至ると有名なあの場所にさしかかる。
(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved. |