諏訪の原城跡

 

 山石の敷き詰められた坂を上り詰めると、視界が開け、そこは初倉山だ。

右に折れ、行幸道路に出て南東方向に辿ると、一帯には牧之原台地と言われる平坦地が広がっている。

一面に広がる茶畑の続く路は、見た目も美しく気持ちが良く、茶の香りさえしてきそうだ。

 


諏訪原城跡

諏訪原城跡

諏訪原城跡

 

諏訪原城跡

諏訪原城跡

諏訪原城跡

 

諏訪原城跡

諏訪原城跡

諏訪原城跡

 

暫く行くと、国指定史跡・諏訪の原跡が右側に見えてくる。

武田勝頼が標高218mの地に、遠州攻略の拠点として築かせた城だ。

城内に諏訪大明神を祀ったことから、「諏訪の原城」と言われるようになった。

天正年間に徳川軍に攻められ落城後は牧野原城と改名したが、武田氏が滅亡した後は廃城となった。

 

跡地には空堀や井戸跡が残され、戦国時代史の過程を理解する上で重要な遺跡とされている。

しかし広大な城跡は、草原と木々の茂る森に変貌し、旧街道からは全貌を伺いしることは出来ない。

茶畑の中にあっては、ここだけが異空間のように見えるが、古くはこの辺り一帯は諏訪の原と呼ばれていた。

 

 

菊川坂の石畳

 

 その先で県道を渡ると、小さな東屋の休憩所が見えてくる。

その前の案内板には「菊川坂」との表示が有り、再び石畳道の始まりを告げている。

 

当地の丸い石は、余程豊富に産するらしく、道普請に使われるだけでは無い。

茶畑の土壌を支える石垣や、道路の土留め、民家の庭先でも、至る所でこの丸石が使われている。

地域住民にとっては、手軽に調達できる土建材と言った様なものかと思えてくる。

 

菊川坂の石畳

菊川坂の石畳

菊川坂の石畳

 

菊川坂の石畳

菊川坂の石畳

菊川坂の石畳

 

 坂は文政年間の助郷制度により、近隣12か村に割り当てられ、助郷役の人々により敷設された。

助郷とは、幕府が宿場周辺の村落に課した労働課役のことである。

徴発された農民たちには迷惑この上なく、その負担は相当なものであったようだ。

 

それにより林の中の薄暗い中を下る、380間(約690m)の石畳道が整備された。

しかし昭和の高度経済成長期には、木々は切り倒され、道が鋪装され、僅か161mを残すのみとなっていた。

その後平成の発掘調査では、アスファルト舗装の下に埋まった道が見つかっている。

調査の結果、この道は江戸時代後期に敷設されたものと確認された。

 

菊川坂の石畳

菊川坂の石畳

菊川坂の石畳

 

菊川坂の石畳

菊川坂の石畳

菊川坂の石畳

 

菊川坂の石畳

菊川坂の石畳

菊川坂の石畳

 

 当地では東海道400年祭りに当り、「石畳菊川坂助郷伝説」と銘打った平成の助郷事業が行われた。

先人達の助郷制度に因み、町内外の500名を越える人々の手で、往時の石畳道を復元する道普請である。

これにより菊川側の登り口に残されていた古道に続く700mほどの石畳道が整備された。

集められた石はおよそ7万個にも及んだという。

 

やがて前方の視界が大きく開けると、木立の隙間から間の宿・菊川の家並みが見えてくる。

ここまでくれば厳しい坂はもはや最後である。

150年程前に作られた丸石の古道で、時代を噛みしめながら下れば、間の宿・菊川の集落へと入っていく。

 

 

間の宿・菊川

 

 菊川に架かる高麗橋を渡ると間の宿・菊川の宿内に入っていく。

間の宿は宿場間が長い場合の中間地辺りに開かれるのが一般的である。

しかしここは金谷宿と日坂宿の間が一里二十四丁(およそ6.5Km)しかないのに置かれている。

それは金谷坂や菊川坂があり、更には箱根、鈴鹿に次ぐ東海道三大難所の一つ「小夜の中山」が控えているからだ。

 

 間の宿とはいえ、当地では旅人や人足に休憩の便宜を図るだけで、宿泊することは原則禁止されていた。

また茶店で提供する料理も豪華なものは禁じられていた。

そこから旅人を慰める料理として、大根葉入りの「なめし田楽」が考案された。

当時は名物として提供する茶店が建ち並んでいたが、今はなく、郷土料理として伝わるのみである。

 

間の宿・菊川

間の宿・菊川

間の宿・菊川

 

間の宿・菊川

間の宿・菊川

間の宿・菊川

 

 「間の宿 菊川の里会館」の駐車場の脇に菊石が置かれている。

昔から付近の川では、菊石と呼ばれる菊の文様の入った石が多数見つかっている。

そこから石の採れる川を菊川と呼んでいたが、それが何時しかこの地名になったという。

 

ここには二人の詩碑・歌碑も建てられている。

承久の変で捉えられた中納言・藤原宗行は、鎌倉に送られる途中この宿で泊まり、死期を悟った覚悟の詩を残した。

それから百年後、幕府転覆を企て捉えられた日野俊基は、関東送りとなった。

その途中で当地まで来た折、宗行の往事を追悼し、自身の姿を重ね、詩を残したと伝わっている。

 

間の宿・菊川

間の宿・菊川

間の宿・菊川

 

間の宿・菊川

間の宿・菊川

間の宿・菊川

 

間の宿・菊川

間の宿・菊川

間の宿・菊川

 

金谷宿の標高は100mほどで、そこから金谷坂を上って来た。

登り切ると牧之原台地で、茶畑の中の諏訪の原城跡辺りの標高は、220mでサミットを迎える。

その後は「菊川坂」を下り、標高100m程の地にある間の宿・菊川まで下り切る。

 

菊川の宿内はほぼ平坦地で、そこを抜ければその先が、「小夜の中山(さよのなかやま)」への入口だ。

「上り坂十六丁と云う、箭置(やおき)坂」の急坂が待っている。

いよいよこれからその「小夜の中山」に取りかかる。

 


 

小夜の中山

 

「小夜の中山」とは、なんとも心地良い優雅な響きのある地名である。

昔からここを旅した西行法師や松尾芭蕉、橘為仲などの文人墨客も、多くの歌や句を残している。

しかしその地名から受ける穏やかな印象とは裏腹に、ここには想像も出来ないほどの厳しい峠道が待ち構えている。

 

小夜の中山

小夜の中山

小夜の中山

 

小夜の中山

小夜の中山

小夜の中山

 

金谷、菊川坂の石畳道に続く小夜の中山は、アスファルト鋪装した細い道が続いている。

だらだらと上り下りを繰り返す、昔から箱根、鈴鹿に次ぐ東海道の三大難所の一つとして知られたところだ。

今日では周りは見渡す限り一面の茶畑で、遙かに見える向い側の山の斜面の、その先の山までもが皆茶畑だ。

 

しかし当時はまだまだ荒廃した山中で、深い木立が生い茂り、草深い地で、民家とてない寂しい地であった。

道中では追い剥ぎや、胡麻の蠅など、旅の難儀も待ち構えていたのかも知れない。

そんな心配も有り、この地勢の厳しさも加わって、旅人はこの地の通過を感慨深く、行き交っていたのであろう。

 

小夜の中山

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小夜の中山

 

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「もうすこしだ。その坂を上がれば寺がある。」

 

難所「小夜の中山」の茶畑を行く道は、圧倒的に上り勾配が多く、確実に高所に向けて長く延びている。

途中の茶畑で作業中の男性が手を休めながら、軽トラに手をかけたまま声をかけてくれた。

多少息も上がり気味で、覚束ない足取りで急坂を上ってくる姿を、見るに見かねたようだ。

 

一息つきながら、指でさされた先を見れば、急な坂道はその先で細くなり、緑の森の中に吸い込まれている。

こんもりとした雰囲気は鎮守の森そのもので、「あの森が久延寺ですか?」と問う。

「いや、そのもう一つ坂を上がったその先だ」と、期待に反した答えが返ってきた。

 


 

佐夜中山・久延寺

 

 疲れ果て重い足取りで教えられたあの森を抜け、更にそのもう一つその先の青木坂の急坂を上り詰める。

やがて道は平坦な広場となり、252mの峠を迎える。

そこには丸石で組み上げた台座の上に小さな祠があり、その向かい側に目標としてきた寺が山門を構えていた。

 

「高野山真言宗・佐夜中山久延(きゅうえん)寺」である。

山門で猫が、人が近づくのも厭わずのんびりと睡眠をむさぼっていた。

 

久延寺

久延寺

久延寺

 

久延寺

久延寺

久延寺

 

創建は古く、奈良時代に行基が開基したと伝わる名刹だ。

一時は荒廃し無住で、荒れるに任せた時期もあったらしいがその後再興されている。

御本尊は聖観世音菩薩で、地元では子育ての観音さまと称され親しまれている。

 

ここは、掛川城の城主となった山内一豊所縁の寺だ。

関ヶ原から会津攻めに向かう徳川家康を接待するために、境内に茶室や観音堂を建立したと伝わっている。

境内のお茶屋亭跡がその名残で、お茶処らしくここで煎茶を供したらしい。

その礼に家康が植えたとされる五葉の松も境内には残されている。

 

 

 

 広重の東海道五十三次の図に、殊更誇張された小夜の中山の急坂が描かれた「日坂 左夜ノ中山」がある。

図には急坂の続く街道の真ん中に居座る大きな丸石が描かれ、石には何やら微かな文字も書かれている。

旅人達が囲み見入るその石の下では、何時の頃か、赤ん坊が泣いていたという。

 

 『その昔、お石という女性が当地に有った丸石の近くで、俄にお腹が痛くなった。

丁度その時通りかかった男が介抱してくれるのだが、男はこの付近を荒らす山賊である。

お石が懐にお金を持っていると知ると殺してしまった。

このとき不思議なことに妊娠していたお石の傷口から男の子が生まれた。

そしてお石の霊魂は、そばにあった丸石に乗り移り、夜ごとに石は泣くようになった。

 

寺の和尚が読経してその石を慰め、泣いていた子を引き取って飴で育てたという。

成長した男の子は、大和国で刀研ぎ師の弟子となってある日、刃こぼれを研ぎにきた男に出会う。

刃こぼれの原因を問うと、男は十数年前の凶行を語り始めた。

その話から、母の敵と知り、名乗りを上げて見事母の恨みをはらした。』

 

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

 

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

 

 遠州七不思議の一つとして知られる「夜泣石」伝説である。

この赤ん坊と大きな丸石に纏わる悲しい伝説で、久延寺の本堂の右手にはその丸石が残されている。

図の文字はお題目の「南無阿弥陀仏」で、通りかかった弘法大師が、寺に伝わる伝説に同情して供養で刻んだ。

 

寺の少し先に、古色の木看板に「あふきや」と書かれている古びた商家が建っている。

江戸時代から続く末広荘・扇屋という茶店で、「名物 子育飴」を売る店だ。

 

餅米と麦芽を原料にした水飴で、餅に水飴をまぶしたものを、旅人に供している。

ここでは今でも昔ながらの製法で作られた水飴が売られていて、カフェも併設されている。

どうやら営業は人出の見込まれる休日だけらしく、今日は生憎と閉まっていた。

 

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

 

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

 

の門前からこの辺り一帯は、鎌倉時代には接待茶屋が建っていた場所だ。

「峠 上り立場 あめのもち名物売り」と伝わる茶店が何軒も立ち並んでいたと言う。

寺の和尚が子育てに用いた水飴や、餅に水あめを絡ませた飴餅がしきりに売られていたようだ。

 

子育飴のお店の前に、小夜の中山峠の平坦地に作られた「小夜の中山公園」がある。

園内には展望台に向かう遊歩道が整備されていて、30分もあれば一回り出来るらしい。

 

公園を越えると、しばらくはほぼ平坦道で、ごく緩やかに、緩やかに、波打つような道が延びている。

相変わらず道の両側には茶畑と、時折目にする民家や製茶工場だけの長閑な風景が流れていく。

公園を経て500m程の左側の草の中に、江戸から54里の小夜鹿一里塚跡も残されていた。

 

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

 

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

 

 道中に、馬頭観音の石碑が建っている。

この地には古くから「蛇身鳥退治」の伝説が残されている。

この碑は、この地に蛇身鳥退治に来た京の公家・三位良政卿が乗ってきた愛馬がここで死に、葬った場所らしい。

 

 『その昔菊川の里に、狩り好きな男が妻と二人の子供の四人で平和に暮らしていた。

或る雪の降る日、男は大きな熊を仕留めた。熊に近寄って見ると、何とそこには血を流す息子の姿があった。

息子は父の狩りを止めさせようと、熊の毛皮を被り山に入っていたのだ。

 

 息子の変わり果てた姿を目の当たりにした妻は、狂ったように泣き叫び、家を飛び出してしまった。

更に、あろうことか、そのまま菊川の淵に身を投げて死んでしまったという。

それからというもの、この付近では夜な夜な奇妙な声を出して鳴く怪鳥が現われるようになった。』

 

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

 

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

夜泣石伝説と子育飴

 

『頭は鳥で、身体は蛇、羽根は刃物を持つという怪鳥で、これを退治しに来たのが公家の良政であった。

見事に退治した良政は、その後この地の「月小夜姫」と結婚し、姫と共に都に帰って行った。

しかし姫は都には馴染めず、結局故郷に帰されると暫くして、その地で「小石姫」を産んだ。

 

 やがて成人した姫の元に、良政が決めた許嫁が来ると、身の不幸を嘆いた姫は松の木の下で自害をしてしまう。

その松は何時しか「夜泣き松」と呼ばれるようになった。

 

後にその木の皮が、子供の夜泣きに効果があると持て囃され、多くの人に皮を剥がれ何時しか枯れてしまった。

その代わりに用意されたのが、あの「夜泣石」と言われる丸石である。

残された姫の子は、この地の伝わる飴で育てられたと言う。』

 

 この地に伝わる、もう一つの「夜泣き石伝説」である。

その「夜泣き石」は、国道1号線の中山トンネルの上の公園にもあるそうだ。


 

小夜の中山 歌枕と歌碑 

 

「年たけて またこゆべきと思ひきや 命なりけり さよの中山」(西行法師)

(年老いた今こうして再びこの峠を越えるとは思ってもみなかった。二度も越えられるのも命があったからだ。)

 

西行法師の大きな歌碑が、街道沿いの道路に沿った地に建てられている。

有名な西行研究家の揮毫らしく、小夜の中山を語る歌枕として、象徴的な歌となっている。

東大寺再建の勧進の道中で、奥州平泉に向かう69歳の西行は、2度目となる峠越を感慨深く体験する。

老いた身体を鼓舞しながら、かつてここを通ったのは30歳の頃であった事を懐かしく思いだしている。

 

歌枕と歌碑

歌枕と歌碑

歌枕と歌碑

 

「雲かかる さやの中山超えぬとは 都に告げよ 有り明けの月」(阿佛尼)

 

(雲のかかるこの地を越えたと、都にいる子らに伝えておくれ、有り明けの月よ。)

 

歌枕と歌碑

歌枕と歌碑

歌枕と歌碑

 

「甲斐が峯は はや雪しろし神無月 しぐれてこゆる さやの中山」(蓮生法師)

 

(遙かな甲斐国の白根の峰々ははや雪で白いであろうか、神無月の時雨の中、さやの中山を越えている。)

 

歌枕と歌碑

歌枕と歌碑

歌枕と歌碑

 

「ふるさとに 聞きしあらしの声もせず 忘れね人を さやの中山」(藤原家隆)

 

(山風の音は、都で聞く風とは似ても似つかない。遠く旅先にいるのだから、都の人のことなど忘れてしまえ。)

 

歌枕と歌碑

歌枕と歌碑

歌枕と歌碑

 

「東路の さやの中山さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん」(壬生忠岑)

 

(東国への道中都を離れて遙か遠くこの地に来たが、はっきりとも見えない遠い旅の空の下で生涯を終えるのか。)

 

歌枕と歌碑

歌枕と歌碑

歌枕と歌碑

 

「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」(松尾芭蕉)

 

(有明月は遠い里の朝、茶を沸かす煙の中、早立ちの馬上で目覚めも悪く、夢の続きを見るようにとぼとぼ歩く。)

 

 このほかにも、「東路の さやの中山なかなかに なにしか人を 思いそめけむ」(紀友則)

等が有り、数え上げれば切りが無いほどだ。

 

古くは「さやの中山」とも言われた、東海道の難所の一つとされるのが「小夜の中山」である。

昔から多くの文人墨客も行き交った東海道の中でもこの地は、旅人の心を掴み感慨を深くするものらしい。

元々、歌枕として知られた憧れの地で、数々の古歌に詠われた名所でもあった。

今日街道筋には、句碑や歌碑が至る所に残され、記念碑として自然石に刻み、幾つも立てられている。

 

 

牧之原台地の茶畑 

 

辺り一帯の緩やかな傾斜地には、東京ドーム1,100個分に相当する広大な茶畑が広がっている。

日本一の茶処静岡県の茶畑の面積は全国のおよそ3割(令和元年)全国シェアは4割を超える。

その生産量の半分以上をこの牧の原台地周辺が担っている。

温暖な気候、長い日照時間、何よりもこの広大な平坦地が生産に大きく寄与していると言う。

 

 江戸幕府が倒れ明治維新を迎え、川越制度が廃止されて川越人足達は職を失った。

その人足に加え、武士の立場を奪われた幕臣などが、当時は荒廃地であったこの地に入植し開拓を行った。

広大な開墾地は、その後開拓者に払い下げられ、今でもその子孫が何人か住み着いて、茶業を営んでいる。

 

牧之原台地の茶畑

牧之原台地の茶畑

牧之原台地の茶畑

 

牧之原台地の茶畑

牧之原台地の茶畑

牧之原台地の茶畑

 

 この地に茶が植えられたのは、水はけは良いが石の多い弱酸性地に適していたからだ。

また時の政府が海外需要に目を付け、頻りに輸出を進めていた背景もあったらしい。

温暖で豊富な日照時間、気象条件の後押しも有り、今では日本一の茶処と言われるまでの産物に成長した。

 

 静岡の茶園は「茶草場農法」と言われる特徴を持ち、世界農業遺産に認定されている。

茶園に有機物として投入するササやススキなどを刈り取る為の半自然農地を茶草場という。

そこは多様な生物の生息する特別な場となり、ここから草を刈り取り、それを茶園に敷く。

これは、「土壌の保湿・保温を保ち」「微生物の繁殖を助け」「草は分解され堆肥となり」「土壌の流出を防ぎ」

「雑草の繁茂を抑制する」効果があり、その結果美味しいお茶が出来るという。

 

牧之原台地の茶畑

牧之原台地の茶畑

夜泣石伝説と子育飴

 

牧之原台地の茶畑

牧之原台地の茶畑

牧之原台地の茶畑

 

 高級な抹茶を生産する宇治茶の畑などでは、新芽の出る頃は一時遮光シートで覆うという。

日光に当たって、テアニンが渋み成分のカテキンに変わるのを防ぐためだそうだ。

しかしこの地には、そのようなものは何もなく、見渡す限り緑の茶畑だけが広がっている。

広大で大規模な茶畑だけに 茶の木の作る畝の幅はほかの地域の茶畑のそれに比べると広いように見える。

これは、ほとんどが機械摘みされるためで、この日、静かな里山の茶園には、エンジン音だけが響いていた。

 

 小夜の中山の久延寺を過ぎ日坂に下る道はなだらかで、通る車も少なく、歩く人の姿もなく快適だ。

遠くに望む山並みの中に「茶」の字が描かれた、標高532mの粟が岳の斜面の文字が見えている。

茶処だから茶の木だと思っていたが、これでは遠目では判別し辛いらしく、元々は松で描かれていたそうだ。

その松が松食い虫にやられ、変わって今では約1000本のヒノキが植えられているという。

 

途中の大松の集落の辺りには、幅が3mほどもある舗装された道なのに、国道1号線に通じる新道との分岐部に

1.5q 車両通行不可」の注意札が立てられていた。

広い道なのに・・・と訝かしく思いながらここまで来たが、その先で理由が良く解った。

 



 

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