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越すに越されぬ大井川
「信州の山谷を水源として流れ落ちる急流」で、「越すに越されぬ大井川」は、川の難所である。 江戸幕府は多くの川への架橋を禁じていた。 どんなに水位が低く素人でも簡単に渡れる状況でも、人足による徒渡しを強い、旅人の勝手越えを禁じた。 当時の大井川は今ほど川筋が定まってはいず、川は幾筋にも分かれて流れ下っていた。 深みは人足の力を借りて渡り、その前後では足下の覚束ない川原を難儀して歩いていたのである。
ところが江戸文化年間に全国を托鉢行脚した修験者・野田泉光院は、その日記にこう書いている。 「岡部宿で東海道と分かれ左の在道を行き、小川村(現焼津市小川)を経て大井川では海際の道を歩いて渡った」 (「大江戸泉光院旅日記」石川英輔 1997年講談社) 推測するに、今日の県道31号線辺りに徒渡りの出来る在道があったようだ。 このことは、主要道は幕府の干渉も厳しかったが、街道筋を離れると意外に制約はなかった事を窺わせる。
川会所には2名の川庄屋を任命し、川越えの管理・統制に当たらせていた。 人足は島田と金谷の側にそれぞれ650人ほどが待機していたと言う。 川渡りは手引き、肩車、蓮台等で行われ、人足に払う駄賃は、その時の水深により細かく決められている。
川越え以上に旅人を大いに悩ませたのは「川留め」である。 役所の発する川留めは絶対的なもので、この禁を犯せば強く罰せられる。 川留で宿場は大混雑、「一駅二宿も跡へ戻りて水の落るを待つもあり」(東海道名所図会)と伝えられている。 ここまで来たものの泊まれない旅人は、今来た路を引き返し、泊まる旅籠の確保に奔走するはめとなる。
その上、川留めが何日も続けば、旅籠のみならず、商人の家にも逗留する有様だ。 運良く宿泊場所が確保出来ても、宿賃が嵩み旅人には大きな負担となっていた。 長の逗留ともなると相部屋が当たり前、泊まり合わせた者同士が仲良くなるのは良い方で、飯盛り女を買う者、博打に手を出し大切な路銀を失う者が出るなど、退屈凌ぎで混乱する様子が今日に伝えられている。
難儀のすえ無事川を越えれば、街道は駿河の国から遠江の国へと入って行く。 島田の宿から次の金谷の宿までは、凡一里の距離で、その内三分の一ほどが川越えである。 旧東海道はその後国道1号線となり、今では一般県道として永代橋が架けられている。 昭和の初めに架けられた、長さ1026.3mのトラスト橋を渡ると金谷の町だ。
大井川の川越を控えたこの地にも、島田側と同様に川越しの為の川会所、高札場があった。 川越え人夫の控える番宿が、ここにも10軒ほど立ち並んでいたと言う。 今日の八軒屋橋を渡った先辺りかららしいが、当時の姿を伝える痕跡は、殆ど何も残されてはいない。
義人・仲田源蔵
島田宿の川越遺跡が見事に復元されていたのに比べると、対岸の金谷宿は些か寂しい。 史跡らしい物は何も無く、僅かに土手下に残る水神様と、民家の玄関先に掛けられた番宿を書いた表札位だ。
渡し場跡の小公園に、没後120年を記念した「義人 仲田源蔵」の石造が建てられている。 説明によると、翁は当地の醤油屋の三代目として生まれ、その後川越人夫総代を務めた。 明治維新の頃、川越え制度の廃止と共に、職を追われた1,300人の川越え人夫の為に、当時荒れ地であった牧ノ原大地の開墾に従事させるよう時の政府を動かした人物だ。
台地の開墾により人夫の入植が可能となり、そこに茶園が開かれた。 今日でも当時の子孫たち17軒が茶業を営むなど、牧の原の大茶園の礎を築いた人物である。 私財を投じた翁と茶園との関りは、地元でも余り知られていないらしく、啓発を願っての石像らしい。
翁は大井川の架橋にも注目し、地元の有力者とともに実現に向け尽力したと言われている。 結果、明治16(1883)年には、全長720間(凡1300m)、幅2間(凡3.6m)の木橋が完成した。 駿河と遠江を結んだ最初の橋を開通させている。
東海道は街道らしく曲がりくねって僅かに上りながら、行く手に見える牧ノ原台地へと繋がっていく。 旧街道筋の民家の軒先には、嘗ての川越え人足の番小屋を示す木札が掲げられている。 それ以外には見るものもなく、通りはごくありふれた、普通の地方都市の町並である。 やがて秋葉神社の先で、大井川鐵道の単線線路の踏切を渡る。
金谷宿
ボォーッ ボォーッ 島田と金谷を結ぶ大井川橋を渡り終える頃、どこからともなく汽笛が聞こえていた。 その吹鳴は秋葉神社の先で渡った大井川鐵道の踏切で最大となった。 踏切から左を見ると新金谷駅があり、ホームには白い煙を勢いよく噴き上げる蒸気機関車が停車している。 先ほどから何度も汽笛を鳴らしているのは、この大井川鐵道の機関車であった。
東海道24番目の宿場町・金谷宿は往還橋を渡った辺りから始まる。 行く手正面に見える牧ノ原台地に向け緩やかに上り始める道にそって延びている。 この宿には、予期せぬ川留めに備えるためか、当時本陣は3軒、脇本陣も1軒あった。 宿内人口は4,000人余り、家数も対岸の島田よりは少ないが、旅籠の数は島田宿をしのぐ51軒もあった。
川を無事渡り終えた旅人は、旅籠や茶店で寛ぎ、箱根の山の「山祝い」と同様、「川祝い」で無事を喜び合った。 旅篭の多さは、その需要を見込んでのもので有る。
佐塚本陣は建坪が263坪もあり、玄関付きの門の屋根には一対の鯱が飾られていた。 「鯱のご門」などと呼ばれる程、豪華な門構えであったらしい。 徳川御三家の尾張藩や紀州藩の定宿であった一番本陣・柏屋も同じような規模を誇っていた。 しかし、嘉永年間に起きた東海大地震で壊滅し、本陣を廃業したと言う。 他にも問屋場跡などが有るが、これらは何れも跡かたも無く、詳細な説明版により往時を偲ぶのみだ。
茶業の盛んな町だけに、街道筋に茶屋が軒を並べているのかと思ったが意外に見かけない。 JR金谷駅の手前の交差点線路下に道標があり、江戸から五十三里と言う一里塚跡がある。 ここで左に折れガードを潜り、直ぐに右に折れ駅の裏に出て西進する。 すると直ぐに急坂の石畳道で知られる金谷坂に向けた厳しい登り道が待ち構えていた。
左手奥にある長光寺には、芭蕉の句碑が残されているらしいが見に行く余力は無い。 そのままやり過ごし西進し、その先で、小さな橋を渡る。 「西入口土橋」と呼ばれた、金谷宿の西の出入り口(宿場の京方の見附)に当たる橋である。
嘗ては長さ6間(約10m)幅2間半(約4.5m)の「金谷大橋」と呼ばれる土橋が架けられていた。 土橋というのは、橋桁の上に丸太を組み、上に小枝並べて凹凸を均し、表面に土を乗せつき固めて造られた橋だ。 三年ごとに修理や架け替えが行われていたが、当時川に架けられた橋の多くは土橋であった。
この地は川越しの大井川と、金谷坂から小夜の中山にかけて上り下りする峠越え道の中間地点に当たる。 前後に街道でも名うての難所が控えているだけに、当時は休み所や一善飯屋が建ち並んでいたという。 峠を下り終えた旅人は、宿場入りする前にホット一休みし、大名は身なりと隊列を整えた。 これから峠越をする者には、暫しの休憩で鋭気を養う場所となっていた。 その先には道銭場(今で言う有料道路の料金所)が有ったらしく、通行人から銭を取っていたようだ。
JR金谷駅の裏手辺りから始まった金谷坂を、もうかなり上ってきた。 振り返ると眼下には、金谷の町が広がり一望出来る。 富士山が望めないものかと探してみたが、生憎雲の多い空のどこにも姿を見つけることはできなかった。
金谷 石畳茶屋急坂と階段を喘ぎながら上り、国道473号に出て、暫くそこを歩く。 ほっとする間もなく右に折れて国道を横切ると、「旧東海道石畳入口」の大きな看板が立てられている。 平成の道普請で蘇った金谷の石畳道の入口で、暫くはアスファルト舗装の道を上り詰めることになる。
「旧東海道石畳道入口」の看板に導かれ、かなりの急坂をしばらく上ると、石畳道が見えてきた。 その登り口右手には、趣のある門構えの「石畳茶屋」がある。
十年ほど前であろうか、一度訪れたことがある。 記憶に間違いが無ければ、石段を登り、門を潜ると、和風木造建築の「そば屋」が有った。 庭先に赤毛氈を敷いた縁台を並べ、室内は広い板敷きで、囲炉裏が切られていたが、すっかり様変わりしていた。
そこに記憶に残る建物はなく、和風の瓦葺きの真新しい大きな建物があった。 「meguri石畳茶屋」と言う、オープンしてまだ間がないレストランである。 島田市産の肉や卵、野菜を使った料理や、季節の果物を使ったお菓子を提供するという。
一面ガラス戸の明るい室内は、広い板敷きの間で、大きなテーブルがゆったりと配置されている。 モダンに変身した客室では、既に若い女性の先客が三組食事をしていた。 ガラス戸越しには手入れの行き届いた庭を見通し、その先には富士山を望むことも出来るらしい。
昼は白い大皿に盛られた肉とハード系のパン、野菜たっぷり料理で、スープ付きのプレートランチの一品だけだ。 ここには食事の出来る施設の他に、レストランの奥には、展示室、ギャラリーを備えている。 トイレも有り、茶屋は街道歩きの無料休憩所としても利用できるらしい。
金谷の石畳
「上りの坂路にして峻(さか)し(中略)大井川の流れを見下ろし、富士山など遙かに見えて風景の佳境なり」 と言われた通り、金谷の駅を見通す眺めは素晴らしかったようだ。 しかしその足元は、「あおねば」と呼ばれる粘土層が露出している。 雨でも降れば、「膝まで埋まるぬかるみ」と形容されるほどの悪路・難路であった。
当時はその解消策として、例えば箱根峠では、山に自生する箱根竹を刈り取り束にして敷き詰めていた。 また神奈川宿に近い生麦の村では、貴人が通ると、近辺の麦を刈り取りぬかるむ道に敷き詰めていた。 これが「生麦」という地名発祥説とも言われている。
しかしこうした道は耐久性には乏しく、度々やり替えが必要でその労力や資金も馬鹿にはならない。 その為東海道が整備されるに当り、箱根には耐久力のある割石が敷き詰められることになった。
一方この金谷坂では、江戸末期になりようやく、本格的な道普請が行われる様になった。 牧之原台地に堆積し、豊富に有るという丸い山石(大井川の川石と同質の石)を敷き詰める工事である。 約400間(約720m)程であるが、当時としては画期的な舗装道路で、雨降りの難儀もずいぶんと解消され。
しかしその道は、明治以降の近代化で殆どが失われることになる。 電柱や電線の敷設工事などで掘り起こされ、或は埋められ、鋪装するなどで残されたのは僅か30mであったと言う。 そんな石畳を復元しよう・・・との機運が盛り上がるのは、平成に入っての事である。
金谷坂の、旧石畳路の復元機運が盛り上がったのは、平成の世に入ってからである。 旧金谷町民による「平成の道普請」と銘打った一人一石運動が行われた。 600名余りの町民により430m程の道を蘇らすことが出来た、それが今日目にする石畳路である。
しかし鏡面の様な路面に慣れ親しんだ現代人の足の裏にとって、丸い石の道はなんとも歩き難いものだ。 比較的大きく平らな面で揃えられているが、半端無い凹凸感と、石の隙間の存在は絶えず足下を危うくさせる。 一瞬でも足下から視線を外そうものなら、ぐらついてたちまち捻挫の危険に襲われそうな不安が付きまとう。 ここは上りの苦しさはあるが、歩きやすさから言えば、下るよりは遙かに安全なのかも知れない。
坂の途中には赤い幟旗の立ち並ぶ「すべらず地蔵尊」がある。 路に敷き詰められた丸い石は、川石に比べると表面にはざらつきが有り、滑りにくいと言う。 このことから受験や商売等の願をかければ、滑らず叶えられると信仰が篤いのだそうだ。
丁度この辺りで、自転車を押しながら下ってくる若者と出会った。 「きついですね」「きついです〜」と声を掛け合い、しばしこの坂の話題で話が弾む。
いくら表面が滑らかな丸い石とは言え、流石に自転車に乗ったままでは走行も出来る筈がない。 長い登り坂を、延々と自転車を押しながら歩いて頂上を越えて来たという。 ようやく下りになり、ほっとしたのもつかの間、まだまだこの石畳の下り坂が続いている。 「押し歩きは、上り以上に下りがきつい、注意もいる」とこぼす若者の顔は紅潮し、額には玉の汗が光っていた。
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