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難所を控えた島田宿
藤枝宿の出口に当たる瀬戸川に架かる勝草橋を渡ると、橋の欄干に「田沼街道」と書かれた銘板が張られていた。 江戸中期に権勢を誇った老中・田沼意次が、整備させたと言われる約七里の脇往還・「田沼街道」である。 彼は、自地・相良にお国入りするために、ここを起点に相良湊までの道を開かせた。 当時の街道は、海岸部と山間部を結ぶ物資の輸送ルートで、特に塩の道として盛んに利用されたという。
その橋を渡りきると、右手に志太一里塚跡の碑がある。 フェンスに囲まれた中には、秋葉神社の常夜灯も立っている。このような石灯籠は静岡県に入ると方々で目にする。 ここらあたりは昔から火伏の神として知られ、浜松市にある秋葉山本宮・秋葉神社への信仰が根強いらしい。
島田宿は背後に大井川を控えているだけに、その規模は可成りのもので有ったようだ。 川留めも度々起き、時には長期間に及ぶこともあったらしいので、その備えが規模に反映されているのである。 本陣も3軒あり旅籠の数も48軒、宿内の家数1,461軒、7,000人近い人々が暮らしていた。 宿場の中心は、JR島田駅近くの島田本道りの辺りと言う。 通りは賑わいのある商店街で、当時を彷彿させるものは何も残されてはいない。
見るべきものもない商店街を外れると、前方に大井神社の豊かな森が見えてくる。 島田の産土神で、三年毎に行われる帯祭りが有名らしい。 他地区から輿入れした花嫁を宿内で披露した名残で、今では帯だけを神社に奉納して披露するのが始まりとか。 三日間行われる最終日には、大名行列、御神輿など豪華な行列が東海道を練り歩くという。
そこから400m程行った北側に大善寺がある。 山門脇に閻魔堂が、よく手入れされた境内には鐘堂もあり、時の鐘が備え付けられている。 嘗ては昼夜二時間おきに宿民に刻を告げると同時に、大井川川越しの始まりと終わりの合図ともなっていたそうだ。 今では年一回、除夜の鐘として撞くのみだという。
島田宿の外れにある大善寺前を過ぎると、正面遠くに白い大きな煙突が見えてくる。 お寺からは西におよそ1キロ、製紙工場の煙突である。 その工場の正門を左に見て進み、その先で県道を左に外れ旧道に入る。 工場のブロック塀に沿って、工場地域らしい閑散とした広い通りを道なりに5分ほど歩く。
大井川川越遺跡
やがて前方に江戸時代にタイムスリップしたような、「島田宿 大井川川越遺跡」の再現された町並が現れた。 元禄9(1696)年に定められた「川越制度」に基づいた、大井川を越える東の拠点である。
ここには川越を取り締まる「川会所」が設けられ、決められた人数の川越人足が置かれていた。 その人足は当初、対岸の金谷と同じそれぞれ350人と定められていた。 その後交通量の増加に伴って増加され、幕末の頃には650人ほどに増えていたそうだ。
通りには、様々な復元された建物が建ち並んでいる。 口取宿は、45歳で引退した人足が詰める場所で、荷縄屋は、荷崩れした荷を直す人足が詰める場所である。 仲間の宿は、年取った人足が集う場所で、札場は、川札をお金に換える場所である。
又、川越人足が詰める番宿である小屋が、1番から10番まで再現されていて、まるで時代劇のセットのようだ。 人足の出動は川渡しのニーズにより、番小屋毎に当番が割り振られていたという。
「川会所」は安政年間に建てられた建物が現存し、修理・復元され一般に公開されている。 会所には川庄屋が詰め、その日の水深を計り、川越賃銭を決めていた。 大名から一般の旅人まで、全ての川越の差配をし、川札の販売と人足の手配を行っていた。
川越しは明け六つ(午前6時頃)から、暮れ六つ(午後6時頃)までである。 それを知らせたのが島田・大善寺の時の鐘だ。 川越えは、飛脚が最優先で渡され、次に大名・武士が渡され、何時の時代も弱い庶民は一番の後回しとなる。 街道そのものが、幕府の公用を宿駅で人馬を交替しながら伝えるために整備が行われたからだ。
川会所跡の近くに、関川庵という小さな寺が有り、そこには八百屋お七の恋人・吉三郎の墓がある。 江戸時代、天和の大火で家を失った八百屋の娘・お七は、避難先の寺で小姓の吉三郎と恋仲になってしまった。 やがてお七の屋敷は再建され、吉三郎とは離れ離れになるが、お七の恋心は募るばかりである。 火事になればもう一度彼に会えると思い詰めるお七は、恋しさの余り自宅に火を付けてしまった。
事は露見して、捉えられたお七は市中引回しの上、品川宿外れの「鈴ヶ森刑場」で火炙りの刑に処せられる。 お七の刑死後、吉三郎は僧となり、供養をしながら旅を続けて来たが、大井川を前に病で倒れこの地に葬られた。 寺には、吉三郎の息子が奉納した供養の地蔵尊が残されているという。
「馬方は しらじ時雨の 大井川」、川会所跡の庭に残された松尾芭蕉の句である。 島田宿を水害から守り、米の出来高を飛躍的に向上させた「島田大堤」の痕跡が残されている。 あふれる水をここで防いだと言う「せぎ跡」なども有り、ここには水との壮絶な戦いの跡も幾つか残されている。
「朝顔の松公園」内にも多くの歌碑や句碑があり、当時から文人墨客も感慨深く川越をしていたらしい。 川の堤防に上る手前右側には、「島田市博物館」があり、川越の歴史や様子を詳しく伝えている。
越すに越されぬ大井川
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」
伝馬制が制定され整備の進む東海道であったが、幕府は多くの川に橋を架けるのを禁止した。 これは偏に江戸の治安維持が目的とされるが、旅人にとっては迷惑この上ないことである。 東の箱根や西の鈴鹿が陸路の難所なら、海上を舟で行く七里の渡し(宮から桑名)などは海路の難所である。 ここ大井川では、架橋どころか渡船さえ禁じられていて、旅人にとっては街道でも指折りの川路の難所であった。
徒で渡るより方法がない大井川、慣れない土地の知らない川を渡るには、旅人には余りにも危険が多すぎる。 その為に川越えの手助けをしたのが、川越え人足である。
川越えは川を越える難儀だけではなく、水嵩によりほぼ倍に跳ね上がる賃料の高さも旅人を大いに悩ませていた。 特に参勤交代の大名など大人数にともなると、時に支払いは数十両にも上ったという。 これは大名の体力を削ごうと目論む幕府の思う壷であるが、とばっちりを受ける庶民はこれではたまらない。
例えば股通しと言われる一番水の少ない時に、肩車渡しなら川札は1枚48文ですみ、男はこれで良かった。 しかしさすがに女は肩車ともいかず、多くは四人で担ぐ蓮台渡しを利用した。 人夫は四人必要で川札は4枚となり、更に蓮台用にも2枚の川札が必要で、合計6枚もいった。 これは今の価値に換算すると、8,000円から1万円程度と言うからかなりの高額である。
東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんも、なんとか渡し賃を値切ろうと川問屋(川会所?)にやってきた。 侍に化け詭弁を弄して頑張るが、腰に差した長刀の小尻が折れていては欺すことも叶わず、逆に皆に笑われる始末。 嘘がばれ480文払って蓮台で、肝を冷やしながら渡っている。
このように銭を持った旅人はまだ良いが、銭を持たない庶民ともなると対応は異なってくる。 川会所に事情を説明し認められれば、無銭奉仕の人足が担ぐ丸太に数人単位でしがみついて渡っていたという。 正に命がけの川越であるが、渡れればまだましで、時に川留めで川渡りが出来ない事もある。
記録によると最長は、一ヶ月近く川留めが続いた事もあったらしい。 これでは、滞在中の宿泊費も嵩み、出費は想像を絶するものがあったようだ。
「♪♪ 春咲く花の藤枝も 過ぎて島田の大井川 昔は人を肩に乗せ 渡りし話も夢のあと ♪♪」
難儀を極めた「越すに越されぬ大井川」の歴史は、江戸幕府が終焉を迎え、明治維新となると事情は一変した。 川越制度が廃止になり、通船が許されるのは明治3年のことで、その翌年には早くも渡し船の運行が始まっている。 その後仮橋ながら木橋が架かるのはそれから数年を待つが、橋も度重なる水害で流されることが度々あったという。
島田の町中を鉄道が貫き、旧東海道筋の川に橋が架かると、人々の利便性は格段に向上することになる。 明治22年に島田の町にも待望の鉄道の駅が開業した。 当時はやった鉄道唱歌は、大井川や喜びに沸く島田の情景をこのように歌っていた。 (「鉄道唱歌第一集東海道編」 明治33年)
昭和3年には、5年の歳月をかけ、当時の技術力を結集して、長さは1026.4mの橋が架けられた。 橋台2基、橋脚16基で支えられる、旧国道1号線に架かる永代橋(トラスト橋)・大井川橋である。 完成により川越人足の手を煩わせることも無く、今では安全に、しかも無料で渡ることができる。 今なお当時の姿を良く残す橋は、土木学会の土木遺産の認定を受けている。
500m程の「島田宿 大井川川越遺跡」の再現された町並を抜けると、大井川の堤防に突き当たる。 広々とした堤防路に出て、北に折れ600m程先で左折して大井川大橋を渡る。 これで駿河国は終わり、遠江国・金谷の宿へと入っていくが、その距離はおよそ一里(3.9q)である。 当時はその半分近い距離が、「越すに越されぬ大井川」の川越えであった。
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