|
峠を下った岡部宿
東海道の難所として知られる薩田峠は、当時は峠越しの道ではなく、道とも呼べない狭い海岸の浜辺であった。 潮の満ち引きに合わせ、波しぶきを浴びながら、命がけで駆け抜けていたようだ。 奈良から平安時代の古代東海道は、駿府を出ると安倍川を渡り、日本坂を登る、より海に近いルートであった。
しかしこのような海際の道は、常に通行が可能ではなく、あまつさえ命の危険にさらされる事もあった。 その為何時しか、例え厳しい道程でも、人里も無く心細くとも、より安全な山側のルートが好まれるようになる。 この宇都ノ谷の厳しい峠道も、中世以降に発達したそんな山越えのルートの一つである。
宇都ノ谷峠を下ると坂下の集落で、そこに坂下地蔵堂が有る。 堂内には峠を行き来する旅人の安全を守る地蔵菩薩像が安置されている。 堂前の木陰が、峠を上り下りする旅人の疲れを癒やしたと言う。 地蔵堂の先に、「つたの細道 西口」と彫られた石柱があり、ここで旧東海道と古の道「蔦の細道」が合流する。
国道の側道を500m程歩き、道の駅のところで、歩道橋を渡り国道を越え右の旧道に入り込む。 横添の集落の辺りで、岡部川が近づきそれに沿って道なりに進む。 街道の所々には、松が忘れ去られたように残され、人や車と行き交うことも少ない静かな通りである。 やがて、当時は土橋が架けられていたと言う、岡部川の岡部橋を渡り、岡部宿に入って行く。
岡部は、本陣と脇本陣がそれぞれ2軒、旅籠が27軒、人口2,300人余りの小さな宿場である。 しかし、大井川が川留めともなると、ここにまで泊まり客が溢れ、大層な混雑を見せていたという。
特にここでは大名が泊まるとなると、夜具が不足して隣の宿場から借りていたらしい。 どこに借りに行ったのか、宇都ノ谷峠を越える丸子の宿とは考えられない。 恐らく、西の藤枝の宿で有ろうが、それでも二里八町(8.7q)も離れている。
大旅篭柏屋
宿場の通りで一際目を引くのは、この宿を代表する規模を誇り、大旅籠と言われた柏屋(かしばや)である。 今日目にするものは、天保7(1836)年に建てられた旅籠と質屋を兼業した、延べ床面積が約100坪と言う建物だ。 2,348坪という広大な敷地に建つ建物は、過去に二度火災で焼失し、今の建物が三代目という。 国の登録文化財に指定され、内部は「柏屋歴史資料館」として一般に有料で公開されている。
県道沿いにある大旅籠の隣には、「内野本陣史跡広場」がある。 広大な敷地内に、当時の建物は何も残ってはいない。 本陣建物の間取りを、石を埋め込む平面で表示していて、当時の規模はそれで窺い知ることが出来る。 この広場はイベント広場として活用しているという。
大旅篭「柏屋」「本陣史跡広場」は、岡部宿を代表する施設である。 併設された物産館「かしばや」では、手作り民芸品や工芸品、お菓子などが売られている。 又、ギャラリー「なまこ壁」、体験工房「夢の路」や、和風処「一庵」(休憩飲食施設)も併設されている。
小野小町の姿見の橋
小野小町は、東下りでこの地に泊った折、この橋の上から夕映えの西山の景色に見とれていた。 ふと足元に目をやると、且つての輝きを失い、疲れ果てた自分の姿が川面に映っていたという。 嘗ては絶世の美女とまで言われた己の、その今の姿を見て、老いを大いに実感し嘆き悲しんだらしい。
県道を外れ左の旧道に入るとその途中に、うっかりしていると見過ごしてしまいそうな小さな石橋があった。 説明版には「小野小町の姿見の橋」とあり、是が小町伝説の残されている橋である。 今では町中にあり、川の流れもなく、顔も映らない小さな用水路のような水路である。
藤枝宿
その先には高札場跡や問屋場跡、桝形跡などがある。 更に進むと岡部の町の中心街を抜けた藤枝バイパスの手前には、見事な松並木が今も残されていた。 並木が切れる辺りに「これより東海道岡部宿」と彫られた、立派な石碑と常夜灯が立ち西の出口を示している。 その先で高架橋を潜ると道は二つに分かれ、左が国道1号線、右が藤枝に向かう旧東海道だ。
岡部宿の西見附辺りには見事な松並木が残されていた。 その先にも、所々に残る松並木の道を辿り、岡部から藤枝宿に入ってきた。 この宿場町は家数1,061軒、人口4,425人、2軒の本陣を構え、旅籠は37軒有ったという。 江戸方の木戸から、京方の木戸まで半里(およそ2キロ)と言うから、宿内が随分と長い。
その街道筋には、九つもの町が連なって宿場を形成していたから、かなり大きな町並であったようだ。 先ほど通り抜けてきた岡部宿と比べると、旅籠の数も多く、宿内の人家の数や人口はほぼ倍とかなり賑やかである。 岡部宿が混雑した折に、夜具を貸し出す余裕が有るのも、なるほどと肯ける。
そんな宿場には、昔を彷彿させる建物などの遺構は何も残されてはいない。 今日ではさわやか通り、長楽寺商店街、ちとせ通り、白子名店街、上伝馬商店街と続く繁華な町並に変貌している。 通りのオフィスやマンション、様々な商店に混じって、中には「かざりや」「表具師」等と看板を掲げた店がある。 また、江戸時代から180年以上も続く藤枝だるまの店なども有り、この町の歴史を感じさせる。
お寺と銘木
是まで東海道では街道筋を見てきて、その周辺には多くの社寺が立地している事に気付く。 勿論人々が大勢集まる宿内である、信仰の対象として寺の存在は、当たり前かも知れない。 しかし、伝馬制により東海道が成立する以前の社寺は、一朝有事の際の兵の駐屯地として機能していたようだ。
江戸幕府も、当初は有事の場合を考えていたようで、宿場周辺には多くの社寺をそのまま残している。 やがて世情が安定した時代に入って、人々が多く旅に出るようになると、街道の寺の役割も変化する。
幕府は東海道が成立すると、旅篭以外での宿泊は原則的に禁じていた。 しかし川留めなどの混雑時などでは、それでは収容しきれない場合もある。 こうした場合、民家や寺も使われ、旅籠を補完する一定の役割も担っていたらしい。
この宿場にも、街道筋から少し控えた地に幾つかの社寺が見受けられる。 東の木戸に近い須賀神社は、ご神木の大クスノキが知られている。 蓮生寺は長者屋敷であったが、熊谷次郎直実が出家して立ち寄り、念仏道場にしたのが起こりだという。
大慶寺には「久遠の松」と呼ばれる銘木がある。 是は今から700年程前、日蓮上人が比叡山で勉学を終えた帰りに、この地に立ち寄り記念に植えたものだそうだ。 また正定寺には、城主が出世した事を記念して植えた傘形の「本願の松」などがある。 この宿場もご多分に漏れず寺社が多いが、それぞれに銘木が知られているのも特徴的である。
家康ゆかりの地
藤枝宿は、徳川家康の重臣・酒井家が治めた田中城の城下町である。 江戸時代には、旧街道からは少し外れた東南の田中という地に田中藩があり、その藩庁として城が築かれている。 その為藤枝城では無く、田中城と呼ばれていたようだ。
そんな藤枝の旧街道の通りに、「徳川家康ゆかりの町 藤枝白子町誕生物語」と書かれた幟旗が立っていた。 その横に「白子由来碑」と書かれた立て看板があった。 「碑」はうっかりしていると見過ごしそうなぐらい目立たない、眼科の入口の植え込みの中にひっそりとあった。
説明によると本能寺の変の折、難を逃れて伊賀越えを決行した家康は、伊勢の白子で再び危機に遭った。 その難を救ったのが自宅に匿った(麦畑に隠した、或は舟で知多半島まで逃がした等説有り)小川孫三である。
家康は彼の機転で救われ三河に帰り着くが、匿った罪を責められる孫三は当地には住めなくなってしまった。 そのことを知った家康は、孫三を藤枝に呼びこの地に住まわせ、そこを新白子町とした。 その上ゥ役免除の免税地として朱印状を与えたが、それは今でも小川家に残されているそうだ。
当地では徳川家康に纏わるこんな逸話も残されている。 鷹狩りの折、田中城に立ち寄って、茶屋四郎次郎に鯛の天ぷらを供された。 その後、家康は体調を崩し、重体のまま駿府に帰城したが、体調は回復せず、その4ヶ月余り後に死亡した。 その為、四郎次郎にはあらぬ疑いがかけられたが、その死は鷹狩りからは余りにも時間が空きすぎていた。 当時の様子を伝える文書などから、実際の死因は胃がんと推察でき、今ではこれが有力な説となっているようだ。
(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved. |