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峠に向けて
丸子宿の西の外れ、丁子屋を背にして丸子橋を渡ると、右手に「丸子元宿高札緑地」という小さな公園がある。 ここが宿場の西側の入口(京方の見附)に当たる場所で、何本かの高札が再現されている。 この先で旧道の沿線は人家も疎らになり、宇津ノ谷峠を目指す緩やかな登り道へと転じていく。
国道1号線の側道に出たり離れたりをくり返し、歩く事1時間弱、左側に道の駅「宇都ノ谷峠」が見えてきた。 ここが東海道の中では箱根や鈴鹿に次ぐ山の難所、宇都ノ谷の峠を越える道の入口だ。 古くから「峠上り下り十六丁也」(1丁は約109m)と言われる難路である。 この辺りの標高は60m余り、峠はこの間でそれより100m余り高いところまで登っていく。
国史跡・蔦の細道
道の駅の脇に、「蔦の細道 山越旧東海道 明治トンネル 伝説十団子 延命地蔵尊御羽織屋」の道標がある。 その横から延びる草むした石段が、江戸時代以前の古代東海道で、国史跡に指定されている宇都ノ谷峠道である。 千百年以上も前に開かれた道で、かの在原業平の伊勢物語でも知られている。 昔はその登り口付近に、鬼退治伝説のお守り、十団子を売る茶店があったようだ。
豊臣秀吉が小田原の北条攻めの折、大軍を通す為新道を開くまでは「蔦の細道」が東国への重要な道路であった。 新道が開通し「今は樵行通ふ。今も蔦楓生しげれり」と言われる旧道は、ハイキング道となっている。 途中頂上の少し手前には、伊勢物語の歌碑もあるらしい。 峠を越えて下った西の出口辺りで、江戸時代に整備され、参勤交代の大名も行き来した新道と合流するようだ。
宇津ノ谷の集落
旧東海道は、国道1号線(岡部バイパス)のトンネルの手前で左に折れ、国道と分かれる車道に出て陸橋を渡る。 激しく車の行き交うトンネルの出入口を下に見て、勾配のきつい車道をカーブしながら上っていく。 しばらく道なりに県道208号線を歩き、右に県道がそれる二叉路を左の細道に入るのが旧道だ。 直ぐに小さな橋を渡ると、その先の道沿いに宇津ノ谷の集落が延びている。
ここは丸子と岡部の間にあって、宇都ノ谷峠を控えた間の宿として栄えたところである。 街道は落ち着いた色のレンガタイルが敷き詰められた余り広くはない道で、峠に向けて緩く登りながら延びている。 その登り坂の両側には、昔の屋号を書いた看板を掲げる木造平入の低い家並みがぎっちりと立ち並んでいる。 それは渋茶色の150m程続く町並で、往時の雰囲気を良く伝え、何だか懐かしい雰囲気を醸し出している。
坂の途中に「御羽織屋」と言う屋号の家があった。 説明によると秀吉による小田原攻めの折、勲功により拝領した「秀吉お召しの羽織」を所蔵していると言う。 後にこれ見た家康からは、記念の茶碗を与えられ、それらを所蔵し家宝にしているという石川家だ。 生憎とこの日は拝観中止の札が張られ、雨戸が閉じられていた。
宇津ノ谷の集落を抜け石段を登り切ると道は、いよいよ峠に向けてその勾配がきつくなる。 急勾配で登りながらのヘアピンカーブを過ぎると、きれいなレンガタイルの道は尽き、草の生える地道に一変する。 ここで左に折れれば、明治に掘られたトンネル(登録有形文化財)に向かう道がある。 しかし旧東海道は、ここでは反対の右に進む。
国史跡の峠越え
「国指定史跡 東海道宇津ノ谷峠超え」の大きな立て看板が立っていた。 濃い緑の中に、黒い口をぽっかり開けた旧道の、いよいよここからが登り口だ。 ここら辺りでの高は100m程で、宇津ノ谷の入口が72mなので、集落を抜ける間に30m近く登ったことになる。
街道は、深い森の中に入り込む様相で、最初は緩やかな階段を上りながら、少しずつ高度を稼いで行く。 辺りは静寂そのもので、時折聞こえる鳥の囀り以外聞こえるのは自分の足音だけだ。 気温も幾らか下がったようで、濃い緑の中の道は、幾らか湿り気を帯びているようにも感じられる。
やがて階段道も尽きるとでこぼこの不安定な道で、所々に往時のものなのか人工的と思われる石も埋まっている。 10分程歩くと木立の隙間から、先ほど通り抜けてきた間の宿・宇津ノ谷の家並みが箱庭のように見えてくる。 やっとの思いで峠を下ってきた旅人が、ホッと一息着いた町並の眺めは、今も昔も変らないと言う。 そして皆一様に、名物の十団子で早く身体を休めたものだと思ったに違いない。
街道は更に薄暗く、曲がりくねった狭い道を上って行く。 途中で俳人・雁山の墓を見てその先に進むと、少し開けたところに、延命地蔵堂跡があった。
苔むし、つる草などが絡んでいるが、一目で二段構えの人工的な石垣であることがわかる。 江戸時代中期に組まれたものらしく、その上に峠の延命地蔵として信仰を集めたお堂が建っていたという。 この地こそが、鬼退治伝説に因む十団子の起源とされる地蔵堂があった場所である。
東海道はやがて八丁(凡そ900m)の道を上り詰め、標高167mの宇津ノ谷峠のサミットを迎える。 峠を示す小さな黄色い札が、大木の幹に巻き付けられている。 「宇都山の峠は道せばく、難所なり」と言われ、苦しみ、登り至った峠にしては、あっけないほど狭小な荒れ地だ。 道幅は一間にも満たず、上り終えた頂の先は、次の一歩がすぐ下りへと転じるような道である。
ここは秀吉が小田原征伐の折り、大勢の兵士を送り込む為、古代の「蔦の細道」に変わる道として切り開いた。 さすがの秀吉も、街道並みの拡幅が出来なかったのか、どうにかやっとの思いで切り通したというような峠だ。 これでは兵士は並んでは通れず、大軍を通すには大層な苦労があったのではと思われる。 しかし、とにも角にもこの峠越えの新道は、江戸時代に官道とし成立した東海道の礎となった。
四世代のトンネル
「山を愛する 巧みの削成せる山也」
鎌倉時代の紀行文「海道記」は、宇津ノ谷峠をこのように表現し、紹介している。 峠は、古くから街道の難所として広く知られていた。 今風に言えば、日本を縦断するフォッサマグナの、西縁を走る「糸静線」と呼ばれる構造線である。 静岡県内では、山がそのまま駿河湾に落ち込んでいて、俗に大山崩れと呼ばれる厳しい地勢を見せている。
厳しい地勢ゆえ、峠越の道は過去から現在に至る歴史の間に、五つのルートが変遷を重ねてきた。 始まりは、在原業平の伊勢物語で知られる古道「蔦の細道」がそのルーツである。 その後秀吉により開かれた新道が、中世東海道の礎となり、やがて官道として定着した。
明治には標高115mの峠近くに203mのトンネルが掘られ、日本で最初の有料トンネルを抜けるルートが出来た。 更に大正になるとその西側に、大型自動車も通行が可能な新たな大正のトンネル(227m)が完成した。 やがて昭和に入ると標高70mほどの地に幅員9mと言う、当時としては最大規模のトンネル(844m)が完成する。 それが現国道1号線上り線のトンネルである。 しかしそんな自慢のトンネルも、その後の通行量の増加で、峠付近は慢性的な交通渋滞の名所となってしまった。
その後大動脈のネックを解消するために、新たに平成のトンネル(881m、幅員11m)が掘られたのである。 完成するとそれが下り専用線となり、今まで有った旧線が上り専用線となった。 このように宇津ノ谷峠には明治、大正、昭和、平成の四世代に作られた、今でも通行可能なトンネルが現存している。 昔から難所として知られた地は、一方で日本の動脈を支え続ける、全国的にみても特異で貴重な場所と言える。
このような歴史を重ねてきた東海道の大動脈、国道1号線の長大なトンネルは旧道の地下深くを貫いている。 その為か、旧東海道の峠までの登り道は静寂そのもので、車の行き交う音は全く聞こえてこない。
あっけないほどの峠を越えると、岡部宿に向けての下り坂が直ぐに始まる。 下り道は次第にその幅員が広くなり、所々で舗装された道もある。 是はトンネルが出来たことで、その管理道路が通され、旧道が損なわれたことによるものらしい。
途中、道中の安全を願った「ひげ題目の碑」や、「蔦の細道」を称えた蘿径記の碑などの見どころもある。 坂を下り切れば、坂下地蔵堂が疲れた体を出迎えてくれる。
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