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川会所跡・みろく公園
旧道の行き先正面遠くに、安倍川に架かる鉄橋が見える弥勒の地にやってきた。 右から県道が近づき、旧道と挟まれる三角地に交番があり、その奥が「みろく公園」の緑地である。 当時幕府は、表向き宿場に遊女を置くことを禁止していたが、そんな中唯一官許の遊郭があったのがこの地だ。 ここは丁度、府中宿の西側の見付を出た辺りになる。
街道が成立すると東海道五十三次の宿駅の旅籠には、「飯盛(めしもり)女」が現れた。 宿場の遊女は禁止されていたので、その代わり旅籠一軒に付き、「食売(めしうり)女」を二人許していた。 しかし「食売女」は何時しか飯盛りと称し、泊り客の相手をするようになった。 遊郭のない宿場の、いわば幕府黙認の売春婦である。
交番のある辺りが川会所跡で、ここには町奉行所からも警備の目的で、何人かの役人が出張っていたという。 橋のない川にあって、往来する人の川越を監視し、旅人に渡し賃である川札を売りさばく。 又、川越人夫の差配や、賃銭の徴収などを担う川役人が詰めていた場所だ。
公園内には「由井正雪墓跡」がある。 幕府転覆を企て失敗し、追い詰められ自刃した正雪の首が晒された場所とも、その昔の墓跡とも言われる地である。 多額の私財を投入し初代の木橋・安水橋を架けた弥勒町の名主・宮崎総五を顕彰する「安倍川架橋の碑」もある。 宮崎家は代々川越の総取締を務めた家柄である。 公園内には、「立場跡」「正念寺跡」「明治天皇御小休所跡」があり、小さいながらも旧跡・史跡の多い公園だ。
安倍川名物・金な粉餅
「弥勒茶屋とて安倍川餅の名物也」
弥勒公園を後に、安倍川大橋の東詰めにやってきた。 名物「あべかわ餅」を製造販売する小さな店が三軒ほど並んでいる。 昔から「かみ子餅」とも、また一つが五文(今なら50円程)程で売られていた事から「五文どり」とも言われた。
その昔、家康が対岸の金山を巡視し、当地で休息をした折の事である。 この地の男が、搗き立ての餅に黄な粉をまぶし、「金な粉餅」と洒落て献上した。 すると家康は大層気に入り、その機智を誉め、自ら「あべかわ餅」と名付けたと伝えられている。 当時白砂糖は大変貴重で、それが盛られている事が評判を呼び、街道の人気名物になるのは江戸中期の頃らしい。
今では漉し餡や粒餡を絡めたものや、餅をわさび醤油に付けて食べる「からみもち」などが売られている。 柔らかく撞き上がった餅を手で丸め、黄な粉と漉し餡をまぶしお盆に盛り、その上に白砂糖をかけて供してくれる。 このままだと白砂糖は絡みにくいので、餅を小さく切ってまぶしながら食べるのが良いと言う。 柔らかいが餅らしい歯ごたえもあり、餡の甘さと、黄な粉の香ばしさに白砂糖の甘さが絡みとても美味しい。 加えて茶処、駿府のお茶は、歩き疲れた身には一服の清涼剤で、餅と合わせこれなら腹持ちもよさそうだ。
阿部川の義夫の碑
安倍川大橋の手前に、「阿部川の義夫の碑」が立っている。 正直な川越人夫を顕彰する碑で、説明板には次のように書かれている。
『元文年間に紀州の漁夫が仲間と貯めた大金150両を持って川を渡ろうとした。 しかし渡り賃が高いので、着物を脱いで自ら川を渡ったのだが、その時誤って財布を川に落としてしまう。 それに気づいた人夫の一人が財布を拾いあと追いかけた。 宇津ノ谷峠の手前で、慌てて引き返してくる漁夫と出会い、そこで財布を渡した。
漁夫は喜んでお礼を申し出るが、「当たり前のこと」として受け取ろうとしない。 仕方なく、漁夫は礼金を奉行所に託し、届けることにした。 後日奉行所は人夫を呼び出し、礼金を渡そうとするが、それでも頑なに受け取ろうとはしなかった。 奉行所は仕方なくその金は漁夫に返し、代わりに奉行所から褒美の金を人夫に渡した』と言う。
安倍川の渡し
甲斐国の白根を水源とする安倍川は、大井川と並ぶ徒渡りの大河である。 架橋が禁じられ、川越え人足の手を借りての渡しだが、その渡し賃は、水深で事細かに決められていた。 脇下から乳通りまでなら六十四文、へそ上だと五十五文、へそまでは四十八文、股までは二十八文、股下は十八文、 ひざ下は十六文などである。
あの弥二さん喜多さんは、「昨日の雨で水嵩が高い」言われ、一番深いときの決まり一人六十四文を払っている。 人足の肩車でやっとの思いで向こう岸に付くと、酒手をさらに十六文も弾み、二人で百六十文も散財した。 「ヤレヤレご苦労」と別れた人足を送るのだが、見ればなんと川上の浅瀬をすたこらと向こう岸に向かっている。 何のことはない、あえて深みを渡り、一番の高値をふんだくられたのである。
明治に入ると川越人足の制度は廃止となり、渡し舟が運行するようになる。 さらに「安水橋」と呼ばれる木橋が架けられ、やがて鉄橋(トラス橋)が架かるのは大正12年のことだ。 この年に橋の名前も「安倍川橋」と変えられている。
長さ490.9mの安部川大橋を渡る。 下流側に歩行者・自転車用の通路が設けられているので、車に心配することもなく快適に歩くことが出来る。 取りかかりの左岸に近い辺りの川は、幾筋にも分かれて流れているせいか、さほど水深は無さそうに見受けられる。 それでも右岸に近い辺りでは結構な川幅となり、可成りの水量で流れ下っている。 当時は今のように水流が纏められ、強固な堤が築かれていたわけでは無さそうだ。 更に多くに分流し水深もさほど無かったが、徒渡しはこの橋の50mほど川下から堤に上がっていたという。
間の宿・手越の古駅
渡り終えたところが間の宿・手越である。 間の宿は宿場間の距離が長い場合などに、その中間地点に開かれることが多い。 府中から次の宿場・丸子までは、一里十六丁(およそ5.7q)しかないので、ここは川留め対応の間の宿である。
ここは吾妻鏡や平家物語にも登場する「手越の古駅」として知られた所だ。 鎌倉街道の宿駅として発達した当時は、府中宿よりもこちらの方が栄えていたという。 今は落ち着いた静かな街並みが続いているが、当時のもので残るものはほとんど無いそうだ。
川の西詰に史跡の案内板があり、そこに「千手の像 平家物語 能・千手 に登場」とある。 鎌倉時代、この地で生まれた長者の娘・千手の前(白拍子)は、北条政子の女房として仕えていた。 そこに一の谷の合戦で敗れ、捕らえられた平重衡が送られてきて、その世話を命じられたのだが千手である。 身近に仕える千手の心には、何時しか恋心が芽生えてしまった。 その後、重衡は奈良に送られ木津川で処刑されると、儚んだ千手も後を追うように亡くなったという。
万葉の地・沢渡
川留め対応の間の宿・手越を後に、所々に残る松並木を見ながら県道を進む。 手越原で国道1号線に合流するも、その先の佐渡交差点で、直ぐに左の県道208号線(旧道)にそれる。 街道は次第に、山に近づいて行く様相で、行く手遙か前方には、緑濃い山の立ち塞がりが見通せるようになる。 宇都ノ谷の峠に連なる山塊で有ろうが、峠はあの峰のまだまだ先の先である。
暫く行くと左手に古い地蔵堂があった。 そこには、子に恵まれない夫婦の信仰を集めた「沢渡の子授地蔵尊」と書かれた案内板が立っている。 この堂内のお地蔵さんを一体持ち帰り、家に祀り信仰すれば子供が授かると言われている。 めでたく子を授かると新しいお地蔵さんを一体造り奉献し、お礼参りをしたのだそうだ。
その道路を隔てた反対側には、「さわたり手児(てご)万葉歌碑」が立てられている。 説明板によるとこの辺りの地名であった「さわたり(佐渡)」は、古くからの地名で、万葉集でもうたわれていた。 近年その地名が消えたことを惜しんで地元の「地名を惜しむ会」が立てたとある。
江戸文字が懐かしい丸子の宿
かつて手越から先、丸子の宿の入り口までは、見事な松並木が続いていたと言う。 道の両側には松を植える土手が築かれ、土手には笹が生い茂っていた。 戦後までは人家も明かりも乏しく、夜ともなると「オバケ、オイハギ」が出ると噂される程の寂しい場所であった。 丸子交番の辺りで大きく右にカーブすると、やがて日本橋からは46里の一里塚跡がある。
左手に丸子川が近づいてくると、その先が江戸方の見附跡で、丸子の宿に入って来た。 この辺りから道幅が急に狭くなるのは、当時の姿を今に伝えるもののようだ。 ここ丸子宿は、江戸から数え20番目の宿場で、今日とは違って当時は「鞠子」とも書かれていた。 歴史は古く文治年間(1189年)に、源頼朝に願い出て許しを得て、奉行が置かれ駅舎となったと伝えられている。 これは東海道の成立より400年以上も前の事で、以来連綿と続く宿駅と言う事になる。
丸子は「此の宿には飯盛り女なければ」と言われた小さな宿場である。 町並みもさほど長くはなく、東西350間(凡そ630m)で、その宿内に本陣1軒、脇本陣が2軒有った。 旅籠は24軒で、その内大規模が2軒、他に中規模16軒、小規模6軒で、家数は211軒、人口は700人余りである。 今日古い建物はほとんど残されてはいないが、何となく懐かしさが感じられる街道筋である。
近年になって国道が旧道から外れて通され、宿通りと呼ばれる旧街道は、国道の裏通りと言った感じで残された。 そんな街道沿いの所々には、江戸文字で書かれた、何となく懐かしい木製の案内板も充実して立てられている。 道沿いの家屋は、間口が狭く奥行きの長い当時を引き継ぐ造りらしい。 僅かに残る格子戸の家を始め、多くの玄関先には旧屋号の札も掲げられていて、宿場の様子を伝えている。
丸子名物・とろろ汁
丸子の宿通りを抜け、街道の難所、宇津ノ谷峠に向かうと、その道中の丸子橋の手前に緑豊かな小公園がある。 そこに「辰石」と書かれた石があり、説明板が設けられていた。 駿府城の石垣石として、近在より切り出されたが、いつの間にか埋もれ、近年の電話線工事で掘り出された石だ。
『午前の陽は流石に眩しく美しかった。老婢が「とろゝ汁ができました」と運んできた。(中略) 炊きたての麦飯の香ばしい湯気に神仙の土のやうな匂ひのする自然薯は落ち着いた美味しさがあった。』 公園には岡本かの子の「東海道五十三次」から抜粋した文学碑も立てられている。
その「西立場 とろゝ汁名物 風味よし」と言われた、とろろ汁を提供するのが丁子屋だ。 広重が描く江戸時代の浮世絵に、タイムスリップでもしたような茅葺き屋根の店舗を公園の隣に構えている。 広重も「東海道五十三次」で、初刷りの「丸子 名物茶店」としてこの名物茶屋・丁子屋を紹介している。 (その後直ぐに「鞠子 名物茶店」と、地名を変更した後刷りを出している)
丸子宿の茶店では、近在の山から掘り起こした山芋が「名物 とろゝ汁」として知られていた。 昔から自然薯が取れ、それを擂りおろし、家伝の白味噌で味付けし、麦飯にかけて食べていたのだそうだ。
「梅わかな 丸子の宿の とろろ汁」 芭蕉が詠んだ名物を、膝栗毛の弥二さん喜多さんも楽しみに店を訪れている。 しかし店先での夫婦喧嘩のとばっちりを、這々の体で店を出て、終には受け食いそびれてしまった。
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