名刹・清見寺の門前町・興津宿

 

興津の宿場は、JRの興津駅前を過ぎた理源寺のある辺りから始まる。

ここの宿内人口は1,600人余りで、家数は316軒、本陣と脇本陣が2軒、旅篭は34軒あったと言う。

当時を彷彿させる物は何も残されてはいない。

僅かに民家の玄関先に、隠れるように立つ一里塚跡の石碑や、東本陣跡の石碑などが立てられているのみだ。

 

興津は古くからこの地方では交通の要衝として知られていて、身延山道はここが追分けである。

またかつては坂東(東北の蝦夷)への備えの為に、「清見関」が設けられていた時期も有った。

 

興津宿

興津宿

興津宿

 

興津宿

興津宿

興津宿

 

興津宿

興津宿

興津宿

 

宿内が途切れる辺りで、道は西に緩くカーブする。

その先に、「東海名区」と書かれた扁額を掲げた山門の建つ「清見寺」が有った。

奈良時代に創建された徳川家康縁の古刹で、元々は清見関の鎮護として建立された仏堂が起こりだという。

山を背景に石段の上に山門が建ち、石垣の上に甍を並べる中々の巨刹らしい風格が感じられる。

しかし、残念なことに境内を東海道線が貫いていて、そんな風情を壊している。

 

「古の海道はうみはたにて・」と言われ、この辺りは三保の松原を望む、清見潟と呼ばれた風光明媚な地である。

かつて明治政府の重鎮達は、そんな地に挙って別荘を建てたと言う。

街道沿いの西園寺公園には、その一つ西園寺公望の別荘・坐魚荘も残されている。

 

 

清水湊で栄えた江尻宿

 


辻町で国道と別れ、右の旧道に入り込むその角に、「細井の松原跡」の石碑が立っている。

その松は一時1,000本ほども有ったらしいが、今残るのは一本の若木のみである。

東海道18番目の宿場町、江尻は丁度この辺りから始まる。

宿内の人口は6,500人程、家屋も1,300軒余りで、本陣が2軒、脇本陣が3軒、旅篭は50軒を数えていたそうだ。

 

江尻宿

江尻宿

江尻宿

 

江尻宿

江尻宿

江尻宿

 

江尻は、駿河国では次の府中に次ぐ宿場として知られ、今ではその古名より清水として馴染まれている。

今日の街道筋は清水銀座として繁華街に変貌し、当時の繁栄を伝えるものは何も残されてはいない。

本陣跡も木戸跡もすっかり町の喧騒に取り込まれ目立たない。

宿内は半里(およそ2q)程先の巴川に架かる河童橋までらしく、橋を渡ると木戸跡の石碑が建っている。

 

 江尻から次の府中までは、二里二十五丁(およそ10q)の長丁場が待っている。

街道を府中に向けて進むと、左手に「是より志三づ(しみず)道」と書かれた追分の道標が建っている。

左の細い道を行けば久能山への参詣道、かつてはここが清水湊に向かう道の分かれ(追分)で有った。

 

江尻宿

江尻宿

江尻宿

 

江尻宿

江尻宿

江尻宿

 

この辺りの地名を追分けと言う。

追分けとは街道が分かれ、分岐する地点のことで、全国には「〇〇追分」と言う地名が今でも沢山残されている。

交通の要衝であり、旅人の休息するための茶屋等が設けられて、やがて宿場や立場として発展したところもある。

そこには街道の名物の「だんご」なども有り、それを楽しみに身体を休める旅人も多かったようだ。

 

 そんな追分には、往来する旅人や馬方、接待する小女や飯盛り女などが多く集った。

人が集まり、酒席が出来、酒等も入れば、そこには自然発生的に素朴な騒ぎ歌が生まれることになる。

それが瞽女や座頭、旅芸人等に歌い継がれ、やがて広く世に知られるようになり、民謡として確立されて行く。

そんな代表的なものとして北海道の「江差追分」は、特に良く知られている。

 

追分羊羹

追分羊羹

追分羊羹

 

 追分けの角に、軒下から赤い大暖簾を下げた、元禄8年の創業と言う老舗「追分け羊かん」の店が有る。

店先で「一人分の小さなものは」と尋ねると、「試食用でよろしければ、あちらに」と店員が言う。

遠慮無く頂きはしたが、さすがにそれだけで済ませることも出来ず、一口羊かんと一口栗入り羊かんを買い求めた。

 

餡を包み蒸しあげた昔ながらの蒸羊羹で、竹の皮を開けると甘い餡子の匂いと共に微かに竹の香を感じる。

清水茶を頂きながら、一口含むと歯ごたえのあるもっちりとした羊羹で、程よい甘さが疲れた体に心地いい。

食べる時手が汚れるので、小さなお手拭きが同梱されているが、その老舗の配慮がなんとも心憎い。

 

 

清水湊の男伊達


 

 『清水湊の名物は お茶の香りと 男伊達』

 

清水は茶の名産地として、又この地を拠点とした「男伊達」清水の次郎長一家が有名である。

数々の武勇伝が知られる次郎長も、その晩年には渡世人稼業から足を洗い、政府要人との関りも多かったそうだ。

「汽船宿・末広」を経営し、英語塾を開設し、富士の裾野の開墾や清水港の近代化にも貢献している。

 

明治26年に74歳で波乱万丈の生涯を閉じたが、葬儀には千人に余る会葬者で盛儀であったと伝えられている。

町内の梅蔭寺には妻や子分と共に眠る墓があり、近くの次郎長通り商店街には生家も残されている。

 

清水の次郎長

清水の次郎長

清水の次郎長

 

清水の次郎長

清水の次郎長

清水の次郎長

(上二段の写真は 「絵で見る次郎長一代記」 次郎長生家・発行より)

 

 「追分け羊羹」の店を後に東海道を先に進むと、都田吉兵衛(通称・都鳥)の供養塔が建っている。

この地を縄張りとする次郎長一家が、フグ中毒で寝込んだと聞き知った都鳥一家9人が清水にやってきた。

追分の酒亭・駕籠屋に入り酒を飲みながら、この機に襲わんと隙を窺っていたのである。

折良くその場にいたのが、次郎長の子分の「追分けの三五郎」(出身は清水の追分ではなく、信濃の追分)である。

 

清水の次郎長

清水の次郎長

清水の次郎長

 

彼の注進でそれをいち早く知った次郎長は、追分の地で酒を飲んで休んでいる都鳥一家を奇襲した。

先の金比羅代参の帰途にだまし討ちされ、28歳で急逝した「子分・森の石松」の無念をも晴らしたのである。

地元の侠客・清水一家に不意打ちを企て、返り討ちに遭った都鳥を、この地では誰も弔う人もいなかったという。

そんな都鳥を哀れんだ里人が、慰霊のために建立したのがこの塔だ。

 

 

「さかなはおほし」湊町

 

「ここは馬の少なき所也。されどさかなはおほし」

 

江尻(清水)はこのように称された土地柄で、駿河の国では次の府中に次ぐ賑わいを見せた宿場でもある。

駿河湾に面し、江戸時代には沼津への舟便の他、巴川の海運、江戸と大坂を結ぶ湊としても繁昌した。

当時の湊は巴川の河口が使われ、岸には駿府奉行差配の蔵が建ち並んでいたと言う。

 

清水魚市場河岸の市

清水魚市場河岸の市

清水魚市場河岸の市

 

清水魚市場河岸の市

清水魚市場河岸の市

清水魚市場河岸の市

 

清水魚市場河岸の市

清水魚市場河岸の市

清水魚市場河岸の市

 

清水魚市場河岸の市

清水魚市場河岸の市

清水魚市場河岸の市

 

今日の清水港は、「日本三大美港」と言われ、マグロの水揚げ量日本一を誇っている。

その為街道筋にも、新鮮な魚介類の料理を提供する食事処は少なくない。

また、JR清水駅東側の海岸沿いには、「清水魚市場河岸の市」と言う、仲卸業者が運営する施設もある。

「まぐろ館」と「いちば館」が設けられ、新鮮な魚介類等が割安で提供されている。

 

エスパルスドリームプラザ

エスパルスドリームプラザ

エスパルスドリームプラザ

 

エスパルスドリームプラザ

エスパルスドリームプラザ

エスパルスドリームプラザ

 

エスパルスドリームプラザ

エスパルスドリームプラザ

エスパルスドリームプラザ

 

またその南には「エスパルスドリームプラザ」と言う施設がある。

清水湊発祥の地の賑わいを、再び取り戻そうと、開港100周年の節目である平成111999)年にオープンした。

観覧車が有り、館内には「清水すし横町」、「清水すしミュージアム」、「サッカーショップ」などがある。

 

 

家康所縁の府中宿

 

東海道線を越え左手の池を回り込み、坂を上り進めば草薙の一里塚跡や、草薙神社の大きな鳥居が見えてくる。

近くには、日米野球が伝説として語り継がれる草薙球場もある。

プロ野球草創期に日本が誇るエースピッチャー沢村栄治と、アメリカが誇る強打者・ベーブルースの対決である。

この辺りは、3000年も前の登呂遺跡が知られているように、古くから農耕文化も栄えていた。

 

 街道はやがて府中の宿場町へと入っていく。

徳川家康はこの地で幼少期を過ごし、その後江戸に幕府を開くと、駿府城を築いたのでここは城下町となった。

予てよりの宿場町は、そんなことも有って東海道では最大規模の宿場として発展した。

家数は3,673軒、うち本陣・脇本陣が各2軒、旅籠43軒を数え、人口も14,000人(江戸後期)を超えている。

家康が将軍職を辞した後にはこの地に住み、亡くなるまでの9年間は大御所さまと呼ばれたそのお膝元である。

 

府中宿

府中宿

府中宿

 

府中宿

府中宿

府中宿

 

 そのためこの地には、徳川家にちなむ寺社や建造物が多い。

又「東海道中膝栗毛」の作者、十辺舎一九の生まれ故郷であり、お城には弥次さん喜多さんの像などもあると言う。

かつての府中宿の中心的な場所は、今日の静岡市の繁華な町並の中である。

再開発された町並は大都会の趣で、広々とした公園のような道路が貫き、大きなビルが林立し賑やかだ。

旧街道沿いの町中には、鍵の手に曲がる通りも残されてはいるが、その他には興味を引かれるものは何もない。

 



 

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