江戸の面影を残す町並 蒲原宿

 

岩淵から新坂を下ると、間もなく蒲原宿の東の入口である東見附跡である。

ここでは日が暮れれば常夜灯に灯がともり、宿場町への入り口を伝えていたと言う。

ここ蒲原は、江戸から数えて37里(およそ148Km)、15番目の宿場町である。

 

 宿場町は駿河湾に面し、富士川の河口に近く、東西に開けたところに発展した。

その為この宿も御多分に漏れず元禄年間の大津波の被害を受け、翌年山側に宿ごと移転した歴史が有る。

駿河湾沿いを西進する東海道の宿場町においては、大津波などの水難は避ける事の出来ない宿命みたいなものだ。

 

蒲原宿

蒲原宿

蒲原宿

 

蒲原宿

蒲原宿

蒲原宿

 

 旧道は交通量の多い県道396号よりは北に一本外れているので、車などの通行は多くはない。

そんな宿場のほぼ中央に、本陣跡(旧平岡家)がある。

その向かいの鈴木家はかつての大旅籠「和泉屋」で、安政年間に建てられた遺構を引き継いでいる。

 

そのほかにも街道筋には、蔀戸の有る家として国の登録文化財になっている味噌醤油の醸造元・志田家がある。

又、格子戸の美しい家として知られる増田家住宅や、土蔵やなまこ壁など昔の姿を留める民家なども多い。

それらが、低い屋並みの、落ち着いた風情のある町並みを形成している。

 

蒲原宿

蒲原宿

蒲原宿

 

蒲原宿

蒲原宿

蒲原宿

 

 街道筋で一際異彩を放っているのが、旧五十嵐歯科医院の建物だ。

外構は薄緑色に塗りこめられた洋館で、大正時代に町家を洋風に増改築したものだそうだ。

ガラス窓を多く用いた外観は、洋風そのものである。

しかし屋内は、和風引き継いでいる言う擬洋風建築で、国の登録文化財の指定を受けている。

 

木戸内1.2qの(東西の木戸に挟まれた地域)宿場に本陣1、脇本陣が3軒有り、旅籠は42軒有ったそうだ。

大きな宿場ではないが、富士川の川留めの対応も有り、大勢の宿泊客で混雑する事も多かったらしい。

かの東海道中膝栗毛では喜多さんが、大名が到着したどさくさに紛れ、台所に忍び込み盗み食いをした宿である。

 

 

小さな宿場町 由比宿

 

 蒲原の西木戸跡を過ぎ向田川を渡り、県道に合流する。

次の宿場由比までは、かつては町続であったと言われ、その距離は1里足らずと近く、およそ1時間の行程である。

東名高速道路を潜った先で左の旧道に入ると、すでに由比の集落に入っている。

暫く行くと電柱の足元に一里塚を示す石柱が建っていたが、うっかりしていたら見逃してしまうほど、目立たない。

 

その先には「曲尺手(かねんて)」が、良く目立つ形で残されていた。

これは宿場の出入り口などに造られた鉤の手状に折れ曲がった道路のことで、「枡形」と呼ばれる事もある。

万一の敵の侵入を防ぐなど治安維持の目的や、大名同士が宿内で鉢合わせしない為の工夫だと言われている。

 

由比宿

由比宿

由比宿

 

由比宿

由比宿

由比宿

 

宿に入ってしばらく行くと「お七里役所の跡」と言うのが有った。

紀州徳川家は、江戸と国元との連絡用に、七里ごとの宿場に中継ぎの役所を置いたと言われている。

ここは由比の役所が置かれた跡だ。

 

民間は「町飛脚(定飛脚)」と呼ばれているが、大名家のお抱えは、「大名飛脚」と呼ばれていた。

役所には、健脚で弁舌と剣術にたけた、五人一組の飛脚(お七里衆)が置かれていたと言う。

腰に刀と十手を差したお七里衆は、御三家の威光を示しながら街道を往来していたのだそうだ。

 

由比宿

由比宿

由比宿

 

由比宿

由比宿

東海道広重美術館

 

 由比宿は鎌倉時代から続く歴史有る宿場町で、かつては「湯居宿」として知られていた。

江戸時代には、宿内人口700人余りの小さな集落で、本陣、脇本陣が各1軒、旅篭は32軒ほどである。

 

宿場中央付近の本陣跡は、約1,300坪と言う広大な敷地で、良く整備された公園として一般に開放されている。

当時の建物が残っているわけではなく、「東海道広重美術館」、「東海道由比宿交流館」などがある。

美術館は有料施設だが、交流館は、観光情報の発信、訪れる人々の休憩施設となっている。

 

由比宿

由比宿

由比宿

 

由比宿

由比宿

由比宿

 

この小さな宿場で、幕府転覆を企てた首謀者、兵学者・由井正雪は生まれている。

幕府に対する不満から、丸橋忠弥らと共に牢人達が、壮大な計画を企み全国で蜂起した。

しかし、内通者が出て事は発覚、計画は半ばで頓挫、正雪は駿府で自刃した。

そんな正雪を、密かに弔い続ける「正雪紺屋」の暖簾を掲げた生家が、今も本陣公園の前に残されている。

 

おもしろ宿場館

おもしろ宿場館

おもしろ宿場館

 

おもしろ宿場館

おもしろ宿場館

おもしろ宿場館

 

宿内の街道筋には、「おもしろ宿場館」と言う、人形などで宿場を紹介するテーマパークのような施設もある。

出桁を設けた「せがい造り」の町屋や、明治の郵便局、国の登録文化財に指定されている銀行の建物がある。

由比川に架かる橋を渡ると、この辺りが西の曲尺手(桝形)跡らしく、宿場の西の出口に当たる。

 

 

名物 桜エビ

 

 奥駿河湾に面した由比は、昔から桜エビ漁が盛んで、街道筋にも多くの専門店が軒を連ねている。

町中のレストランでも、桜エビ料理を提供するところが多く、港にも漁協の直売店「浜のかきあげや」が有る。

名物のかき揚げを求めて、土日には県外からの大勢の来客で行列ができる程だと言う。

かき揚げ丼を初め、桜エビや生シラス、釜揚げをふんだんに使った丼、桜エビドーナツ等のメニューが揃っている。

 

桜エビ

桜エビ

桜エビ

 

桜エビ

桜エビ

桜エビ

 

 ふわふわにまとめられたかき揚げは、煎餅をかじるような感覚で、そのサクサクとした食感がたまらなく美味い。

桜エビ丼は、まずそのままで半分ほど味わい、残したものに用意された昆布の出汁をたっぷりとかける。

あとはお茶漬けのようにサラサラとかき込むのだが、磯の香りがとてもよく、なんとも贅沢なうまさである。

 

 

間の宿・西倉沢

 

 左にJR由比駅を見て、その先の寺尾で県道の横断歩道橋を渡ると、この辺りの標高はおよそ15mである。

低い屋並みが連なる街道は、この先で狭くなり、緩やかに上りながら、標高が80m余りの薩田峠を目指す。

通りの右側には、直ぐそこまで急峻な山肌が押し出し、海が左手間近に迫っている。

 

街道の途中に、その村で代々名主を務めた小池家の屋敷が残されている。

建物は明治のものだが、建築様式には当時の名主屋敷の面影が良く残されていて、国の登録有形文化財である。

その向かい側には、古民家を利用した「東海道あかりの博物館」が有る。

大正時代に建てられた民家を移築した物で、当時の提灯や行灯などの明かりを体験することが出来るという。

 

倉沢の集落

倉沢の集落

倉沢の集落

 

倉沢の集落

倉沢の集落

倉沢の集落

 

倉沢の集落

倉沢の集落

倉沢の集落

 

 一旦集落が途切れるあたりで、上りの勾配がさらにきつくなると西倉沢の集落である。

大名が休憩した川島家は、本陣と呼ばれていた。

明治天皇が東行の折、休まれた柏屋等も有り、軒を連ねている。

文人墨客が富士を望み、磯料理を楽しんだのは茶屋「藤屋」で、その離れ座敷が「望嶽亭」がある。

 

西倉沢は、薩田峠への登り口に設けられた間の宿である。

ここは「上り下り立場なり」と言われた立場で、10軒ほどの休み茶屋が軒を連ねていたと言う。

由井宿から3.6キロ、薩田峠へ1.3キロの地点に、一里塚跡の碑が建っている。

ここからがいよいよ峠に向けた本格的な上り道となり、ミカンやビワの畑に挟まれ道を登っていく。

 

 

薩田峠越え

 

 かつては、この望嶽亭の先から左に取り、海岸に降りるのが街道筋で有ったと言う。

そこは急峻な薩田山塊が、急激に海に落ちこみ、海岸線に平地がない岫崎(くきがさき)と言われる厳しい地だ。

旅人からは、「道中あとをかえりみるいとま無し」と言われたとおり、誰もが難儀を強いられた道である。

人のことは構っていられない、親知らず子知らずとの異名で恐れられた、東海道一の難所でもあった。

 

 当時旅人は干潮を見計らい、砂交じりの波飛沫が吹き付ける中、波が引き次の波が寄せる間を縫って駆け抜ける。

それは周りの人に気を掛ける余裕もない、命がけの通り抜けで有ったようだ。

そんな難儀を解消するため、峠を越える中道が明暦年間(1655)に開削された。

更に山の向こうを回る上道も、天和年間(1682)に整備され、旅人は海岸を行く下道からようやく解放された。

 

薩田峠越え

薩田峠越え

薩田峠越え

 

薩田峠越え

薩田峠越え

薩田峠越え

 

薩田峠越え

薩田峠越え

薩田峠越え

 

 峠への登り道は、曲りくねっているうえ、狭く行き違いもままならない箇所が多く、その上急勾配である。

由比宿の交流館で、女性の職員が「車で峠に向かう観光客には進められない道」と言っていたわけが良く解る。

そんな上り道の途中で、自転車に乗った外国の青年がすれ違いざま「コンニチワ」と挨拶をくれた。

 

ひたすら峠を目指しゆっくり上り、凡そ1時間もかけてようやく到着した。

振り返れば眼下に広がる太平洋、そこに波風を受けるほどに迫り出し、海上を縺れるように伸びる道路と鉄道。

目をその先に転じれば、灰色の山塊の上に秀麗な富士の山が見える・・・。

筈であったが、残念ながら厚い雲に覆われてその姿を見ることは出来ない。

それでもここには、広重の描く雄大な景観そのものの大パノラマが広がっていた。

 

薩田峠越え

薩田峠越え

薩田峠越え

 

薩田峠越え

薩田峠越え

駿河健康ランド

 

駿河健康ランド

駿河健康ランド

駿河健康ランド

 

 薩田峠を越え、ここからは一転してやっと切り通した窪地の様な地道や、階段道で急激に下っていく。

やがて前方に民家などが見え始めると峠道は終わり、墓地の中に入り込むように長山平と呼ばれる地に降りていく。

その先で東海道本線に沿って進み、右に大きく迂回すると興津川に突き当たる。

 

かつて「至って美味也」と言われた鮎が、初夏から中秋にかけて取れたと言う川である。

その辺りで左折し、川に沿って海に向かうと、正面に東海道線のガードが見える辺りが「川越し」の跡だ。

当時興津川は厳冬期には仮橋が架けられるものの、通常は橋や渡し舟は無く、人足による徒歩渡しをしていた。

 

今日の宿は、ここ興津の海岸に建つ、天然温泉を併設した「駿河健康ランド」だ。

ビジネスホテルと健康ランド(温泉施設)が、合体したような24時間営業のリゾートホテルである。

部屋はシングルからダブル、大小の和室、仮眠室まで色々揃っていて、何より入浴施設が充実しているのが嬉しい。

また館内には何カ所もの食事処や、ゲームコーナー、カラオケルームなどがあり、癒やしの施設も備えられている。

 



 

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