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名勝・左富士
「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」
原で生まれ出家し、臨済宗の僧侶となった白隠禅師は、やがては500年に一度の名僧と仰がれる人物となった。 もう一つの過ぎたるもの、東海道筋から右手に見る富士山は、どこから眺めても変わらぬ優美な姿が素晴らしい。 民家が途切れ、周囲に何も遮る物もない所では、左右に延びる長い稜線までもはっきりと見えその姿に感動する。
東海道は、駿河湾から離れ北西方向に進路を変え、その先で東海道本線を越えると左にJRの吉原駅が見える。 行く手正面に前から見えていた、モクモクと白い煙を吐き続ける赤と白に塗り分けられた煙突が目の前に現れる。 ここ吉原は製紙の町で、紙に関連する工場も多く、心なし町の匂いが変わったと思うのは、気のせいで有ろうか。
町中に入り沼川に架かる河合橋を渡り、製紙工場の前から国道1号線を越え旧道に入り込む。 この辺りは工場地帯のせいか大型のトラックが行き交い、歩道のない道も有り危なっかしい。 富士山はこれまで見えていた右手から位置を変えつつあるようで、この辺りでは右手斜め前方に捉えながら歩く。
やがて街道左手に左富士神社があり、そこを過ぎた先の交差点まで出ると、富士を望む風景は一変する。 ここには「名勝・左富士」の立て札が有り、見上げれば富士の姿は思いもかけず完全に左手側に見えている。 街道中でも珍しい景観が望める場所となっていて、広重もここでは「左富士の吉原宿」を描いていた。
津波と戦う吉原宿
吉原宿で富士山が左手に見えるのは、宿場の位置が度々変更されたことによる。 宿場制度が出来た当初の吉原宿は、東から西に向かう街道に沿ったJR吉原駅の東側辺りにあった。 今では元吉原と呼ばれる地であるが、「海水あふれ、民屋ことごとく崩れる」と言われる津波災害が発生した。 結果、十町ばかり北に移されたのが中吉原と呼ばれた地で、今日の左富士神社の有る辺りらしい。
しかしそんな宿場も、今度は高潮の被害を受け、落ち着く間もなく、更に北西の新吉原へと追いやられた。 この度重なる宿場の移転で、街道もその都度付け替えが行われることになる。 結果、これまで東から西に向け真っ直ぐ延びていた街道が、急に北方に回り込む事になった。 一時的に北東に向かう場所ができ、丁度「Ω」の様に回り込み、それが富士山を左に望む形となったのだ。
新吉原宿に入る少し手前の和田川を越える橋を「平家越え橋」と言う。 街道の道標とともに、源平合戦の折の「富士川の合戦」を記念する、「平家越えの碑」が建っている。 この沼地に陣を敷き、源氏と対峙した平家軍は、飛立った水鳥の羽音に驚き、慌てふためいて戦わず総退却した。 それがこの付近らしく、水鳥の生息した沼地は、今ではすっかり工業地帯に変貌を遂げている。
それが製紙の町・富士市の中心街の吉原本町辺りで、商店等が建ち並ぶアーケードのある繁華街となっている。 宿場には本陣が2軒、脇本陣が3軒、旅篭は60軒、家は653軒、宿内の人口も3,000人近くいたらしい。 しかし昭和40年代の土地開発・道路の改修で、吉原町内を通り抜ける東海道の面影は全く失われた。 今では他の宿場同様ごくありふれた町並で、昔の姿を留める物はなく、嵌め込まれたプレートでしか知る術がない。
町中の創業が嘉永年間で、それ以来160年続くと言う老舗の菓子屋、「南岳堂」に休憩がてら立ち寄ってみる。 かつての脇本陣跡に建つ店舗である。 ここは昔からの「栗まんじゅう」や「カステラ」が評判らしい。 また最近では富士山の容を模した「どら焼き」や、焼きプリンなどの洋菓子も人気だと言う。
宿場外れの旧街道筋に、かつて駿河の大地主と言われた「松永家」の邸宅跡がある。 松永家は、東海道の吉原宿と蒲原宿の中間に位置する平垣村に住んでいた。 その財力を背景に、領主から領土の取締役を命じられていた。 屋敷内に陣屋を構え、領主に成り代わって、年貢の取り立て等の業務を代々担ってきたという。
武家風様式の豪壮な邸宅と庭園は、明治の頃には静岡県の名所案内でも紹介される程のもので有ったという。 建物も壮大で、母屋だけでもその建坪が150坪にも及んでいた。 今晩の宿は、「松永家」の邸宅跡に建つというビジネスホテルである。
富士川鉄橋
吉原宿を離れ、高札場跡、間の宿跡を過ぎ県道に合流、JR身延線の柚木駅を左に見て線路を越える。 国道に合流するも、直ぐにまた旧道に外れると四丁川原と呼ばれた地である。 その角に、静岡県内では度々見かけてきた、秋葉山の常夜灯と共に、道標が建っている。 「秋葉山」「町内安全」と彫られた常夜灯は、慶応元年に建てられたものだ。
再び県道に戻ると道は、富士川に架かる鉄橋を目指す、少し上り気味の坂道となる。 やがて橋の手前に松岡水神社(水神ノ森)があり、富士川の渡船場跡の案内板が立っている。 富士川での水難を防ぐために建てられたものらしい。
当時川の両岸には、それぞれ三つの渡船場が設けられていて、この辺りが一番下流の渡し場であったらしい。 流れが速く水量も多いことから、その状況から渡船場を使い分けていた。 「常流には舟渡し」があり「一人十六文」だと言い、「満水には舟止る」と言われた川渡しである。 一般的に使われる船には、およそ30人の乗船が可能で、5人の船頭がこれを操っていたという。
国内では水量豊富で有数な急流として知られる富士川だが、当時の幕府はここに橋を架けることを許さなかった。 それは江戸防備のための戦略で、そのため東岸の岩本村と西岸の岩淵村に渡船業務を許していた。 と同時に川留めなどに備え、東岸の本市場と、川を渡った西岸の岩淵に間の宿を設けていた。 ただ、「間の宿」の宿泊は原則禁じられていたから、旅人はどんな対処を強いられていたのか、気になるところだ。
ここからは天気が良ければ、長く裾を引くコニーデが余すところもなく眺められるらしい。 しかしこの日は生憎雲が多く、橋の上からはその姿を見ることは出来ない。
東海道を行く新幹線や在来線の車窓、高速道路を行き交う車などの車窓からも、富士山はよく見える。 ここは東海道中では、今も昔も富士山が最も大きく美しく見える、絶景のビューポイントである。 (上二段の写真は、新幹線「新富士」駅辺りの車窓より撮影)
河岸段丘の間(あい)の宿・岩淵
間の宿と言うのは、主要な街道において、定められた宿場間の距離が長い場合、その間に置かれた。 又、山越えや川越など、地勢的に難儀を強いられる場所などにも発達した休憩施設のことである。 是まで歩いて来た東海道でも、幾つか見てきた。 戸塚と藤沢の間(7.8Km)の原宿や鉄砲宿、大磯と小田原の間(15.6Km)の二宮宿等がある。 更に、小田原と箱根の間(16.5Km)には畑宿もあった。
当時の幕府は、宿場以外での旅人の宿泊を禁じていたので、これらは宿といえども泊まる事は禁じられていた。 しかし、特別な場合に限っては黙認されていたようだ。 天竜川両岸の間の宿では、川留めなどの場合、宿泊が許されていたのであろう。
渡船に替わる399mの富士川鉄橋を渡ると、当時から富士山を望む町として名を知られた間の宿・岩淵である。 宿は川岸から少し離れた西にある標高500m余りの大丸山などの山裾、富士川の河岸段丘の高台に開けている。
元々は、川岸に有ったようだが、暴れ川と言われる富士川の氾濫で災害が発生した。 加えて、大地震や富士山の噴火等、度重なる被害もあって、宿ごと数十メートル上の高台に移転したからだそうだ。 街道には秋葉神社の常夜灯も多く、村はずれにはエノキの大木の立つ一里塚(江戸から37番目)も残されている。
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