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狩野川が育んだ沼津の宿
東海道は黄瀬川を渡り、旧国名で言えば駿河の国、沼津の町に入ってきた。 この宿場の人口は5,000人余りで、戸数は1,200戸余り、その内本陣が3軒、脇本陣が1軒、旅篭は55軒あった。 漁業の盛んな城下町ながら、旅籠には飯盛り女もいたらしく、揚げ代は五百文だったと伝えられている。
下石田の辺りで、左に狩野川が近づいてくるが、川は高い堤防に囲まれ街道からは川面を見ることは出来ない。 江戸から30里の一里塚が清水町伏見にあるが、塚はこの前の玉井・宝池両寺からは一里に満たない場所だと言う。 この先が宿内となるため、便宜上手前に設けられものらしく、実際地図ソフトで測ってみると3キロ程しかない。
その近くの小公園には「玉砥石」と言うものが有った。 今から千二百年以上も前に、玉類を磨くために用いたと考えられる砥石らしい。 周辺には大昔の集落跡や古墳も多く、そこからは各種の玉類も出土しているという。 しかし、この地域が玉造の郷だと言う根拠が乏しく、謎を秘めた石で、県下では例のない貴重なもののようだ。
その先の地名を三枚橋と言い、三枚の石の板で出来た橋というのがその名の謂われらしい。 橋は東海道が沼津を通るようになった鎌倉時代から有ったことが知られていて、沼津宿の入口に当たる。 広重の描く「東海道五十三次之内 沼津 黄昏図」に描かれているのがこの橋だと言われている。 しかしこの図は一見すると木橋のようにも見える。 市内を流れる狢川(むじながわ)に架かっていたらしいが、今ではその所在はほんの一部に知られるだけのようだ。
旧国道通りから大手町を過ぎ左に折れ、川郭通りに入ってきた。 昔は三枚橋に高札場が有り、水神神社が祀られていて、舟高札場も有った。 沼津は中世から、狩野川の河口に広がる湊町として知られていて、湊は永代橋の辺りまで続いていたと言う。
街道が整備された頃は、物資を輸送する江戸廻しの舟が四艘用意されていた。 また江尻(清水湊)までは、海上七里の渡し舟が有り、船賃は一人50文であった。 陸路を歩けば11里ほどの距離があるだけに、旅人には有りがたいが、西風の吹く海上は常に危険が伴ったと言う。 陸路を行くか海路を行くか、「楽はしたいが命は惜しい」と、悩ましい選択を迫られていたようだ。
幻?の三枚橋城
石畳が敷かれ、整備された道の右手の森が中央公園で、沼津城の本丸跡とされる場所である。 戦国時代には、武田勝頼が築いたと伝えられる、「三枚橋城」があったとされる地だ。 しかし古文書等には「三枚橋城」の記載は見当ら無いという。 僅かに手紙等に、「三枚橋のお城」「沼津のお城」等との記述が認められるだけらしい。
この城は江戸時代には廃城となったが、平成に入りその外堀跡が発見されている。 江戸時代廃城近くに水野氏により沼津城が築かれるのは、160年後の事だが、その規模は三枚橋城より劣っていた。 現代では混乱を避けるため、中世の城を「三枚橋城」、近世の城を「沼津城」と呼び区別しているようだ。
川郭通りから、さんさん通りに出て左折すると、この地の繁華街である。 ここら辺りから先が、宿場の中心的な場所では有るが、見るべきものは何も残されてはいない。 街道は浅間神社の辺りで北西に向かい折れると、西見附跡である。 ここの地名は昔から「出口町」と言うらしく、沼津宿の出口にあることから名付けられたようだ。
途中に「六代松」と書かれた立派の石碑が建っていた。 平家没落後、源頼朝に捉えられた平維盛の子・六大御前は、文覚上人の命乞いで一旦は助けられた。 その後北条時政により再び捉えられ、殺された悲劇を悼むゆかりの松らしい。
新中川橋を渡ると西間門の交差点だ。 その昔、この地の浜で閻魔大王像の首が網に掛かり、見れば首の後ろに「天竺摩伽陀国」と彫られていた。 マガダ国と言うのは、古代インドの仏教の発祥地とも言われる国のことだ。 そこから流れ着いた物なのか、と驚いた村人がお堂を建て、胴体手足を造り足して像を安置したと伝わっている。
ここを左に取れば千本松原に沿った千本浜公園で、そこには千本街道が貫らぬき、左には駿河湾が広がっている。 旧道は交差点を右に行くことになるが、そのすぐ右手を東海道本線が走っている。 途中三本松辺りで線路を越えるが、これらの道と線路は田子の浦辺りまでほぼ真っ直ぐに並走している。
この辺りが沼津藩の西堺らしく、それを示す立派な榜示杭が立てられている。 沼津藩により立てられた石柱ではあるが、明治末期頃に下半分が折れ、その上部だけが残されたものだ。 そこには、「従是東沼津領」と書かれていたと推測され、ここで沼津の領地を外れる事になる。 この先原宿までは、1里半(約5.9q)ほどの距離である。
富士を友に原宿へ
右手には時々民家の切れ目から、雄大な富士の姿も見え隠れしている。 多少雲はあるものの良く晴れた青い空を背景に、山頂付近に雪の残る富士の姿がくっきりと浮き上がっている。 見飽きることもなくいつ見ても富士の姿は美しく、思わず足を止めて見入ってしまうほどその姿は神々しい。
東海道と富士山は切り離しては語れない縁がある。 江戸・日本橋を発つ折は、富士山は遙か遙か先に、小さく小さく霞んでいた。 それがこの辺りまで来ると、どんどん大きくなり、時には雄大な裾野まで見通すことが出来るようになる。
あの広重も、こんな富士の姿に感動を覚えたのであろう。 「東海道五十三次 原 朝之富士」は、朝日を受け淡い紅色に染まる富士の姿をどこよりも大きく表現している。 そこには浮島が原を行く街道から、富士の峰に続く箱根・愛鷹の山並みを仰ぎ見る旅人の姿も描かれている。 当時から人々は、富士の姿に畏敬の念を抱き、旅先でも勇気づけられていた様子を窺い知ることが出来る。
宿場町・原の町並に入ってきた。 右手に浅間神社が有るが、昔はこの辺りが宿の中心地で、ここに高札場が有った。 宿場は本陣1、脇本陣1、旅篭25軒、家数398軒、人口は2,000人にも満たない小さな規模の宿場である。 それだけに、「此宿も女郎無し」と言われた、賑わいの乏しい宿場町であったようだ。
本陣を務める渡邉家は、昔からの名士・大地主で、山林や田畑を合わせると6,600坪を所有していたらしい。 家は間口が15〜17間で、建坪は235坪もあり、明治維新には東幸の明治天皇が休憩された場所と伝えられている。 しかし残念ながら、このような旧宿場町を彷彿させる古い建物や遺構等は何も残されてはいない。 今日ではごく普通の、車や人が行き交う賑やかな町並が両側に続いているだけだ。
原宿を後に街道を西に向けて進む。 この辺り、左手は千本松原で、更にその先には駿河湾が大きく広がる海岸線である。 近い将来に想定される大地震への備えか、巨大な防潮堤が聳え立ち、海を見通すことが出来ない。 しかし右手には、行く先々で富士山がその雄大な姿を覗かせ、見飽きることもなく旅心を慰めてくれる。 右手にJRの東田子の浦駅を見て暫く進むと、田子の浦の松並木が見えてくる。
スイホシと千本松原
そんな道中には、昭和放水路を越えるとその岸に増田平四郎の像が建てられていた。 江戸時代、平四郎は大飢饉や度重なる水害から村民を救済するため、浮島沼の大干拓を計画した。 この地は富士川から流出する堆積土砂で浅い沼沢地と化し、一旦大雨が降ると湖のようになる浮島沼であった。
平四郎は、身延山久遠寺から多額の資金援助を受け、幅7m全長505mの水路をこの位置に完成させた。 それは計画の発案から27年目の明治2(1869)年春の事で、地元の人々が「スイホシ」と呼ぶ大排水路である。 しかしあろう事かその年の夏高波を受けて苦心の水路は跡形も無く壊され、彼の大計画は途中で頓挫してしまった。 その後、彼の願いを受け継ぎ、昭和18(1943)年になり、ほぼ同じ位置に昭和放水路がつくられたのである。
途中で街道を外れ、千本松原に入ってみた。 木陰が作る空間は、アスファルトの道を外れると、足元も柔らかく、気温も多少下がったようだ。 松葉か、生い茂る草なのか、緑の匂いも感じられるようで、とても気持ちがいい。
かつては武田勝頼が、合戦に備え伐採してしまい、その後植林されたのがこの松林らしい。 近年になって再び伐採計画が持ち上がった折り、保存活動の先頭に立ったのが歌人の若山牧水であった。 毎日散歩するこの地を、何としても残したいとペンを持ち、熱弁で訴えたと伝えられている。
この地では、ふる里をこよなく愛す先人達の熱い思いが感じられた。 辛苦を厭わない苦難の歴史は連綿と引き継がれ、結果豊かな実りをもたらす田畑と、美しい松原が残されている。 松林越しに望む、変わらぬ姿の富士のお山は、そんな人々の営みを優しく今日も見下ろしていた。
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