三嶋大社

 

 三島宿の中心、三嶋大社にやってきた。

平安時代から三嶋明神と呼ばれ、伊豆の国の一宮として広く信仰を集めてきた古社である。

伊豆・韮山の蛭が小島に流された源頼朝が、源氏の再興を願い、百日祈願をしたことでも知られている。

頼朝は伊豆に挙兵した第一戦では、その勝利の報告に参拝している。

その折境内で腰を下ろした石は、境内に残り今も伝えられている。

 

三嶋大社

三嶋大社

三嶋大社

 

三嶋大社

三嶋大社

三嶋大社

 

三嶋大社名物 福太郎餅

三嶋大社名物 福太郎餅

三嶋大社名物 福太郎餅

 

 街道に面して立つ石の大きな鳥居をくぐると、境内には石敷の参道が本殿に向け真っ直ぐに延びている。

総門を、更にその先の神門を潜り、舞殿を回り込めばご本殿である。

境内に高さ15m、目通りの幹回りが3m、樹齢1200年と言う金木犀の大木が有り、天然記念物に指定されている。

開花時にはその芳香は馥郁たるもので、それは風向きによっては10キロにも及ぶと言う。

 

三嶋大社

三嶋大社

三嶋大社

 

三嶋大社

三嶋大社

三嶋大社

 

 十辺舎一句の「東海道中膝栗毛」の弥二さん喜多さんは、決して品よく行儀の良い道中を続けている訳ではない。

酒や性、滑稽を楽しむ浮薄な浮世人そのものの旅を楽しんでいる。

今流にいえば世間のマナーなんて糞っ喰らえ、とばかりに荒唐無稽な事件を行った先々で繰り返している。

 

この地では道中で道連れとなった男と三人連れで、子供から買い取ったスッポンを手にとある宿に草鞋を脱いだ。

女子衆に料理させ、一杯やろうと言う算段では有ったのだが・・・。

ここはなにしおう三島女郎衆の地、おとなしくできるはずもなく、大枚を叩いてお決まりの夢を結ぶ。

 

宴が終わり寝静まった頃、食いそびれたスッポンが這い出して、あろうことか弥次の指に食いつき宿は大騒ぎ。

このすきに連れの男・十吉は弥次の有り金全部奪って姿を消してしまう。

何のことは無い、道中で意気投合し連れになった男は、旅人の懐中を狙う胡麻の灰だったのだ。

路銀を無くした二人はこの先しばらく、文無しの貧乏旅を強いられることになる。

 

 

縁起餅 福太郎

 

境内の一角に「三嶋大社名物 福太郎餅」と書かれた看板を見つけ、立ち寄ってみる。

大社の神事に登場する「福太郎」に因む、福を授けると言う縁起餅らしい。

古来より邪気を払い滋養にも富むヨモギを餅に搗き込み、顔に見立てて丸めた団子に、こしあんを被せ包んでいる。

巷ではこの姿を、リーゼントと言って持て囃している向きもあるようだが、これは烏帽子に見立てたものだ。

 

三嶋大社名物 福太郎餅

三嶋大社名物 福太郎餅

三嶋大社名物 福太郎餅


 

三嶋大社名物 福太郎餅

三嶋大社名物 福太郎餅

三嶋大社名物 福太郎餅

 

一口で頂ける小ぶりの草餅で、程よい甘さのこしあんは、共に供される「ぬまづ茶」との相性も良い。

歩き疲れた身体を癒してくれ、まさに門前の名物に美味いもの有りである。

あの弥二さん喜多さんは、無一文になってこんな美味しいものを喰いそびれたのかも知れない。

投宿前に立ち寄っていれば良いが、と思ったりもする。

 

 

三島宿

 

広重の東海道五十三次・三島の宿では「三島 朝霧」として描かれている。

籠と馬に乗りこれから箱根西坂を目指す旅人の背景に、霞む姿で灯籠と共に大鳥居の建つ三嶋大社の構図だ。

 

三島の宿は箱根を目指す旅人には、距離的にも、鋭気を養うためにも、必ず泊まらなければならない宿場である。

また山を下って来た旅人は、疲れを取り、次への供えのための休息地であり、或は宿泊地でもあった。

その為、旅篭の数は何と70軒を超えていたと言う。

当時人口は4,000人、戸数1,000戸余り、本陣が2軒、脇本陣は3軒の宿場町としては、かなり多い方である。

 

ここは東海道の宿場町であると同時に、下田街道や甲州街道が交差する交通の要衝であった。

加えて三嶋大社の門前町として大層な賑わいを見せたところである。

町の中心部には問屋小路と呼ぶ鎌倉に続く古道も有り、三島にはこのような小路が八本もある。

 

三島宿

三島宿

三島宿

 

三島宿

三島宿

三島宿

 

三島宿

三島宿

三島宿

 

宿場町は、現在の三島市本町辺りに有った。

三島女郎衆が広く知られた所らしく、人足が一人34文に対し、飯盛り女郎は500文と言われている。

当時のガイドブックにも、「いにしえより名高し」と書かれているそうだ。

元気付けのウナギも名物らしく、今日でも町には、うなぎと書かれた暖簾を掲げる店が多い。

 

 宿場の中心地に、当時を偲ばせる遺構は残念ながら何も残されてはいない。

この付近にはホテルや銀行、飲食店や商店、事務所など様々な建物が建ち並び、繁華な町並を形成している。

郵便局の角を少し入ったところには問屋場跡があるが、小さ木札で忍ぶのみである。

ここを少し行った店先には、世古本陣跡や、通りを隔てた反対側には樋口本陣跡などの記念碑が立てられている。

しかしどれも喧噪に隠れ、何れもうっかりしていると見落としてしまいそうなぐらい目立たない。

 


 

 

 市内の白滝公園の近くに、川の流れに沿って「静岡まちなみ50選」に選定された「三島水辺の文学碑」がある。

大社とJRの駅を結ぶ位置に有り、桜川に沿って当地所縁の作家や文学者等著名12名の文学碑が建ち並んでいる。

流れる用水路の川面では、カルガモの姿を目にすることもあるらしいが、生憎この日は一羽もいない。

煉瓦鋪装の歩道には、柳並木が続き、その根元には地元のボランティア活動による草花が彩りを添えている。

 

三島水辺の文学碑

三島水辺の文学碑

三島水辺の文学碑

 

北海道生まれの作家・井上靖は、中学時代に両親の元を離れ、祖母と伊豆の湯ヶ島や、浜松、沼津等で生活した。

その体験を「しろばんば」「あすなろ物語」「夏草冬涛」など、自叙伝的小説に幾つも残している。

ここには昭和29年に発表された「少年」の一説、初めて目にする三島の町への驚きが刻まれている。

山村育ちの少年達が、町の賑わいに、おっかなさを感じ、少し腰が引けた様子が何とも微笑ましい。

 

三島水辺の文学碑

三島水辺の文学碑

三島水辺の文学碑

 

 十返舎一九の東海道中膝栗毛からは、弥次さん喜多さんが三島の宿で宿探しをする場面が刻まれている。

投宿そうそう湯屋に飛び込んで、その後のスッポン騒動に繋がる部分である。

 

他にも太宰治の「町中を水量たっぷりの澄んだ小川がそれこそ蜘蛛のすのやうに縦横無尽に残る隅なく駆け巡り

(中略)三島の人は台所に座ったままで清潔なお洗濯ができるのでした。」の一文もある。

(「老(アルト) ハイデルベルヒ」 太宰治 昭和15年)

 

三島水辺の文学碑

三島水辺の文学碑

三島水辺の文学碑

 

司馬遼太郎は、三島の湧水について寄せた一文が紹介されている。

「むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの三島の市域にまできて止まり、冷えて

岩盤になった。(中略)融けた雪は山体に滲み入り、水脈に入り、はるかに地下をながれて、溶岩台地の縁辺で

ある三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して湧くのである。」(「裾野の水」 司馬遼太郎 昭和61年)

 

 

伏流水の流れる町

 

 三島は伏流水による湧水が豊富な町である。

街道を歩けば、御殿川や源兵衛川を越えるが、これらは川と言うよりも用水で、何れも源は富士の伏流水らしい。

地図で確認すれば池・川・用水など、水色で表示される流れが、随分と多いことが見て取れる。

源兵衛川も、伏流水の湧く楽寿園の小浜池から引く人工的な農業用水で、河川工事に関わった人物名に由来する。

 

 源兵衛川を渡るとすぐのところに三石神社と言うお社が有り、その境内に時の鐘が有る。

コンクリート製の台座の上に建てられた鐘楼のような姿をしている。

寛永年間から宿場の人々に時を知らせた鐘で、今の鐘は第二次大戦後復興され、除夜の鐘として撞かれると言う。

境内は川の流れに沿った公園として整備され、蛍の幼虫の放流も行われていて、市民の憩いの場になっている。

 

伏流水の流れる町

伏流水の流れる町

伏流水の流れる町

 

伏流水の流れる町

伏流水の流れる町

伏流水の流れる町

 

 「富士の白雪ノエ 富士の白雪ノ〜エ 富士のサイサイ 白雪朝日でとける♪

とけて流れてノ〜エ とけて流れてノ〜エ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ♪

三島女郎衆はノ〜エ 三島女郎衆はノ〜エ 三島サイサイ 女郎衆はお化粧が長い♪」

 

 江戸末期、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門は国防を訴え、外敵から国を守る為反射炉を築き大砲を制作した。

その傍ら、若い農夫を集め訓練をする調練所を開いた。

その跡地は今の市役所がある辺りと言い、今そこには記念碑が建てられている。

 

伏流水の流れる町

伏流水の流れる町

伏流水の流れる町

 

伏流水の流れる町

伏流水の流れる町

伏流水の流れる町

 

伏流水の流れる町

伏流水の流れる町

伏流水の流れる町

 

その教練で行進曲として使われ、その故事にあやかり街道筋で流行したのがしりとり歌である「ノーエ節」だ。

それを基に今の「農兵節」が作られ、レコード化されたことも有り全国に広まったのだそうだ。

昔は宴席でよく歌われたらしく、今でも三島夏祭りでは欠かせないものになっているという。

 

 右手に三島広小路の駅を見ながら、伊豆箱根鉄道線の踏切を渡る。

しばらく行くと、町中の道路脇にも大きな看板が立っていた。

「富士の白雪 朝日にとける とけて流れて 三嶋にそそぐ 三嶋女郎衆の 深情け」と書かれている。

県の民謡「農兵節」をもじったものであり、この歌がこの地に根付いた本家本元である事を実感する。

 

 

西の見附

 

街道に火除けの神として崇められる秋葉神社があり、江戸・弘化年間に建立されたと言う常夜灯が残されている。

両側には、冨士浅間宮、秋葉大権現と彫り込まれている。

村人が大火の災害から宿場を守ろうとの願いを込めて建立したものらしい。

 

丁度このあたりが西の見附跡だ。

見附というのは石塁で築いた枡形の門のことで、枡形には大木戸(出入りするための扉)が付けられていた。

宿場町を挟んで東西に有り、東を江戸口、西を京口等とも呼んでいる。

 

大木戸は原則的には、明け六つ(日の出の頃)に開けられ、暮れ六つ(日の入りの頃)には閉じられていた。

当時は灯りの乏しい時代であったため、太陽の明かりがある時間帯が昼、それが沈み暗くなれば夜としていた。

その為宿場町の治安維持の名目で、この出入り口では、明るい時間帯だけ通行が認められていたのだ。

 

西の見附

西の見附

西の見附

 

西の見附

西の見附

西の見附

 

西の見附

西の見附

西の見附

 

この辺りには小田原北条氏ゆかりの千貫樋の疎水が流れている。

池の水を駿河の国に引いたもので、関東大震災で壊れるまでは木製で有ったそうだ。

 

千貫樋の疎水を後に、さらに先に進むとその道の両側に江戸から29里を示す一里塚がある。

宝池寺一里塚は復元されたものだが、右側の玉井寺のものは良く原形をとどめていて史跡に指定されている。

玉井寺には、江戸中期の禅僧・白隠の「三界萬霊等」と肉太の筆跡で雄渾に書かれた遺墨が残されているという。

 


 

黄瀬川の対面

 

 その先で国道1号線を越えしばらく行くと、右手奥の林の中に長沢の八幡神社が建っている。

ここは「対面石」で知られたところだ。

伊豆を平定した源頼朝は、平家との富士川の合戦の為、この黄瀬川八幡に本陣を構えていた。

そこに駆け付けたのが、奥州平泉で藤原氏の保護の元、機が熟すのを待ち焦がれていた腹違いの弟・源義経である。

 

黄瀬川の対面

黄瀬川の対面

黄瀬川の対面

 

黄瀬川の対面

黄瀬川の対面

黄瀬川の対面

 

黄瀬川の対面

黄瀬川の対面

黄瀬川の対面

 

 二人はこの地でこれまでの辛苦と、打倒平氏・源氏再興を語り合い、共に懐旧の涙にくれたと言う。

少し高さと大きさの違う石が二つ向かい合うように置かれていて、これが、二人が腰かけて対面をしたと言う石だ。

義経は源氏の最前線で戦い、屋島から壇ノ浦に平家を追い込み、終には海の藻屑と葬り、源氏勝利の立役者となる。

しかしどこで釦が掛け違ったのか、その後の兄の冷たい仕打ちは兄弟の確執に変わってしまう。

追い詰められた義経は主従共に逃れるが、追い打ちを掛ける頼朝によって、平泉で劇的な最後を迎える事になる。

 

黄瀬川の対面

黄瀬川の対面

黄瀬川の対面

 

黄瀬川の対面

黄瀬川の対面

黄瀬川の対面

 

 再び旧道に戻り、その先で黄瀬川を越える。

右手に潮音禅寺を見れば、街道は旧木瀬川村から旧下石田戸村へと入って行く。

今は何も残されてはいないが、丁度この辺りに「従 是西沼津領」と書かれた傍示杭が立てられていたようだ。

東海道五十三次は三島の宿を後にして、伊豆国と分かれ、いよいよ駿河国に入り、沼津の宿に向かうことになる。

 



 

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