箱根の雲助と徳利の墓
箱根西坂の大枯木坂から小枯木坂を下り、一旦国道に出てそれを横切り、再び旧道に入る。
しばらく行くと道端に一風変わったお墓が立っていた。
「雲助徳利の墓」と言われるもので、ある雲助を供養する墓だそうだ。
その墓石には徳利と盃が浮き彫りにされていて、誰が供えたものなのかそこにはカップの清酒が置かれていた。
さる西国大名家で剣術指南を務めたが、酒で事件を起こし追放され、この地で雲助仲間に入った人物の墓らしい。
元々腕がたち、読み書きができるとあって、仲間から親分のように慕われたと言う。
しかし、酒好きは収まることもなく、結局酒で命を縮めてしまい、仲間が頭を偲んで建てた墓である。
箱根の雲助と聞くとテレビや映画等の影響か、どうしても強盗や追剥を働く無法者を連想しがちだ。
中には一部、本当に悪事を働くものもいたらしいが、その実態はどうもそうではなかったようだ。
元々雲助と言われるのは、小田原の問屋場に登録され、そこで働く人足のことだ。
この仕事に就く条件は殊の外厳しく、三つの関門をパスしなければなれなかったと言われている。
一つ目は力が非常に強いことで、これは絶対条件であり、二つ目は荷造りの技に長けていることであった。
三つ目は意外なことに唄が上手いことで、これらが揃っていないと一流とは認められなかったそうだ。
こうして荷物を扱う人足の他にも、馬を引く馬子や、籠を担ぐ駕籠かきなどの雲助がこの地に住み着いていた。
箱根の山の道案内をし、街道を上り下りする旅人の手助けをしていたのが、雲助達である。
こわめし坂
その先で国道に出ると山中の集落で、道路の反対側に「史跡 山中城址」入り口の案内札が立っている。
北条氏が小田原城を防御するために建てたものだが、秀吉により半日で落城の憂き目を見た城である。
今は草地に、土塁や塀の跡が僅かに残るのみだ。
上長坂を経て、箱根旧街道の標識に従い国道を横切り、「こわめし坂(下長坂)」に向かう。
誰を弔う物なのか、取り付きに小さな地蔵小屋があった。
そう言えば先ほど下ってきた石荒坂の途中にも、「念仏岩」と言われる大きな供養の岩があった。
当時は街道を行く人々が生き倒れる事も日常的に起きていて、哀れに思った土地の人が弔っていたようだ。
そこから始まる坂は、見た目でもその厳しさが良く解る、つま先に負担が掛かりそうな結構な勾配だ。
地元には、面白い言い伝えが残されていて、それがこの坂の名の謂れとなったという。
米を背負って坂を上ると、本人の出す汗と、身体から発する熱で、米が炊け強飯(こわめし)になるほどだと言う。
ここら辺りまで来ると、標高は370m余りで、かなり山を下ったことが実感できる。
所々で行く先が開け、目線の先には遙かに太平洋を望み、手前にはその前に広がる三島の町並みが見えてくる。
場所によっては天気さえ良ければ、富士の姿も見かけることが出来るらしい。
しかし今日は、生憎雲の多い日で、それを見つけることは出来なかった。
六地蔵と馬頭観世音
視界が開けると、はっきりと三島の町が遠望できるようになる。
気は急くが、勾配のきつい下り坂の連続は、以外と厳しく足元に注意も必要で急ぐわけにはいかない。
途中、三ツ谷集落に松雲寺という寺があった。
上洛の大名や、江戸参府の朝鮮通信使などの休憩場所として使われた「寺本陣」と呼ばれた寺らしい。
明治に入ると、全国を巡られた明治天皇が東京への帰途、小休止された所としても知られている。
所々で新道を歩き、かと思うと思い直したように旧道に入りこみ、依然として続く坂を延々と下る。
更に小時雨坂、大時雨坂を下ると、題目坂の畑の中に、六地蔵が祭られていた。
一般的に六地蔵は、六体の地蔵様か、六カ所に祀られた地蔵様の事を言うが、何故かここのは13体の地蔵様だ。
赤い毛糸の帽子をかぶり、赤い前垂れが愛くるしいお姿のお地蔵様で、ホット一息つける場所でもあった。
その先で鋪装道を外れ、臼転坂に入る。
牛が道で転がったとか、臼を転がして運んだためとか、その名の謂われが伝えられている坂だ。
鬱蒼と木立の茂る草深い道で、陰湿な雰囲気の、峠付近のこんもりとした丘の袂に、馬頭観世音が祀られていた。
家康による伝馬制が成り、街道には人や荷を運ぶ手段とし馬が行き交うと、当然馬に纏わる事故も増えてくる。
中には急死する馬もいたらしく、長年連れ添った相棒である愛馬の供養として建てられた石碑だと思われる。
少し気味の悪い小さな峠の道を抜け、石畳の坂を下り切る。
やがて車の喧噪が聞こえると国道1号線との合流地点で、その片隅に大きな自然石の「箱根路の碑」が立っている。
ここまで来れば、三島の宿場はもうすぐそこである。
ここまで下ってきた者には、これまでの長く厳しかった峠の上り下りがようやく終わったことを実感できる場所だ。
また、これから箱根の山を登る者には、いよいよ始まる厳しい上り道を思い浮かべる所でもある。
ここは初音ケ原と言われるところだ。
左に伊豆フルーツパークを見て、三島塚原ICの広い交差点を越える。
その先で伊豆縦貫道であろうか、自動車道を越えると、国道1号線と並走する松並木の続く石畳道となる。
そんな石畳道の松並木は凡そ1キロの間に残されていて、三島市内では唯一のものだそうだ。
途中には松並木の道路を挟んだ両側に、国の史跡に指定されている「錦田の一里塚」が旧態も良く保存されている。
江戸日本橋から28里(約112Km)、三島へ半里(約2Km)の地点だ。
この公園の遊歩道のようによく整備された道は、1988年に静岡県まちなみ50選に選ばれている。
箱根の道は元々関東ローム層という赤土で、しかも急坂続きとあって、人も馬も滑って難儀を強いられていた。
対策として当初は、箱根に自生する「ハコネダケ」を刈り取り束ねた物を敷き詰めていたらしい。
しかしその刈り取り作業も大変で、毎年莫大な費用が掛かることが問題視されていた。
そこで1680年頃から、順次石を敷き詰めた「石畳の道」への改修が進められてきたのだそうだ。
道は凡そ二間幅(約3.6m)と定め、西坂はローム層の上に直接石置き並べたという。
一方東坂は少し手を加え、土層の上に小石を積み上げ、その上に石畳を組んでいるという。
箱根の道は、赤土の急坂で滑りやすいため、石畳道が早くから普及し、昔の人は石畳道を草鞋履きで歩いていた。
色々な説があるが、草鞋は普通の地道なら三日程度は持つとか、数里歩くとすり減るとか言われている。
しかしこのような石畳道が続くと、一日に二足は履きつぶしていたらしい。
多くの旅人は予備の草鞋を持ち歩き、痛んだら履き替え、履けなくなった草鞋は、路傍の木々に吊しておく。
このことで予備を持たない旅人は急場を凌ぎ、銭を持たない貧しい旅人もそれを使う事が出来た。
更に使えない物は決められた捨て場に捨て、そこで発酵させたものを肥料にして再利用していたという。
当然宿場内や街道の茶店などでも、旅の必需品として草鞋が売られていたようだ。
広重が描く「東海道五十三次之内袋井出茶屋ノ図」には、茶店の小屋の屋根から吊された草鞋が描かれている。
値段は今の金額に換算すると、四五百円程度と言うから、決して安くはなかったようだ。
箱根最後の坂
箱根湯本の三枚橋で箱根東坂に足を踏み入れ、観音坂、葛原坂、女転ばし坂、割石坂・・と坂を上ってきた。
近くの二子山から切り出された石を敷き詰めた石畳道は、何れも名うての急坂であった。
猿滑坂、白水坂、天ケ石坂で辛い坂を上り終えると、次の権現坂は下りに転じ、行く手に芦ノ湖が飛び込んで来た。
坂を下りきり杉並木の道を進み、箱根の関所を越え、その先で標高849mの箱根峠もやり過ごしてきた。
三島の宿場に向かう箱根西坂は、「ハコネダケ」の自生する石畳の旧道が入口で、始まりは甲石坂であった。
ここからは石原坂(石荒坂)、大枯木坂、小枯木坂、こわめし坂、大時雨坂、小時雨坂・・と下り坂が続いていた。
これらはいずれも決して楽な下り坂ではなかったが、ようやく住宅街を下る愛宕坂にやってきた。
長さ140m、幅3.6mの当時の石畳は、1769年に竹敷きの道から改修されたものだが、この下に埋まっているらしい。
その先の五本松で国道と別れ、東海道線を踏切で越えると、川原ケ谷の今井坂だ。
どうやらこれが箱根西坂では最後の坂のようで、もはやその勾配は緩く、大した坂ではない。
馬や牛が転び、女が転び、猿さえ滑り、米さえ蒸し上がり、臼が転がった箱根八里の難所がようやくこれで終わる。
坂を下りきり、大場川に架かる新町橋を渡るが、この橋が三島宿の入り口にあたる。
ここは安藤広重の「東海道五十三次三島狂歌入り」に、雪景色の富士山として描かれた場所である。
昔から富士山を望む絶景のビュースポットである。
箱根を下る西坂には途中に富士見平と言う地が有り、初音が原近くには富士見ヶ丘と言うバス停も有った。
かつて芭蕉はこの地で、「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」の句を残している。
この辺りでは、富士が見えることは当たり前の日常的な風景で、むしろ見えないことが珍しかったのであろう。
このように箱根八里は、いたるところから望む富士を友として歩く道でもある。
多くの旅人は、苦しい上り坂でも辛い下り道でも、何時も見え隠れする霊峰・富士の姿に心和ませていた。
それを糧としてパワーをもらい、力を振り絞って歩いてきたが、それは今も昔も変わらぬ旅人の姿である。
旧東海道は、三島の町並みの喧騒の中にすっかり入り込んできた。
新町橋を渡ると三島宿の東見附跡で、そこから更に町中を500m程歩くと、右手前方に緑豊かな森が見えてくる。
三嶋大社の大鳥居はもうすぐそこである。
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